第35話 捨てられるのが怖くて痛くてそれならいっそのこと

――捨てられるのが怖かった。


昨日まで笑いかけてくれていた誰かの、冷たい視線が怖かった。


だから自分でも気づかずに選んでいた。捨てられるよりは捨てる方にと、いつしか必死になっていた。


―――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 試合後、ベンチ内の空気は最悪――というほどではなかった。


「惜しかったなー」「まあ仕方ないっしょ」「帰りにラーメン食ってこうぜ」「え、カツ丼がいいんだけど」「カレーに一票!」「なんでもいいっしょ。とりあえず腹減ったー」「これで明日から受験勉強かー」「おい嫌なこと思い出させるなバカ」――等々、交わされる言葉の温度はむしろ明るいぐらいだった。


 県大会の準決勝……そこまで進めた自分たちを、むしろ誇るような雰囲気さえあったかもしれない。そしてみんな、目先に迫った高校受験のほうが大事だったのかもしれない。


「あのっ、みんな――」


 明るい雰囲気に一石を投じるようにして、気づけば口を開いていた。


「俺のせいで……すまん」


 頭を下げながらそう言った。深く、深く、謝罪の意思を必死に込めて。


 そんな俺の行いに対する反応はというと。


「まあ、こんなもんじゃね?」


 あまりに軽い、チームメイトたちの言葉。


 俺の罪悪感とは裏腹に、温度差を感じる慰めの言葉だった。


「笹原責めても意味ねえしよー」「つーかあれストライクだったろ」「しゃーねーしゃーねー。ま、今日までお疲れさんってことで」「むしろここまで来れたことが奇跡だから」


 責められないのが、痛かった。


 優しい言葉をかけられるぐらいなら、全員から責め立てられた方がマシだった。責任を追求されて、弾劾されるぐらいの方が、よっぽど心地よかったと思う。そうでもしなければ、俺の感じているこの罪悪感と釣り合いが取れるとは思えなかったから。


「負けたのはお前のせいだ」――そういう言葉を、この時の俺は望んでいたのだと思う。自分の中でははっきりと主張している罪の意識が、無意識に裁かれるのを求めていたから。


 頭を下げる俺の肩を背中を、何人かが軽く叩いていった。そして、一人、また一人とベンチをあとにしていく。結局、誰一人だって、俺に責任を求めたりはしない。


「――ッ」


 唇を噛み締めながら顔を上げる。すると、ベンチに一人だけ残っていた男と目が合った。


 正人だった。


「正人……」


 掠れた声で名を呼ぶと、意思を感じさせる瞳が一度、瞬きした。その目は悲しみに暮れてはいない。それどころかむしろ、賢者じみた思慮深さをたたえてすらいた。


 その表情に思わず身構える。今度こそは叱責の言葉が来ると思ったからだ。正人ピッチャーの目にはあからさまなほどに、俺の失態は見えていたはずだから。


 しかし。


「大樹。反省会するぞ!」


 正人が口にしたのは、そんな言葉だった。


「反省……会?」


「ああ。同じようなシチュエーションで次はどうすればいいのか、話し合う必要があるだろ?」


「話し合うって……でも、もう俺たちはこれで部活も引退――」


「終わってねえよ」


 正人ははっきりとそう言った。


「ここで終わりじゃねえだろ、オレたちは。中学は終わりでも、高校がまだある。むしろ、ここで負けたのはいい経験だ。天狗にならずに済む。次の対策も立てることができる。だから――次の勝ちを拾うのに繋げないとダメだろ、こういうのも」


「……」


「だから反省会はしないとな。負けて凹んで泣いて悔しがって、さあおしまい――なんてつまらんことはなしにしようぜ」


「お前……」


 絶句する俺に向かって、正人が苦笑を漏らしてみせる。


 それから昔を思い出すような目つきになって、口を開いた。


「そもそも……先に言い出したのはお前だろうよ。オレたちなら甲子園にだって行けるって、さ」


「……」


「先に降りるなんてなしだぜ、相棒」


 冗談めかして大樹が言う。そんな昔に、世間知らずなガキが無責任に言った言葉を、今でも覚えていることが意外だった。


 ……ついてけねー。


 そんな正人とは裏腹に、俺はそんなことを思ってしまった。


 どこまで本気で、そんな約束をこいつは信じていたのだと、俺は怯んでしまったのだ。先に口にした俺ですら、ほとんど忘れかけていたというのに。


「……そうだな。分かってるよ」


 口ではそう返しながらも、胸の内では全然別のことを考えていた。


 いつか俺が本当に正人についていけなくなった時、正人は一体どうするのだろう。


 俺よりも優秀な捕手が現れた時、正人はどちらを選ぶのだろう。


 俺が正人と同じ温度で同じ目標を目指せなくなった時、俺たちの関係はどうなるのだろう。


 正人が俺より先を行き続けるのなら、いっそのこと俺は――。


「――ッ」


 その瞬間、脳裏に閃いた結論を、その時は無意識にねじ伏せた。だから今でも、この日に俺の下した結論が言葉にすれば一体なんだったのかは分からない。


 事実が示すのは、ただ一つ。


 この試合が行われてから三日後――キャッチャーミットを、俺は捨てた。


  ***


「大樹。どういうつもりだ?」


 正人の瞳に激情が見える。


 中学最後の試合が終わってから三日後の早朝。時刻は朝の五時を少し回ったぐらい。キャッチャーミットを片手にこっそり家を抜け出た俺は、ゴミ捨て場の前で正人と向かい合っていた。


