第8話 18.44メートル

 水曜日を迎えた、その日の放課後。


「大樹。じゃあ、行こうぜ」


 と声をかけてきた正人から逃げ切ることができず、二人してジャージに着替えた俺たちは、いつもの河川敷を訪れていた。


「おい正人」


「なんだ」


「今日もやんのかよ」


「オレはそのつもりで声をかけたし、大樹だってそのつもりで来てるだろ?」


「勘違いするな。お前がしつこいから、仕方なく付き合ってやってるんだ」


「そうか。そいつは、ありがとな!」


 爽やかに礼を口にする正人。これまで、こいつに皮肉やら遠回しな文句やらが通用した試しはなかった。


 そんなやつだから、仕方ない――と俺はため息交じりで諦める。逃げてもどうせ懲りずに声をかけてくるのは目に見えてるし、それならおとなしく応じてしまった方が面倒が少ない。


 それに……俺自身、正人と過ごすこの時間が本当は嫌いではないことを自覚していた。無論、口に出しては言わないが。


「ほらよ」


 正人が俺に向かって、持っていた二つのグラブのうちの片方を渡してくる。


 ワックスでしっかりと磨かれた、手入れの行き届いたキャッチャーミット。野球を辞めると決めた時に捨てるつもりだったそれは、今は正人の手へと渡っている。


 正人が言うには、「オレが預かっとけば、大樹はいつでもグラウンドに戻ってこれるだろ?」とのことらしい。そんな日が本当に訪れるかは、分からない。少なくとも、今の俺に再び野球を始めるつもりはなかった。


「……ん」


 ミットをはめた手を軽く構え、言葉少なに正人を促す。シュッ、と音を立て回転する白球が、構えたミットに吸い込まれるようにして収まる。


 俺もまた、対面の正人に向かってボールを投げ返す。最初は五メートルぐらいの距離から始めたキャッチボールは、わずか数分で五十メートル程度までその間隔を伸ばしていた。


 それだけの距離になっても、正人のボールは俺の構えたミットに寸分の狂いもなく届く。何度も反復した送球動作。もはや頭で考えるまでもなく、体が覚えているのだろう。


 こうして河川敷で正人とキャッチボールをするのは、今に始まった話ではない。もうずっと幼い頃……互いに野球を始めたばかりの頃から、この河川敷で毎日のように二人でキャッチボールをしていた。


 まだどっちも下手くそだった小三の夏。


 少しずつ試合に出してもらえるようになった小四の秋。


 レギュラー争いが本格的に始まった小五の春。


 チームを抜け、試合がなくなってもなお野球に明け暮れていた小六の冬。


 まだまだ互いに同じぐらいの身長だった中一の春。


 気づけば十センチ以上引き離されていた中二の冬。


 そして――野球を辞めることになったきっかけの、あの夏。


「――――」


 だというのに、野球を辞めたはずの今でも、俺はなぜこうして正人とボールを投げ合っているのだろう。毎週、野球部の練習がない水曜日になると、懲りもせず二人でここへ来てしまうのはいったいどうしてなんだろう。


 ここで正人と、ボールを通じて語り合う資格が、自分にあるなどとは思っていない。それでもなお、「行こうぜ」と言われると逆らえない自分がいるのも確かで。


「――しまっ」


 意識に乱れが肩から肘へ、肘から手首へ、手首から指先へと伝わって、ボールの軌道そのものが乱れる。すっぽ抜けてしまったボールが、見事に高く舞い上がり、明後日の方向へと無様に落ちていく。


 しかしそんな俺の悪送球にも、正人の反応は素晴らしいものだった。流れるようにダッシュで着地点に入ると、落ちてくるボールを危なげなく自らのグラブへと収める。


 一連の動きには無駄がない。そこに、正人の非凡さを俺は感じた。


「おいおい、しっかりしてくれよー!」


 そんなデカい声と共に、正人がボールを投げ返してくる。


「わりぃ、ヘマこいた!」


「いいっていいって! っしゃー、こい!」


 キャッチボールをしていると、自然と声がでかくなる。デカい声を腹から出すと、胸のもやもやがなんだか少し軽くなる。


 そんな風にして、俺たちのキャッチボールはそれからもしばらくの間、続いた。


 そして、三十分ほど経った頃だろうか。


「っし、大樹! そろそろ座れるか!?」


 ――五十メートル先から届いた正人の馬鹿デカいその声に、軽くなったはずの胸のもやもやが再びとぐろを巻いて顔を出した。


 座れるか? というのはつまり、キャッチャーやれるか? という意味だ。あの夏までは、俺たちのこのキャッチボールは、最後にピッチングの練習をして締めくくっていた。


 だけど、あの夏を超えてから、もうずっとそれはやってない。座ろうとするのを意識が、体が拒んでいて、だから俺はもう正人の球を受けられない。


「それはもう、岸本の仕事だろ。正人」


 岸本――駒ヶ原野球部の正捕手の名を出すと、正人が少しだけ寂しげな目つきになる。


 それでも。


「そうか。分かった」


 とだけ言って、正人は静かにグラブを掲げた。


 五十メートルの距離のまま、俺たちは再びボールを投げ合う。俺たちの距離が、18.44メートルに戻ることは、きっとこれから先もない。


 ごめんな、正人――と胸の内で呟く。


 その距離に戻れる日が来るのを願っているのか、それとも本当は拒んでいるのか……俺は自分でもよく分からないんだ。

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