第28話 ざわめく感情
ぺちゃくちゃと一人で一頻りおしゃべりを楽しんだ後、洗濯物があるから、と言って里沙さんが病室を出ていくと、あとには静寂が残された。
口火を切るものは誰もいない。依然として睦月は正人をぼんやりと眺めているばかりで、俺は俺で睦月と正人の間でなんとなく視線を泳がせていた。岸本は岸本で、部屋の隅で椅子にどかりと座ったまま、腕組みをして固く唇を引き結んでいる。……それこそ仁王像もかくやという顔つきで無言でいる様は、なかなかに恐ろしげであった。
……気まずい。
というか、辛気臭い。
それもそのはずである。なんせこの場にいるのは、意識不明の病人が一人と、金剛力士像が一体。そしてショック症状のせいか、ほとんど心神喪失状態の女が一名という、その場の空気を重くすることにかけてはいずれも非の打ちどころのない猛者ばかりなのである。
そんな空間に放り込まれて、辛気臭くないわけがない。雰囲気は秒刻みで重々しいものになっていくばかりで、いるだけで気分が地の底目掛けて沈み込んでいく一方だ。願わくばカムバック里沙さん。あなたの絶え間のないおしゃべりで、どうかこの場の空気を支えてくださいお願いします。
などと願えど祈れど是非もなし。実母と言えど、正人にばかり時間をかけてもいられないのだろう。主婦という職業の忙しさがいかほどかは学生の身には推し量ることなどできようもないが、まったくの暇人などということはあり得まい。ましてや里沙さんは、昼間は外に出て働いている身分。忙しくない、わけがない。
ひそやかに嘆息を漏らす。このまま無言でい続けるのもつらい。が、なにかを言ってまるで反応がなかったりしても、それはそれで虚しい気もする。
となれば、ここでまず口にするべきは、場を和ませる小粋なジョークに他ならない。ところがこの俺、悲しきことにコメディアンの真似事で人を楽しませる才能は小さじ一杯分ほども持ち合わせていないのである。
「……」
万事休す。
正直、進退窮まっていた。
「あ、あー……なんだ、その」
それでも思い切って口を開いてみる。
「意外と……元気そうだったな、おばさんも」
「……」
「正人だって、なんかほら、あれだけど、あれ……うん、ええと、お変わりなく……」
穏やかというか、静かというか。
微動だにしないというか。
……そして俺の言葉に、誰の反応もないというか。
なんかもう、本当に息が詰まりそうだった。
そっとため息をつく。岸本は、まあ、いい。もともと、あまり無駄口を叩かないタイプなのだろうことは想像がつく。この手の雑談を交わせるほど、親しい仲というわけでもない。
だけど睦月の方は、やっぱり少し心配だった。反応がないというよりも、こちらの声が耳に入っていないようにも見えた。どこか上の空で、俺の存在に気付いているかどうかすらも怪しい。
このまま、フッといきなり消えてなくなってしまいそうな……それぐらいに、彼女のまとう雰囲気は弱々しくて、そして儚い。
だから睦月がそこにいることを確かめたくなって、気づけば俺は彼女の肩を掴んで揺らしていた。
「おい、睦月」
「……」
「睦月ッ」
「……あ」
幾分、語調を強めて名を呼ぶと、ようやく睦月は反応を示した。人形の目玉みたいな、ガラス玉のような瞳を、おぼろげにこちらへと向けてくる。
その瞳が理解の色を宿すのにも少々の時間を要した。だがそれでも、どうにか彼女は俺のことを無事に認識してくれたらしい。もはや色を失って久しい薄い唇で、彼女はこちらの名を口にした。
「大樹君……ですか」
「そうだよ。……さっきからいたんだけどな」
「いえ、あの……そうですね。すみません」
「すみませんって、お前な」
「ごめんなさい。気づいていなかったようです」
そう言って目を伏せ、彼女はまた呟く。
「……すみません」
「……っ」
「大樹君?」
こちらが唇を噛み締めた気配に気づいたのだろうか。窺うような様子で、彼女が俺を見上げてくる。
「……いや、なんでもない」
心とは裏腹に、そんな言葉を口にする。
なんでもなくはなかった。
ただ、なんでもないわけがないのは、俺よりもむしろ睦月の方である。彼女の様子は、ずっとおかしい。あの日……正人の事故があった時から、ずっと。
まず、ほとんど自分からは口を開かなくなった。
学校に顔を出すことが極端に減った。
そしてなによりも、口を開けば謝罪の言葉ばかりが口を突いて出るようになった。ごめんなさい、すみません――そんな言葉で自分を詰らずにはいられない心地なのだろう。
睦月は正人に守られた。彼女を庇って、正人は車とぶつかった。
その一部始終を目の当たりにした睦月が塞ぎこむのは、無理のないことなのだろう。誰よりも大きな衝撃を受けるのも、至極当然のことなのであろう。
それが分かるのに……いや、分かるからこそ、俺は悲しい気持ちになる。もともと、笑顔を作るのが下手だった睦月。
