第7話 自分ですら、よく分からないことばかりで

 ドリンクバーには、誰の姿もなかった。まだ半分ほど残っているグラスの中身を飲み干し、空になったそれをグラス回収用の箱に放り込む。


 すぐ近くにある休憩用の椅子に腰を下ろし、うなだれる。「はぁ……」と重苦しいため息が自然と零れ落ちていた。それと同時に、自分の中に落胆するような気持ちがあることに俺は気づいた。


 落胆……って、いったいなににだろうか。なにかを、期待していたのだろうか。例えば、「コアなファン」なる言葉に対して? 俺にだって、正人とか、睦月とか、樹里とかみたいに、好きになってくれるやつ、気づいてくれるやつ、そんな人間がいるかもしれない。そういった異性と出会えるかもしれない。そういう期待に、胸を膨らませていた?


 あるいは実際に合コンにやって来てみて、ちょっと親しげに接してくれる女がいて、しかもその子がちょっとびっくりするぐらい可愛い子だったからいつの間にか浮かれた気分になっていた? 浮かれて、そして、ついつい思ったりなんかもしたんじゃないのか? あわよくば・・・・・みたいな浅ましい願望を。


「……なんだよ、それ」


 ハッ、と鼻先でせせら笑う。どうしてそんな期待ができたんだと自分でも思う。即物的な願望を抱いた自分が、愚かしく感じられてならなかった。


 違うだろ、そういうのはさ。俺なんかの役回りじゃない。人に好かれて、注目されて、ファンなんかもできちゃったりして……なんていうのは、いつだって俺以外の誰かの役割だったじゃないか。


 それでもきっと、本当は俺だってそういう役を一度ぐらいはやってみたかったんだろう。好かれて、注目されて、ファンってやつだって欲しかったんだろう。憧れてたんだろう。憧れて、期待してしまったから、今これだけ落ち込んでしまっているわけで。


 あるいは、正人さえ隣にいなければ俺にだって少しぐらいは――などと思っていたところがあるのではないだろうか。一緒にいるのが森畑と竹林なら、俺だってそんなに見劣りはしないはずじゃないか? なんて? ……思っていなかったとは言い切れない。というか、あいつらよりは男としてマシだと考えてしまっている自分を、俺は今まさに否定することができなかった。


「なんか……なんだろ、それってなんていうか……」


 ダメじゃね?


 それもかなり。


 少なくとも、これが例えば正人だったら、そういう考え方はしない。あいつはそうやって人を見下して悦に浸ったりするタイプじゃない。というか、その必要がそもそもない。わざわざ他人を自分より下に置いたりしなくても、毅然として自分の足で立っていられる。そういうやつだ、正人は。


 けれど、俺はきっとそうではない。そういう人間ではないからこそ、男としてはもはや圧倒的に正人に完敗しているわけで。……勝負にすら、なっていないわけで。


 己の情けない部分をこうして再確認するたびに、自分で自分に落胆する。落ち込むぐらいなら、頑張って自分を変えればいいのにな、などとも思う。だけどそう簡単に変われたら、苦労もしないで済むわけで。変われないのならばいっそのこと、煙のようにきれいさっぱり消え失せてしまえれば楽だとすら思った。どうせ、思うだけだけど。


「……って、やめよ。なんかこれ、ダメな感じの思考だし」


 後ろ向きな気持ちになったら、いつまでもぐるぐると自己嫌悪に苛まれるのは俺の悪い癖だろう。スパッと意識を切り替えたりすることが、とにかく苦手なのだ。うじうじとしている、とも言う。そんな自分の女々しいところが俺は……そうそう、こういうところだよ。こうやっていつも、思考の悪循環を繰り返す。


 トイレにでも行こう。出すものでも出しとけば少しは気持ちもさっぱりするだろう。そう思い、立ち上がったところで、靴の底が廊下を叩く少し硬質な音が耳に聞こえた。


「……大ちゃん? なんで、こんなとこに……」


 音に反応して目を向けてみれば、そこにいたのは樹里だった。足元はサンダルを穿いていて、足音が少し硬質だったのはソールがコルク素材だからなのだろう。ホットパンツにTシャツといういかにもラフな格好で、頭にはキャップを被っている。


