第31話 大人の気配

「あいつら、そんなことになってたのか」


 樹里が説明を終えると、正人が腕を組みそう言った。その様子は殊の外、落ち着きのあるものであった。


 ……兄貴、本気でちゃんと理解してるのかな? などと樹里は思う。なんだか、こちらの伝えたいことがちゃんと伝わっていないようで、やきもきする。


 前々から思っていたけれども、兄はもしかするとニブチンなのではなかろうか。そんなことを考えつつも、やや興奮気味に樹里は口を開いた。


「とーにーかーくっ! あの女マジでヤバない? ヤバいよね? ヤバいでしょ? 絶対別れた方がいいって!」


「お前なあ……まあ、とりあえず落ち着けよ。頭に血が上りすぎだ」


「あたしがいったい誰のためを思って――」


「まあ待て、樹里。『あなたのためを思って』いるならなにを言ってもいい、なんてのは理屈が通らないぞ」


 樹里の言葉を、正人が腕を上げて制してくる。その落ち着き払った兄の態度に、樹里は色々と物申したい気持ちはあったものの、とりあえず言葉を飲み込んだ。


 代わりに不貞腐れたように唇を尖らせ、「ふんっ」と鼻を鳴らしてみせる。


「なによぅ……あたしはただ、あの女ヤバいってことを言いたかっただけなのにさ」


「あー、それは分かってる。要するに樹里が言いたいのは、俺としては自分の彼女のことをこういう言い方はしたくないが、つまりその……明らかに頭狂ってるしおかしいから、付き合うのはやめておいた方がいいってことを言いたいわけだろ?」


「そうそれ! なぁーんだ、分かってるならそう言えばいいのに!」


「ところがどっこい、だ。睦月がやろうとしてたのは、オレがやろうと思ってたことでもあるんだよな~」


「はぁ~?」


「つっても、今の大樹となにを話そうとしたところで、お互いに冷静になれないだろうことは分かってたからしばらく冷却期間を挟むつもりだったけどな。そういう意味では、睦月のやったことは確かに時期尚早だし、やり方も乱暴だったとは思うわ、お前の話を聞いた限りじゃ」


「……そうだったんだ?」


「当たり前だろ。だいたいな、大樹のやったことは、オレとしたって納得できるかって話だろ」


 そこで正人が、不機嫌そうに眉をひそめた。


 樹里から見る普段の兄は、めったにこうした表情を見せない。基本的におおらかで、よほどのことがなければそもそも機嫌を損ねる、などということもない性格だ。


 だからこそ、こうした兄の態度は見慣れない。そのせいだろうか、妙な迫力を樹里は覚えて、思わずその場で背筋を正す。


 そんな妹の反応を敏感に察して、「すまんな」と正人が苦笑を浮かべる。それから、先ほどよりは幾ばくか穏やかな表情を作ってから、彼は口を開いた。


「ただまあ……オレや睦月の立場からしてみればさ。ずっと恋愛の相談に乗ってくれてたってのに、実は今さら本当は惚れていた、なんてことを言われた挙句に突き放されたようなもんだぜ? だったら最初から言えよ、とか、それなら相談とかに乗るなよ、とか、それ今言う必要あることかよ、とか、色々と思うところはあるよな」


「それは……そうかもしれないけどさぁ。だとしても、あの女だって、もっと言葉選ぶべきじゃないの!?」


「そこに関しては間違いないだろうな。言葉としてはどんなに正しかったとしても、タイミング自体がそもそも悪いし、あとはあれだ。これに関しては樹里の方がピンと来る話だろうが、感情に配慮していない」


「でしょ!? 兄貴もそう思うよね!?」


「とはいえ……睦月の事情を考えてみれば、それもまあ仕方ないことだとは思うけどな」


 どこかしんみりとした様子で、兄がぽつりとそう呟く。その言葉に引っかかりを覚えて、樹里は訝しげに顎を引いてみせた。


「……仕方ないってどゆこと? ってか、なんかやけにあの女の肩ばかり持つじゃん」


「自分の彼女の肩を抱きたいって思うのは当たり前だろ?」


「……うっわ、今マジで引いたんですけど。キモい兄貴キモい」


「いや待て本気でドン引きするな。その目を向けるな。汚物を見るような目でオレを見るな!」


「マジで……ほんっとマジで、寒気がするんですけど! あのさあ、妹に対してそういうこと言うのってほとんど変態の域っていうか……うわぁ、うわぁ……」


「付き合い立てでオレだって適度にのろけたいんですぅー! いーじゃんいーじゃん、自分の彼女のことぐらい好きだ可愛いって思ったってさー!?」


「はいはい、開き直り乙ぅー。だいたいさー、あんな女のどこをどう好きになったわけ? マジで理解に苦しむんですけどぉー」


「顔だ!」


 男らしく胸を張り、はっきりと正人がそう告げる。あまりに堂々としたその口ぶりに、樹里はさらなる……「うわぁー、うわぁー……」と、ドン引き顔。正直にも程があるだろう、とか、理由としては最低の極み、とか、そんなことばかりを思う。が――、


「というか、本当に最初は顔だったんだよ。あ、いい顔してる。美人だいいなー、みたいな。で、中学の入学式で見たその顔が、実は大樹の友達だったって知って、あっこれオレ、ワンチャンあるかもな、って。気になり始める理由なんてさ、だいたい最初はそんなもんだろ。人は見た目が九割、なんて話もあるしな」


