第9話 朴念仁もほどほどにしろ

 それからはしばらく、日暮れ近くまで俺たちはキャッチボールを続けた。


 一時間か、二時間か。終える頃には動かし続けていた体も軽く汗ばみ、喉も渇きを訴えていた。


 ちょうどそのタイミングで、「お疲れ様です」と土手の上からこちらに向かって投げられた声が聞こえてくる。


「よう、睦月か」


 土手の上の道から、階段を下りてやってきたのは睦月だった。亜麻色の髪が、傾いた太陽の光を反射してきらきらと眩しく輝いていた。


 服装は、制服から私服に着替えられている。落ち着いた色合いのカーディガンにジーンズという色気のない恰好ではあるが、元のスタイルが良いためそれでもじゅうぶんに様になっていた。


 軽く「よっ」と俺が手を上げると、睦月が微笑んでこちらに会釈を返してくる。それから正人の方に視線を向けて――それから頬を赤らめた。


「その……お疲れ様です、正人君」


「あ、ああ。ありがと、な……上月」


「む」


「あ、いや、その……」


「そんなに慌てて、どうかしたんですか、向居

・・

君?」


「いやほんと、ごめん! ごめんな、上月! 次は……次は頑張るからっ!」


「前も、そんなようなことを言ってた気がするのですが……」


「そ、そうは言ってもな! だって、その……上月が、あんまり綺麗なもんだから、つい」


「っっっ」


「か、可愛いだけじゃなくて綺麗だなんて……卑怯だぞ、ほんと。名前で呼ぶだけでも恐れ多くなるっていうか……とにかく、そういうことなんだよ!」


「ひ、卑怯なのはどっちですか!? 人のことを、その、そんな風に言うなんて!」


「……なにか、まずいこと言ったか、オレ?」


「言いました! 言ってませんけど!」


「どっちなの!?」


「どっちもです! と、ところで……そろそろ終わる頃かと思って飲み物をお持ちしたので、いかがですかっ!?」


 露骨に話を変えた睦月が、手に持った水筒をこちらに向かって掲げる。


「……めちゃくちゃ苦いブラックコーヒーならもらうわ」


「水筒の中身は、ぬるめに冷ました麦茶です。体を動かしたあとにコーヒーなんて飲むと、逆に喉が渇きますよ?」


 そう言いながら、別で用意しておいてくれたらしい紙コップに睦月は水筒から麦茶を注いだ。


 それをまず俺に手渡し、次に正人へと差し出す。


 だが、コップを手渡す時にお互いの指が触れ合ってしまったらしい。


「「あっ」」と仲良く声を上げ、頬を染めた二人の間で持ち手のなくなった紙コップが宙を舞っていた。


 そんな二人の反応を予想していた俺は、とっさに手を伸ばし落ちかけた紙コップをキャッチする。中身は半分近く零れてしまったものの、もう半分は何とか無事のようだった。


「ラブコメは楽しいかい、お二人さん?」


 からかい交じりにそう言うと、二人して首から上が耳まで赤くなる。


「まったく。駒ヶ原のヒーローも、彼女の前では形無しだねえ」


「か、形無しとはなんだ、形無しとは。これでもオレは、睦月と釣り合えるようになりたいと必死でなあ……!」


「彼女の前だからって、そんなカッコつけたこと言ってさー。知ってるか、睦月? こいつさ――」


「おいやめろバカ」


「『睦月ィィィィ! ああ、睦月睦月ィ! なんて可愛いんだ睦月! 好きだ! 綺麗だ! 付き合ってくれえ! オレの彼女になってくれええええ! け、結婚してくれ……ってそうなるってことはつまり、つまり……うわあああ、ごめんよ睦月、こんな汚れた妄想をしてしまうダメな男でごめんよぉぉぉぉぉ!』って、お前と付き合う前によく叫んでたんだぜ?」


「おい大樹! そのことは言うなと――あ」


 声を荒げたところで、墓穴を掘ったことに気づいたのだろう。正人が「しまった」という表情で睦月を見ると、彼女は顔を赤く染めた状態で、あからさまにあわあわと動揺を示していた。