 樹里は、なんだか少し拗ねたような目をこちらに向けてきていた。彼女となんとなく気まずい感じになってしまったのは、ついこの間のことである。そして、その問題はまだ、俺たちの間で解決してはいない。


 だからなのだろう。樹里が下唇を噛み締めるようにして、俺からほんの少し視線を逸らしたのは。いつものウザい感じの絡み方でもなく、かといって時折見せる真面目な雰囲気というわけでもない。痒いところに手が届かない、それが気持ち悪くて不愉快で仕方ないのにどうにもならない……互いに、そんな感じの雰囲気だった。


「……別に。カラオケぐらい、来たっていいだろ」


「あたしダメとか言った?」


「言ってないけど」


「だよね」


「でも……なんで、こんなとこに、って」


「だって」


 そこで樹里が唇を尖らせた。


「珍しかったんだもん。大ちゃんが、カラオケなんて」


「……俺だってカラオケに来ることぐらいあるだろ」


「そうかもしんない、けど」


 なぜだか樹里は、不服げだ。


 そこで不意に沈黙が流れる。嫌な感じの、沈黙だった。どちらも、相手の出方を伺い合っているのだ。


「……誰と来てんの? 兄貴?」


 結局、先に口を開いたのは樹里だった。彼女はドリンクバーでカルピスのボタンを押しながら、呟くようにして問いかけてくる。


 だが、その問いに俺が答えるよりも先に、樹里は「んなわけないか」と自分の言葉を取り消していた。


「今日も今日とて、どーせ練習で忙しいもんね。うちの兄貴バカは」


「だろうな」


「で? 兄貴じゃなかったら、誰と来てんの? もしかして、一人なわけ?」


「……別に。てか、そっちこそどうなんだよ」


 曖昧に言葉を濁して、問い返す。


 合コンのことを、わざわざ樹里に言うのは違うように思った。というよりもむしろ、なんだか気が引けた。その理由は、自分でもよく分からない。とにかく樹里にだけは知られたくない……そんなことを、とっさに俺は思っていた。


「あたしは練習」


「練習?」


「うん、ギターの。ここの――」


 そこでちらりと、ドリンクバーの位置から見えるフロントに樹里が視線を走らせる。こちらに気づいたバイトの子が、ちょっと笑ってひらひらと手を振ってきた。


「――バイトの、あの子。友達でさ。だからたまに、スタジオが空いてないときに使わせてもらってる」


「あ、そう」


「……人に聞いといて、『あ、そう』だけ? なんかそれってどうなの?」


「……悪かったな」


「ほんとだよ。っていうか」


 樹里が睨み付けるような目を向けてきた。


「そっちは、あたしの聞いたことには答えてくれないわけ?」


「……トイレ行ってくる」


「ちょっと!」


 俺が背を向けると、大声を上げて樹里が引き留めようとしてくる。たまたま通りかかった二人組の男子学生が、何事かと視線を向けてきた。


「ねえ、大ちゃんってば!」


 俺はそんな、野次馬のような視線からも、樹里の声からも、逃げるようにしてその場を立ち去った。


 いや、事実として樹里から逃げたのだ。彼女の問いに答えるのに、なぜだか猛烈な抵抗を覚えてしまったがために。


「……なんだってんだよ、俺」


 トイレに駆け込んだ俺は、用を足すこともせずに閉じた扉に背中を預けてため息交じりにそうこぼす。


 樹里に、合コンをしていたことを知られたくない。だけどどうして知られたくないのか、なんで俺がそのことを隠そうとしたのか……その理由は、自分ですらよく分からない。


 背中を預けた扉の向こうからは、店内の陽気なBGMが聞こえてくる。だけど俺は、まるでそんな気分にはなれない。


 得体の知れない、どんよりとした気分を口から吐き出す。もやもやとした感情が、胸の中でとぐろを巻いているのであった。

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