第25話 不測の遭遇

 家に帰ると、鮎菜ねーちゃんが夕食を作って待っていてくれた。


 鮎菜ねーちゃんは、正人の事故のことを知っても特に何も言いはしない。相変わらず、いつも通りの態度で俺に接してくれている。


 その変わらなさが、今の俺にはありがたかった。変わらないものがあるというだけで、ホッとしたような気分になれるから。


 鮎菜ねーちゃんの作ってくれた夕飯を食べ、風呂に入って歯を磨き、ベッドの上にごろりと寝転がる。白い天井をぼんやりそのまま見上げながら、ふと、真琴さんの言葉を思い返す。


 幸福はいつだって、未来に作り出すものだ――真琴さんはそう言ったけれど、誰しもが未来を与えられているわけじゃない。少なくとも、仮に正人が目を覚ましたとしても、野球選手としてのあいつの未来はもう閉ざされてしまっている。


 それを知った時、正人はどう思うのだろうか。


 そんなことを思うと、なんだかやたらとくさくさとした気分になって、俺は電気を消して寝た。夢は、見なかった。


  ***


 週明けの月曜日。


 学校へ行くために玄関を出たところで、車がやってきて家の前で停まった。


 いかにも高そうなセダン車だった。窓ガラスはスモークガラスになっていて、中の様子を見ることはできない。突然、見知らぬ車が現れたことを怪訝に思っていると、不意に助手席の扉が開かれる。


 そうして助手席から現れたのは、俺のよく知っている人間だった。というか、よく知っているもなにも、母親だ。こうして家に帰ってくるのはけっこう珍しいことで、ほとんど一ヵ月ぶりぐらいに顔を合わせたんじゃないかとすら思う。……もっとも、顔を合わせるたびに俺などはうんざりした気分になってしまうのだが。


 助手席を降りた母親は、こちらの方には目もくれず、運転席の方に振り返って何事か言葉を交わしているようだ。別れ際の挨拶でもしているのだろう。開いたままの扉越しに、運転席に座っている人物の顔がちらりと見える。


 二十代も半ばといった年頃の、男の顔だ。もう四十近くになるというのに、母親はこれぐらいの年齢の男をつかまえるのが妙に上手い。俺は正直、こうした母親の男の趣味を気持ち悪いと思っている。怖気が走る、とすら言ってもいい。一度などは、十代にしか見えない男を連れていたことすらあるのだ。


 やがて母親が扉を閉めると、車はすぐにエンジン音を上げ、道路を走り去っていく。


 その車を見送ったところで、彼女はこちらを振り向いた。


「あら。いたのね、あんた」


 そして告げられるのはそんな言葉だ。こちらに向けられる視線はどこか冷淡で、妙にのっぺりとした印象が拭えない。本質的に、息子である俺に対する興味が薄いのだろう。彼女が求めているのは恋人オトコであってむすこではないのだ。


 俺は母親を無視して、そのまま学校へ向かおうかと思った。だが一方で、あからさまに無視をして面倒くさい絡み方をされるのも億劫に感じた。不愉快な感情を他人に押し付けることと、仕事で金を稼ぐことと、年下の男を誑し込むことは、この母親の特技なのだ。


「……そっちこそ。珍しいね、帰ってくるなんて」


「自分の家に帰ってきちゃ悪い?」


「……別に」


 言いたいことは色々あったが、口にするだけ無駄だと思った。たったこれだけの会話をするだけでも、随分と気疲れしてしまう。本音を言えば、このまま回れ右して自分の部屋に引き返し、ベッドに突っ伏して眠ってしまいたい。しかしだ、そんなことをすれば、この血縁上の母親と同じ建物の中で過ごすことになってしまう。それは心底から勘弁願いたいことだった。生理的な嫌悪すら、覚える。


 結局俺は、こっそりため息をこぼし、


「じゃ、学校あるから」


 とだけ呟いてその場から立ち去ることにした。この母親と同じ空間にいるだけで、なんだか気力がどんどん萎えていくような気がするのだ。早々に退散してしまうのが、精神衛生のためというものである。


 だが、そんな俺の背中に、


「大樹。待ちなさい」


 とかけられる母の声。


「……なに?」


 嫌々とした内心を顔には出さないよう気を付けながら振り返る俺に、彼女は言った。


「今日、なるべく早く帰ってきなさい。大事な話があるから、必ずね」


「そう」


「分かった? 分かったのなら『ハイ』でしょう。それぐらいの返事もできないの? 困った子ね」


「……ハイ、分かりました」


 文句も不満も嫌悪もあった。だが、俺は結局、母親の言う通りにそんな言葉を返していた。


 どうせ、逆らったところで意味がないのだ。こちらは子どもで、扶養家族で、親であり扶養者でもある彼女に対して言えることなどろくにない。もともと、なにをどうしたところで話が通じるような相手ではないのだ。素直に従っているように見せかけておくのが、結局は面倒が一番少なくて済む。


「分かったならいいわ。破ったら承知しないわよ」


 ――承知しないわよ。


 母親はよく、この言葉を使う。呪いの言葉だ。ただでさえ、ここしばらくは気分が優れないというのに、気持ちがまるでタールにでも侵されたかのように真っ黒になっていくような感覚がある。


「……ハァ」


 朝っぱらから憂鬱な感情をなんとかため息に変換してやり過ごし、学校へと行く道を歩き出す。


 このまま、家でも学校でもない、どこか遠いところにでも逃げちまおうかな。それが一番、正しい選択のように俺は感じた。

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