彼女の顔から笑顔が喪われてしまっている姿は、とてもじゃないが正視に耐えない。
だからなんだろう。言葉は口から勝手に
「睦月。今度の週末……樹里から、ライブに行かないかって誘われてるんだよ」
「……そうですか」
「気晴らしにどうか、って。いつまでも塞ぎ込んでても仕方がないし、元気出せそうなことしようぜ、って。そんな感じでさ。……お前も来ないか?」
「それは……」
「来いよ。珍しく、樹里だって、お前のこと誘ってもいいって言ってるし」
「…………はい」
機械的に睦月がうなずく。
それから。
「気を遣わせてしまって……すみません」
「……いや、別に、気にするな」
謝るな、と言えば余計に自分を責めさせてしまう気がして、俺はそう返すしかなかった。
***
病室を出る。空気に耐え兼ねたというのもあったし、今日は母親から早く帰ってくるように朝方に言われているからでもあった。
気が重かった。
「はぁ……」
ため息。唐突に、強烈な疲労感が肩にのしかかってくるような気がした。
「笹原」
俺の後に続いて病室を出たらしい不動明王、もとい岸本が後ろから話しかけてくる。
「……なんだよ」
「単刀直入に言う。野球部に入れ」
言葉の通り、本当に単刀直入だった。
思わず俺はあっけに取られる。こちらの隣を並んで歩き出した岸本は、俺に向かってさらに話しかけてきた。
「今、うちは戦力が足りない。向居の抜けた穴は大きい。そして俺が代わりに投げることになれば、今度は捕手が足りなくなる」
「バカ言え。控えぐらいいるはずだろ」
「一応は、な。だが俺は、やるならお前が適任だと思っている」
「なにを……」
「言っとくが笹原。俺はお前のことを、捕手として自分よりも劣っているなどと思ったことなど一度もないぞ」
そんな風に言いながら、岸本が強い視線を向けてきた。
「今でも俺は覚えている。二年前の、あの夏。尋常ではない投手だと思った。向居正人という男を心底、すごい男だと思った。……だが、笹原よ。野球というのは、『物凄い投手』がいるだけで勝つことができるほどに
「……それは」
「答えは否だ。そんなことは、まるでない。そもそも、一人の天才に頼っていては勝ち上がることなんぞ到底できん。投手にはどうしても制限が付きまとうものだからな」
岸本の言うことは、間違ってはいない。
一試合を一人で投げ切るということは、肩にも背中にも強い負担がかかるということだ。そのため、高校野球では今年から、一人の投手の投球数が一週間で五百球に達した場合はそれ以上の投球が認められない、というルールが導入されることとなった。
だから大会を勝ち抜くためには、二人から三人の投手がどう足掻いても必要になる。圧倒的なエースが一人いることはチームにとって大きなプラスではあるが、そのエースにすべてを任せることは現実的に不可能だ。
そして――。
「認めるのは悔しいことだが、向居と比べれば残されたうちの投手陣は見劣りすると言わざるを得ない。もちろん、俺も含めてな。だからこそのお前だ……笹原」
「……」
「投手の力が及ばないのは分かっている。だからお前が、捕手として、司令塔として、俺たちを導いてくれ。お前にだったら、それができる」
「なにを根拠に」
「捕球力や体格、身体能力では俺に劣っていても、駆け引きや戦術、観察眼では俺よりもお前の方が遥かに勝っていると評価しているからだ」
正直、過大評価だと思う。
だがその一方で……心の奥で妙に震えるものがあるのも事実であった。
自分の能力が認められること、求められることは、あまり悪い気はしない。嬉しいし、ありがたいことだとも思う。
だけど、俺は岸本の言葉に首を縦に振ることはできなかった。
「……悪い」
「笹原……」
「二年だよ。ブランクがそれだけ空いている。勘を取り戻せる自信は……正直、ない」
「……」
「それに、それにな。今は……」
脳裏に、睦月の姿を思い描く。
落ち込んで、煤けた、その背中。
学校にも来なくなり、ただただ見舞いを繰り返すだけの日々を送る幼馴染の姿を。
……一人にしてはいけないやつがいる。傍にいて、守ってやらねばならないとも思う。
そんな時に、野球をやっているような余裕など、俺には見つけられそうになかった。
「……そうか」
岸本が嘆息をこぼす。
「答えはだいたい分かってはいたが……やはり、惜しいな。お前という戦力を手に入れられないのは」
「悪い、ほんとに」
「気が変わったら、また声をかけてくれ。……だが、今年の大会に間に合わせるつもりなら、なるべく早めに言ってくれると助かるな」
「……」
「しばらくは期待して、待たせてもらうとしよう」
その言葉を最後に、俺と岸本は別れた。
なんだかざわつく感情が、俺の胸には残されていた。
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