第19話 キャンプ

 昼休みを迎え、いつも通りに食堂の裏に顔を出すと、そこではもうすでに樹里が待っていた。イヤホンを耳に突っ込んで、どうやら音楽でも聴いているらしい。右足のかかとが、リズムに合わせて小刻みに上下していた。


 彼女の視界に入るようにして手を振ってみると、樹里は「おっ」という感じの顔つきになりながらイヤホンを外した。くるくると手馴れた様子でケーブルを巻きながら、「おっそ〜い」と笑い交じりに言ってくる。


「遅かあねえだろ」


「え〜、そうかな? だいぶ待った気がしたけど」


「バカ言え」


 まだ、前の授業が終わってから五分と経っていない。わざわざ話があると樹里が言うものだから、これでもかなり急いだのだ。


 俺がそう主張してみると、樹里は「テヘッ」と可愛らしく舌を出す。うん、これは、作ってる・・・・方の樹里だな。こっちの樹里は、なんだか久しぶりのような気もするな。


「わ〜かってますよぅ〜だ。先輩が遅かったんじゃなくて、実はこっちがちょっと早く授業終わったの。中途半端に進めてもどうせ覚えないからって」


 とかなんとか口にする樹里は、俺のことを先輩・・呼びした。つまり今は、ぶっているほうの樹里ということである。


「あー、つーことはタクアンの授業だったのね」


「うん」


 タクアンというのは、数学教師の唐沢いおり先生のことである。苗字の『沢』と名前の『庵』を取って、タクアン。


 タクアンの授業は恐ろしく分かりやすいと評判だが、同時に時間通りに授業が終わらないことでも有名だ。最大でおよそ十分程度、終了時間が前後する。


 早く終われば万々歳だが、遅く終われば意気消沈。これぞ沢庵和尚のロシアンルーレット、などと駒ヶ原の生徒たちの間では密かに呼ばれているとかいないとか。


「アタリを引いたみたいで、よかったな」


 言いつつ俺は、石畳の上に腰を下ろす。そして弁当の包みをちょうど開いたところで、樹里が「んっ」と手のひらを上にして右手を突き出してきた。


 俺も心得たもので、樹里に上着を脱いで渡した。樹里は俺の上着を地面に広げると、小さなお尻をその上に下ろす。


 そして、俺と同じように地面に置いた弁当の包みを彼女は開き始めた。


「で。話ってのはなんなんだ?」


「あー、うん」


 単刀直入にそう尋ねると、樹里が横目でちらりとこちらを見る。


「まあ、なんだろ。兄貴のことなんだけどさ」


「正人の?」


「うん。えっと、行くんだってさ」


「はあ……?」


 曖昧な言い方に、俺は眉をひそめた。


「行くって、どこにだよ」


「自由の国に」


「アメリカか。……ああ、つーことはあれか。野球キャンプ」


「ん、そうみたい」


 野球キャンプというのは、アメリカのフロリダ州で行われている、野球の短期トレーニング合宿のことだ。指導者は、元メジャーリーガーや大学野球で活躍した選手などといったそうそうたるもので、メジャーリーグ式の野球メソッドや効率的な練習法を学ぶことができるらしい。


 日本でも、プロ野球選手を志す学生や、U18野球日本代表選手の練習などで使われることもあるという。


「なんかね。こうやれん? から、そういう話が三月ぐらいからもう来てたんだって。費用の一部を負担するから、ぜひこの練習に参加してみないかって」


「いい話じゃないか。それだけ、あいつの右腕に大きな期待がかけられてるってことだ」


 野球キャンプの費用は決して安くはない。


 1週間でおよそ二千ドル。日本円にして、二十万円は下らない。それに加えて、フロリダまでの渡航料金だってかかる。航空券がどの程度するものか、詳しく知っているわけではないが、これだって十万ぐらいはするはずだろう。


 合計でかかる金額は、三十万か、四十万か……高野連が費用の一部を負担するのだとして、一般家庭としてはかなり大きな出費だろう。


 しかし、正人にはそれだけの金をかける価値がきっとある。去年、駒ヶ原は甲子園の初戦、7−2で敗退した。だが、その日の正人の記録は、その年の優勝校を相手にノーヒットノーランを達成しているのだ。


