第29話 なんでそうなんだよ
家に帰る。
玄関に上がると、靴脱ぎ場には母親の靴が置かれてあった。
「……」
普段、あの人が家に帰ってくることはめったにない。あったとしても、俺のいる時間帯は避けるようにして立ち寄っていることを俺は知っている。
だからだろうか。母親の靴が玄関にあるのを見て、どうにも違和感を拭えない光景だと俺は感じていた。
込み上げてきそうになるため息を堪えながら、俺は靴を脱ぎリビングへと向かう。
扉を開いて居間に入れば、そこでは二人の女性がダイニングテーブルを挟んで向き合う形で座っていた。
部屋の空気は、なんというか、あまり、よろしくない。
母親の表情はいつもと同じ、内心を読めない冷たいもので、鮎菜ねーちゃんはどこか気弱そうな感じに黙り込んでいる。それが気まずい雰囲気をかもし出していて、本音を言えば、俺は今すぐ回れ右をして自分の部屋へと逃げ込みたい衝動に駆られていた。
母親へと、視線を向ける。この人と交わす言葉など、ない。ないと思う。その必要性を、少なくとも今の俺は感じていないし、向こうだってずっと俺のことなど空気のように扱ってきた。
だから隔意を抱く一方で、そのような人間の口から放たれた、「話がある」という言葉に、興味を惹かれる部分もある。いったい今さら、どんな話とやらをするつもりなんだか。
「座りなさい」
おかえり、の一言もなく、母親が俺にそう指示をする。ああ、そうだよな。あんたはそういうやつだ。そうやって自分の都合を押し付けてくる……そんな人間だってことは、もう何年も前から知ってるよ。
「……」
無言で鮎菜ねーちゃんの隣に腰を下ろすと、彼女は小声で「おかえり」と告げてくる。それに対して、短く「……ん」と返す俺。
そんなこちらのやり取りなど、特に気にした様子もなく。
「再婚することになったから」
と、母親がいきなり、前置きもなくそう切り込んできた。
「……へ?」
「……は?」
もちろん、俺と鮎菜ねーちゃんはそういう反応を返すことしかできない。それは唐突で、あまりにも突然で、心の準備もなく投げ込まれた発言に対して思考が一瞬、停止したのだ。
だが戸惑う俺たちに構うことなく、母親はさらに言葉を続ける。
「大樹。あんたなら、朝に見たでしょう? あの車の男の人。仕事の関係で知り合ったのだけど、しばらく前から付き合いがあってね……それでお互いに条件も合うってことだし、そういう話になったのよ。それで……」
そこで不意に、母親の目が鮎菜ねーちゃんの方へと向けられる。
「彼もこの家で住むことになったから、悪いけど貴方、出てってもらうことになったから」
「……」
その言葉を。
俺は、すぐには理解ができなかった。なんだそれは? どういうことだ? 鮎菜ねーちゃんが、家を出て行くことになった? どんな、悪い冗談なのか。そんなふざけた話があっていいのか?
なに、ふざけたことを、この女は言っているのか。つまり、こういうことを言いたいっていうわけか? 鮎菜ねーちゃんを、この家から追い出すとかいう妄言を?
時間が経つにつれ、母親の言葉に対する理解がだんだん追いついてくる。それと比例するようにして、ぐつぐつと煮える感情が腹の底から湧き上がってくるようだった。煮えたぎるその熱さに、鼻の奥がツンとする。多分、今、俺の表情はひどく強張っていると思う。
「なん――」
その衝動のままに、発しかけた言葉は、しかし。
「……分かりました」
という、鮎菜ねーちゃんの発言によって遮られてしまう。
「それで、いつまでにこの家を出たらいいですか?」
「秋までに出てもらえればありがたいわね」
「それなら、まだしばらくは時間がありますね」
「無理を言ってごめんなさいね。引っ越しの費用が必要なら言ってちょうだい。私の方で出させてもらうわ」
「分かりました、ありがとうございます。……その時は、頼らせていただきま――」
「なんでだよ!」
目の前で
「納得いかねえよ! なんでそうなんだよ! ふざけんな!」
「大樹君……」
「鮎菜ねーちゃんが!? 出て行く!? は!? バカ言ってんじゃねえよおい! どうして、テメェの都合勝手で鮎菜ねーちゃんが追い出されなきゃなんねーんだよ!」
バンッとテーブルを両手で叩き、乱暴に立ち上がった俺はそうまくしたてる。
母親が再婚をする。それは、まあ、いい。どうでもいい。勝手にしろ。好きにしたらいいじゃないか。そんな風にすら思う。
だけど、そんな理由で鮎菜ねーちゃんがこの家を出て行くことになるなんて、そんなの承諾できるわけがない。
だいたいこの人は、分かっているのだろうか? 鮎菜ねーちゃんがどれだけ尽くしてきてくれたのか。俺がどれほど、彼女の世話になってきたのか。
「出て行くっつーんならテメェが出てけよ! もともとろくに家に寄り付きもしやがらねえくせに、偉そうに鮎菜ねーちゃんに出てけとか言ってんじゃねえよ!」
「大樹君」
「だいたい、なんでねーちゃんがこの家に来ることになったと思ってんだよ! そんなのテメェだって分かってるはずじゃねえのかよ、ええおい!? だってのに――」
「大樹君!」
声を荒げる俺の腕を、鮎菜ねーちゃんが掴んで揺さぶる。
それから、こちらを見上げてちょっと微笑むと。
「ええで。な? 怒らんで?」
と、宥めるような声で言ってきた。
しかし、それが俺には気に食わない。なんで鮎菜ねーちゃんはこんなに落ち着いているのか、それを思うといてもたってもいられないような気分になって。
「……だったら」
逆に今度は、俺が鮎菜ねーちゃんの腕を掴み返して。
そして、告げた。
「だったら、こっちが出てってやるよ、くそっ!」
「大樹く……ちょ、あっ」
言うが早いか、俺はねーちゃんの腕を引っ張って立ち上がらせると、そのままリビングを出て玄関へと向かう。
それから靴をひっかけるようにして履くと、鮎菜ねーちゃんを引き連れたまま夜の街へと飛び出していった。
――鮎菜ねーちゃんの父親は、昔事故で頭に大きな怪我を負った。
だからもう、忘れている。
鮎菜ねーちゃんが、自分の血を分けた娘であるということを、彼女の父親はもう覚えていない。その事実は、記憶から綺麗さっぱり失われてしまっている。
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