「ち、違うんだ上月、これは……」


「ひうっ!?」


 正人が声をかけると、睦月がビクンと肩を震わせる。それから照れたような目つきでそっと顔を逸らすと、「ええと、あの……」と口元をもにょらせていた。


 そんな状態でまともに話すことのできない睦月を前にした正人は、こちらにギンッと目を向けてくる。その目が言っていた――「頼むからどうにかしてくれ」と。


 俺はにこりと微笑み返し、口を開いた。


「まあまあ睦月。男なんてみんなそんなもんだぞ。高校生男子なんて、特に一番盛ってる時期だしな」


「盛っ……」


「そこはヒーローとはいえ男子高校生。正人も例外じゃないってこった。アブノーマルな妄想の一つや二つ、許してやれよ」


「だ、大樹、テメェなんてえげつねえ追い討ちを――」


 ワナワナと唇を震わせ、眦を釣り上げる正人。


 だが、そんな正人の袖口を、キュッと掴む手があった。


「上月?」


「あ、あの」


 まだ恥じらいに声を震わせながら、睦月が口を開く。


「わ、私は、その、すぐに……というわけにはいかないかもしれませんが、でも、えっと……」


 そこまで言ったところで耐え切れなくなったのか、ギュッと睦月が両目を瞑る。


 それから小さく……だけど確かに、正人に向かって首を縦に振ってみせた。


 その意味を一瞬図りかね、しかしだんだん理解が追いついてきたのか、正人の首筋がだんだん朱色に染まってくる。ポリポリと指先で頬を掻きながら、「え、えーっとな」と覚束ない口調で睦月に話しかけた。


「オレは……その、すぐに、なんてのは、オレも考えてないけどさ」


「はひ」


「ゆっくりで……というか、大事なのはそういうんじゃないっていうか、オレは上月と、ちゃんと足並みがそろってるって感じが一番好きだ」


「は、はひっ」


 告げられた言葉に、どこか嬉しそうな雰囲気を滲ませながら睦月がうなずく。そんな睦月の態度に、正人も安堵と照れの交じった息を漏らしていた。


 ……まったく、見てるこっちがなんだか胸焼けしてしまう。甘ったるい空気とはこういうものか。


「……んじゃ、俺は先に帰るわ」


 付き合いきれなくなってそう告げると、二人してこちらに疑問の目を向けた。


「なんでだ? 別に方向は同じだろ。一緒に帰ればいいじゃないか」


「そうですよ。なにも、一人だけ先に行かなくたって……」


「いいだろ、別に。一人で歩きたい日もあるさ」


「つったってなあ……」


 正人が訝しむ目を向けてきた。


「大樹。お前、最近付き合い悪くないか?」


「前からこんなもんだろ。俺はフリーダムに生きる人間なんでね」


「それでも前は、いつも昼飯ぐらいは一緒に食ってただろう? でも、今日も昨日も一昨日も、気づいたらどこかに消えてるし、どうかしたのかと気にもなるだろう」


「どうもしねえよ。別に、お前の彼女ってわけでもねーだろ。なんでそんなことを聞かれなきゃならねえんだ」


「そりゃまあそうだが……オレが言いたいのはさ。もしお前が、オレと上月に気を使っているんだったら、そんなことはしなくてもいいと――いてっ」


 御託を抜かす正人の額を、指先でピンと弾いてやる。


 それから、「なんだよ」と驚いた表情をした正人に俺は言ってやった。


「お前こそ気ィ使ってやれっての。付き合い始めたばっかなんだしよォ、もっと睦月と一緒にいてやれよ」


「わ、私は別に――」


 睦月が何か言いかけたが、被せるようにして俺は言葉を続ける。


「だいたい正人。お前さ、部活だなんだでただでさえ忙しい身分なんだから、睦月とロクにデートもできてねえだろ?」


「そ、それは……」


「朴念仁もほどほどにしろってことだ。ま、今日はまだ日が沈み切るまで時間があるし、これから二人でデートでもしてこいよ」


 そこまで告げると、正人は返す言葉もなかったのか黙り込む。それから少しの間をあけて、「……そうだな」と納得した様子でうなずいた。


「そこまで気を回してくれてたとは思わなかった。ありがとな、大樹」


「痒いから礼なんていらねえよ。分かったらとっとと失せろ、バカップル」


「バッ……カップルではないだろう、さすがに?」


「じゃあバカ。野球バカの睦月バカ。ついでに恋愛バカ」


「……そこまでか?」


「そこまでだ」


 はっきりうなずいてやると、「そうか……」と正人が肩を落としていた。ざまあみろ。


「ま、そういうことだから。邪魔者はさっさと立ち去らせてもらいますわ」


「邪魔なんて思ったことはねえよ。……じゃ、また明日な、大樹」


「おう」


 短く別れの挨拶を交わし、俺は二人に背中を向けて、その場から立ち去るのであった。

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