第23話 あたしはここにいないから

「……そっか。言っちゃったか。ついに」


「言っちゃったな。ついに」


 大きな通りから一本外れた、細く狭い裏通り。


 その途中にある、青く塗られたベンチに隣り合って座りながら、樹里がしみじみと呟いた。


 樹里は今日、俺たちが三人で遊ぶことを正人の口から聞いたらしい。だから本人曰く、「なんとなく様子が気になって」こっそり後をつけてきたのだとか。


 左隣にいる樹里は、缶に入ったカルピスを両手で挟み込むように持ちながら、「は~あ」と気の抜けたため息を漏らす。それから、こちらに話しかけてきた。


「まあ、なにはともあれお疲れ様。頑張ったねぇ、大ちゃん」


「別に。頑張ったってわけでもねえよ。どうせいつかは言わなきゃいけないことだ」


「ま、そうなんだけどさあ。やらなきゃって分かってたって、必要だって理解してたって、めんどいものはめんどいしキツいことはキツいんですぅ~」


 そんなことを言いながら、樹里が「んく、んく」とカルピスの缶に口をつける。爽やかな白のパッケージが、樹里の気だるげで派手な顔つきとはなんだか対照的だった。


 ……確かに、彼女の言う通りではある。やらなければならないことが、進んでやりたいことであることはめったにない。本当は取り掛かりたくない、嫌なことだったりする場合も頻繁にある。


 実際、俺だって直前で躊躇った。ここで口にするのをやめて、心に蓋をし続ければ、これから先もこれまで通り……だなんてこと。


 おまけに、それを乗り越えて言うべきことを言ったところで、達成感みたいなものはまるでない。心に残されたものなんて、ただただ空虚というべきか……捉えどころのない虚しさばかりであった。


 これは、あれだ。父親が、知らない女性とどこかへ消えた時に覚えたものによく似ている。ただただショックで、ひたすらに衝撃で、そしてなんとも叫びたい気持ちになって。


 しかしそれを声にすることは難しい。そんな風にして言葉を失う俺を、母親の代わりに受け入れ慰めてくれたのは正人であり、睦月であり、樹里であり、アユねーちゃんだった。


 だけど、その四人のうちの半分を、俺はさっき失った。それも、今度は自分の手で……。


「はあ……」


 重苦しいものが込み上げてきて、やるせない気分を口から吐き出す。


 そんな俺の背中を、樹里がポンポンと優しい手つきで叩いてきた。


「まあまあ。元気出しなよ、大ちゃんってば」


「……そんなんで元気になれるなら、苦労しねーっての」


 不貞腐れたような口調でそう返すと、樹里がどこか切ない感じの微笑みを浮かべる。


「だよね。うん、分かってた。ごめん」


「別に。お前が謝るようなことでもねーよ」


「かも、しんないけどさ。アハハ……あー、ダメだな、あたし。こういう時、なんて言ったらいいかよく分かんないんだよねぇ」


 困ったように言いながら、樹里がぽりぽりと頬を掻く。そんな彼女であるが、こちらを労わろうという気持ちだけは伝わってきた。


 そんな彼女の心遣いは、あまり普段の樹里らしくはない。気を遣わせてしまっているなと、自嘲交じりの苦笑が思わず浮かぶ。


「なんていうか、さ。漫画とか映画とかドラマとかだと、傷ついた主人公に寄り添うようにして、女の子とかが『私は味方だよ、ここにいるよ』とか言ったりするじゃん? それこそ、ギュッと抱き締めたりなんかして、さ」


「そういう作品も、まあ、あるな」


「……でもさ。あたしは、なんか、そんなの言えないなって。だって、アハっ、なんか自意識過剰みたいじゃん、そういうのって。『ここにいるよ』とか言ってさ。でも別にあんたにいてほしいわけじゃねーっつーの、みたいに思うこととか、あたしにはけっこうあるっていうかさ」


「……そう思うことも、あるな。確かに」


「だから、ほら。だからあたしにはさ……大ちゃんの心や気持ちが軽くなるようなことは、多分言えないんだよね。言えないんだけど、まあ、なんていうか――」


 小さな手が、そっと隣から、寄り添うようにして俺の手に重ねられてくる。握るでもなく、包み込むでもなく、ただ俺の手の上に置かれたそれは、ささやかな温もりをこちらに伝えてくる。


「――あたしは、さ。ここにいないことにするからさ。だから誰も見てないし、聞いてない」


「……っ」


「つまり、ね。ここで起こることは、世界のだぁ~れも、知らないよ」


「うぅ……」


「知らないってことに、しとくから……ちょっとぐらいは我慢が続かなくたって、いいんだよ」


 ぽつりと呟くように樹里がそんな言葉を落とすと同時、目の奥から熱いものが一気に溢れ出る。


 ぽたぽた頬を伝う水滴は、自分でもびっくりするぐらい止まらなくて。


 人前じゃとても晒せないぐらい、きっと顔面はくしゃくしゃに歪んでて。


 膝の上に置いた手は、すぐにびしょびしょになってしまったから、樹里の手まで巻き添えを食らって濡れてしまって。


 だけど、樹里はいない。いないのだ。ここにはいない――ということに、なっている。彼女がその設定を、自分ではっきり口にしたから。


 だからここにいるのは俺一人だけ。他には誰もいないし、見てないし、聞いてない。俺の涙を、俺の嗚咽を、俺の情けない姿を、知っているのは俺だけだ。


 なのにそのくせ、孤独に流す涙の割には、頬を伝う雫は不思議と温もりに満ちているようで。


「……ありがとな、樹里」


「樹里なんて人、この場にいませ~ん」


「……そうだったな」


 でも、いるんだよ――という言葉は胸の内だけに留めておいて。


 今だけは、樹里に感謝している俺がいるのであった。

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