第12話 兄と妹的な関係

 俺にとって、樹里は妹みたいな女の子だったと思う。


 いつも俺と正人のあとをトテトテとついてきては、わがままを言ったり、甘えてきたり、泣いたり、笑ったり、拗ねたり、怒ったり、だけど最後にはやっぱり笑ったりする。彼女はそんな女の子だった。


 正人なんかはときどき樹里を鬱陶しがっていたものの、それでも子どもの頃の俺たちはなんとなくいつも三人でいた。河川敷でのキャッチボールにだって樹里はついてきて、土手に座ってキャイキャイ言ったり、時に静かに、俺たちの練習を眺めていた。


「大ちゃんも樹里のお兄ちゃんだね!」とは、樹里の口癖だった。幼い頃の樹里は、正人よりもむしろ俺の方によく懐いていて、ことあるごとに話しかけてきてはけらけら笑ったり、ぷんぷん怒ったりと表情の変化に忙しそうだったことを覚えている。


「樹里は」「樹里はね」「樹里がね」「樹里のね」……そうやって、彼女はいつも楽しそうに語った。彼女の話は大抵が自分のことばかりで、とりとめのない内容も多かったが、俺は樹里が楽しそうにしているのを見ると、本当の妹ができたような気がして嬉しかった。


 ちなみに当時の俺に、「女相手には『そうだね』『そうだったんだね』『逆にそうかもね』の三つの言葉さえ与えておけばなんとかなる」ということを教えてくれたのも樹里だった。そのことに気づくまでは、何度も樹里に拗ねた態度を取られたものである。


 ともかく、俺にとってはそんな関係だった樹里が、こんなことを言ってきたことがある。


「あたし、大ちゃんとケッコンしてあげる!」


 小学校の帰り道。後ろから追い付いてきた樹里がその時まず口にしたのが、そんな言葉であった。


 無論、脈絡なく放たれたその言葉を俺は訝しく思った。樹里がよく分からんことを口にするのはいつものことだが、その日は常にも増して妙なことを言い出したのだ。


 結婚? なんで? ってか、どうして樹里と? そんな風に俺が当惑したのも、致し方のないことだろう。それに加えて、当時の俺はまだ両親が離婚したばかりで、「俺は一生、結婚して家庭を持ったりなんかはしない」とヒネた決意を固めたばかりだった。


 だからなんだろう。樹里の言ってきたその言葉は、あまりにもデリカシーのない発言のように聞こえた。「なに、バカなこと言ってんの?」と、冷淡な態度で俺が返したのも無理からぬことだろう。


「樹里と結婚……とか、なにそれ。あり得ないから。バッカみてえ」


「樹里はバカじゃないもんっ」


 樹里は、バカと言われて平気なツラして笑っていられるような人間などではない。むしろその手の暴言、失言に対してはあからさまに不満を表明するのが、向居樹里という人間の性質だった。


「大ちゃんは、樹里とケッコンするんだも〜ん。そしてみんなでカゾクになるんだも〜ん」


 そのような世迷言を言って、「へへっ」と無邪気に笑ってみせる。「名案でしょ?」とでも言いたげに、得意げに胸も張ってみせる。


「きっとそしたら楽しーよ! パパとママも言ってたんだよ? 一緒にいるのが楽しくて、幸せで、だからずっと一緒にいられたらいいなって思ってケッコンしたんだって! 樹里も大ちゃんと一緒にいるの楽しいから、大丈夫だねっ」


「大丈夫、とか……そんなんじゃなくて」


 眩しい笑顔から逃れるようにして、俺は樹里から顔を背けた。


 このときは彼女の、真っ直ぐで混じり気のない瞳が痛かった。俺が信じたくても信じられないものを、いともたやすく信じて疑っていない姿が苦しかった。


「お前とはありえない、とかじゃなくて……。結婚とか、一生、する気ねーし」


「なんで?」


「だって、家族とか別にいらねえし」


「どうして?」


「どうしてって……」


 答えあぐねて言葉に詰まる。


 そんな俺の目の前で、樹里はなぜだか、その目にみるみる涙を浮かべ、やがて決壊したそれが次から次へと頬を伝い落ち始めた。


「バッ……な、なんで」まさか泣き出すとは思っていなかった俺はもろにうろたえる。「なんでお前が泣くんだよ!?」


「だってぇ……」


 えぐっ、ひぐっ、としゃくり上げ、樹里が言葉を絞り出した。


「だって……大ちゃんが悲しい言うんだもん〜」


「悲しいことって、あのな……」


「家族なんかいらないなんて言っちゃやらぁ、大ちゃんは樹里のお兄ちゃんなのにぃ……」


 そんなことを言いながら、樹里が涙を溢れさせたまま抱きついてくる。顔を胸に押し付け、ぐりぐりと頭を動かしながら、


「家族なんていらないなんて言ったら、大ちゃんがひとりぼっちになっちゃうのにぃ……えぅぅぅ……」


 などと嗚咽を漏らして、訴えかけるように言ってきたのだ。


「わ、分かった! 分かったからとりあえず泣きやめ、な?」


 こんな風にされると、当時の俺は樹里に弱い。慌てて泣き止ませようと、そう言って必死で宥めると、彼女は俺からちょっと身を離して「……ほんとに分かった?」と問いかけてくる。


「分かった、分かってるから! モチ、完璧に分かりまくってるってーか、俺に分からねーことなんかなんもねーしみたいな!?」


「……じゃあ、なにが分かったかって」


「それは、えーっと……」


「……グスッ」


「だぁぁぁぁぁ! 俺は樹里のお兄ちゃん! な? ほら、分かってるだろ?」


「ひぅ……」


 おい待てなんで泣く?


「なんか……分かってくりぇて、嬉ひくて……」


「悲しくても嬉しくても泣くのなおまえ!?」


「えぐっ、ひっく」


「ああもう! 帰りにジュース買ってやるから、泣きやめ!」


「……ポッキーがぃい」


「ほんとアレ好きなお前」


「ん」


 うなずき、樹里が泣き笑いみたいに表情を綻ばせる。


「大ちゃんと同じぐらいすきっ」


「……なんだろう、微妙に有り難みに欠ける」


 ともあれ、帰りに樹里にポッキーを買ってやれば、割合あっさり機嫌も直して。


 ……なんでいきなり、結婚って話になったのかは、結局分からないままだったけど。あれはあれなりに、樹里が俺を元気付けようとでもしていたんじゃないかってことぐらいは今なら分かる。


「仲直り……か」


 ソファから身を起こして、ポツリと呟く。


 樹里がなにを考えてるのかは、やっぱりよく分からない。


 だけどそれは今に始まったことじゃなくて、だからこそきっと俺の方から歩み寄らないといけないだろう。


 だって俺は樹里のお兄ちゃんらしいからな。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る