 などと、絶賛ドン引き中の樹里を前に正人が淡々とそんな風に言葉を続けた。


「ただまあ、本当に気になり始めたのは、大樹を挟んで交流し始めてからだったけどな」


「あっ、へーぇ? ふーん? そーぉ?」


「そう嫌そうな顔すんな。……そうだな、割と大事な話だから、まあ聞けよ」


 やや真剣な口ぶりに戻った兄にそう言われ、改めて居ずまいを樹里は正す。こういう時の兄があまりふざけたことを口にしないことは、これまでの付き合いからもよく分かっていた。


「多分な。二番目の決定的なきっかけは……大樹と二人で、睦月の家まで遊びに行った時だと思うんだよな」


「あの女の家?」


「ああ。……あいつが、こういう言い方はちょっと良くないけど、ほとんど捨てられたような成り行きで中学に上がる前から一人暮らしも同然の生活を送ってるってのは知ってるか?」


「一応は。楽でいいよね。親がいなかったら好き勝手できるし。面倒くさい門限とかもないし」


「……って、思ってる時期はオレにもあったな」


 そこで正人が苦笑する。


 それからどこか、感慨深そうな面持ちで、


「親がいてくれるから、多分、そう思えるんだろうな」


 などとしんみりした様子で口にした。


「……親がいてくれるから?」


「家の中に大人がいない気配、ってのは、外からでも案外分かるものなんだよ」


「……」


「睦月の部屋に入ってさ。最初に感じたのって、寒気だったんだよな、俺。別に、部屋の中がガランとしてるって感じでもなくてさ。椅子もテーブルもソファもあって、生活感だってちゃんとあるのに、人間らしい生活をちゃんと送っていないみたいな感じがすげえした」


「……よく分からないんだけど」


「なら、大樹の家をイメージしたらいいよ。お前も覚えてるだろ? 大樹の家の方が遥かに片付いてなかったけど、まあ、あんな感じだよ。大人がいなくて遊びやすいって理由でよく押しかけてたけど、今思えばあれも異常な家だ」


 正人に言われて、樹里は記憶の片隅から大樹の家を探り当てる。だけどその時の記憶は、近所のお兄ちゃんがなんだかんだ言いながら面倒くさそうに相手をしてくれた、ぐらいの覚えしかない。


 あとは、そうか。自分の兄が、ゴミを捨てたりご飯を作ったり部屋の中の片づけをしたりして……なんていう光景も蘇る。散らかり放題だったあの家に、大人の手が加わっている印象は、確かに今思えばなかったのかもしれない。


「なによりビビったのは、睦月の家の様子に大樹が気づいてる様子もなかったことだ。普通に受け入れているというか、むしろあれぐらい寒々しい方が当たり前みたいだったのかもな」


「そうとは限らないんじゃないの?」


「いや、そうだろ。だいたいさ、考えてみろよ。大樹がうちに遊びに来たことがどれだけある?」


「はあ? そんなのけっこう……あれ?」


 言われて、樹里は首を傾げた。大樹が家に遊びに来た時のことをあまり覚えていないのだ。


 むしろ、全然記憶にないような……うっすらと思い出せるのは、居心地悪そうな顔ばかりというか。


「え、あれ、なんで? ずっと一緒にいるのに、大ちゃんが来た記憶、全然ない」


「だろ? それに来ても、いつも居心地悪そうな顔して、なにかと理由つけてすぐ帰ったりとか、外に出たりとかしてんだよ、あいつ」


「……えぇ」


「うちの親父やお袋が話しかけると、いつもビビってたしな。そういうことをあえて口に出すようなやつじゃなかったけど」


「……なんでそういうの、大ちゃんは言わなかったんだろう」


「言えなかったんだろ。分からなかっただけだろ。言わなきゃ分かってもらえない、が分からなかった。言うべき大人がいなけりゃ、ずっと分からないだろ、そんなもん」


 と語る正人の声は、どこか突き放すような口調だった。なにをそんなに、と思いかけて樹里は気づく。自分と兄は、少なくとも家に帰れば親がいたし、不満があれば愚痴れたし、なにか悪いことをすれば説教だってしてくれた。


 親を疎ましく思うことは当然ある。いや、最近はむしろ疎ましく感じることの方が多い。門限だって七時は早すぎる。友達ともっと外で遊んだりもしたい。


 だとしても、親などいなければよかったとまでは思わない。むしろ、いてくれたからこそ今の自分があることは、高校生にもなればさすがに分かる。父や母が死んだ時には、きっと自分は泣くだろう。


 そんな風に思える自分たち兄妹のことを、もしかすると今の正人は、どこか突き放すような視点で眺めているのかもしれなかった。


「……だからまあ、話を戻すとな。その時オレが覚えた寒気が、睦月のことを気にし始めるきっかけだったんだろうよ。寒々しい家で平然と笑いながら、ホームヘルパーの作り置きしておいた飯を温める睦月の姿が、大樹とダブって見えたから」


「大ちゃんと……?」


「ああ。性格そのものは違うけど、その実ほんとよく似てる。そんなあいつらのことが分からなくて、実を言うと少し不気味でな。オレはそれが嫌で、二人のことを少しでも理解するために色々と考えるようになったんだよ」


「ふーん……それで、分かったの?」


 樹里の問いかけに、正人が「ああ」とにっこりと笑顔を浮かべる。いかにも快活なその表情に、樹里は明るい期待を胸に覚え――、


「ああ――分からなかった!」


 しかし、その期待とは真逆の答えが、正人の口からは返ってきた。

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