 正人が投げたのは、一回から七回までの計七イニング。七回裏の攻撃で出塁した正人が、守備との接触で足を挫いてマウンドを降りてさえいなければ、勝敗だっておそらく違っていただろう。


「……うん、ほんとにいい話だ。投資としては、悪くない」


「投資とか、そういうのは、あたしにはよく分かんないけど……」


 呟くように、ぽつりと樹里が口を開く。


「あたしは、なんかね、けっこう……っていうかかなり、びっくりしてる」


「びっくり、か。俺は逆に、納得っていうか、確かになって感じだけどな」


「なんかね。なんか、兄貴が本気でプロ目指してるってのが、上手く言えないけど実感、みたいな? 持てないっていうかさ。だって、プロになったらテレビとか出るんだよ? 兄貴が? なくない?」


「どういう理屈だよ」


 つい、苦笑を漏らす。テレビに出るとか出ないとか、そういう発想が真っ先に浮かんでくる辺りが樹里らしいなと微笑ましい気持ちに俺はなった。


「まあでも、わざわざ話してくれてありがとな。知れてよかった」


「……ごめんね、あたしからで。兄貴からの方が、本当はよかったかもしんないんだケド……」


「気にすんなよ。ちょっと、言い出しにくいだろ、あいつだって」


 だけど。


「あいつのことだから、アメリカまで持ってってくれるんだろ。俺のミットも一緒に」


「うん、そう言ってた」


「そいつぁ……光栄な話だよ」


 胸の中が、温かいもので静かに満たされていくような、そんな感覚があった。


 俺の分まで託した夢を、あいつがどんどん叶えていってくれている。それが誇らしくもあり、だけどどこかで、しんみりとした感覚もある。


 だけどそれは、寂しさとはまた違う。どんどん離れていく背中に、今は素直な気持ちで声援をかけてやることができると思うのだ。


「いつだ?」


「え?」


「いつ、日本を発つんだ?」


「あ、えっと。来週の、金曜日。電車で羽田まで行くって言ってた」


「……そうかよ。なら、俺もその日は行かないとな」


「行くって?」


「決まってんだろ」


 フッと俺は頬で笑った。


「見送りだよ」


「それ、兄貴、めっちゃ喜びそう」


 樹里も、表情を綻ばせる。


 それからしばらくの間、俺も樹里も特に会話することなく食事を食べ進めた。鮎菜ねーちゃん特製の厚焼き卵は、いつも通りに今日も美味い。


 空は、いい感じに晴れていた。学食の中とは違って、ここは学生のざわめきからもほど遠い。最初は逃げ込むようにしてやってきたこの場所だが、近頃はこの静かな感じが妙に居心地よくなっている。


「あのさ」


 不意に樹里が口を開いた。


「前から気になってたこと、聞いても良かったりとか、する?」


「内容による、としか言えんな」


「じゃあ、ダメかも」


「ダメとは言ってないだろ」


「いや、でも、なんか……なんかね。あんま聞いてもいいことじゃないよう気がしてさ」


 いつになく樹里は自信なさげだ。体育座りにたたんだ膝の上に顎を乗せている横顔は、ちょっと不安そうでもある。


「いいから。言うだけ言ってみろ」


 そんな彼女を安心させるつもりでそう言って促すと、「じゃあ……」とおずおずと樹里は質問を口にした。


「あのさ、大ちゃん……なんで大ちゃんは、兄貴とあの女がくっつくように協力したのかな? ……あ、ごめん、これやっぱないよね。聞いたらダメだったよね。ごめん、嫌だと思うし、答えてくれなくても全然いいから。変なこと聞いてごめんね……」


「あー、いや、別にそれぐらいなら構わんぞ」


「いいの!?」


「おう。てかお前なんかビビりすぎじゃね?」


 ちょっと笑えるレベルで腰が引けてたんですけど。

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