 正人の家は、俺の家から通りを二つほど挟んだ場所にある。歩いて行き来できる程度には、二人の住んでいる場所は近い。


 正人は朝のロードワーク中のようだった。もうすでにだいぶ走ったあとなのか、首筋には汗が浮いている。ランニング用のシャツもしっとりと、汗を含んで湿っている。


 そんな正人が、ゴミ捨て場にキャッチャーミットを捨てようとした俺の姿を偶然見つけた。普段はめったに怒ることのない正人の顔に、怒りの色がはっきり滲んでいた。


「いや、これは……」


 言葉を返そうとするも、上ずる声では上手い言い訳も思いつかない。うろたえる俺を前にして、正人は激情をしまい込んで冷静な声で問いかけてきた。


「なんで、キャッチャーミットを捨てようとしてたんだ?」


「……それは」


「なんか、理由があんのか? 野球、辞めるつもりなのかよ」


 その追求に、俺は黙り込むしかない。野球を辞めるとか、そこまで考えていたわけではなかった。だけど、正人と野球を続けることは俺にはもう無理なことだとその時は思っていた。


 朝のひんやりした風が、沈黙する俺と正人の間を流れていく。早朝のこの時間は車も人通りも少ない。束の間の静寂が、この場を包み込んでいた。


 その静けさを打ち破ったのは、正人の方だった。


「……あーっ、くそ!」


 頭をかきむしるようにして、荒っぽくそんな言葉を口にする。


 それから、俺に向かって片手を突き出すと、


「大樹。よこせ」


 と、言ってきた。


「は?」


「キャッチャーミット、オレによこせって言ってんだよ。捨てるなんてもったいねえだろ。それ、オレの方で預かっとく」


「預かっとくって……」


「衝動的に、捨てんじゃねえよ」


 言いながら正人が、俺の手の中から半ば奪い取るようにしてキャッチャーミットを持っていく。それは、あまりに正人らしからぬ荒々しさであった。


「あ……」


「なんか、お前なりの事情や理由があるんだろうけど、今は聞かねえよ。でも、はいそーですかって見てるわけにもいかんだろうよ」


「……」


「とりあえず、ミットはオレの方で預かっとく。だから別に今すぐにじゃなくてもいい。そのうち、お前の方からまた取りに来てくれよ」


 それだけ告げて、正人は俺に背を向けた。後ろから見る正人の背中は、なぜだか震えているように見えた。


 その背中に俺はなにも言葉を告げることができなかった。ただ、少しだけホッとしていた。


 野球を辞めた俺なんか、きっと正人はもう興味を失うことだろう。正人の方から離れていくだろう。そうすればも、失う心配も捨てられる心配もしなくていい。――俺の方から、捨てたのだから。


 そんな風に、思っていたのだ。今の今まで、自分ですらそうとは気づかずに。


 たとえ失うとしても、自分から捨てたのならば痛くない……欺瞞に満ちたそんな結論を、知らない間に信じ込んでいた。


  ***


 だから結局のところ、すべては嘘の真実で自分自身すら俺は惑わせていたのだろう。


 確かに俺は、睦月にかつて惚れていて。


 だけど、都合のいいその真実を、今、正人から離れるための言い訳にしようとしていた。


 結局はただそれだけのことで――本当はただ、失う痛みを怖がって、向き合えないままでいただけだ。自分の本当の気持ちから。


「だから結局は……俺が全部悪いんだよ」


「……」


 懺悔にも似た告白を告げる俺に、鮎菜ねーちゃんが静かな瞳を返してくる。


「俺が全部怖がって、一人でビビって、誰にも言えない、どうせ分かってもらえないなんて拗ねて……勝手に臆病になってただけなんだ」


 痛みを恐れて怖気づく様は、我ながら滑稽の一言に尽きる。くだらないことに一人で怯えて、やったことはといえば正人と睦月を振り回したことぐらい。


 そんな自分が、情けなくて、バカバカしくて。


 だけど、鮎菜ねーちゃんは。


「……つらかったなあ」


 そう言って、そっと目を伏せた。


「苦しかったなあ。寂しかったなあ、大樹君」


「ねーちゃん」


「でもなあ、そがぁことよりも、なによりも」


 それから顔を上げ、彼女は励ますような笑顔をそっと浮かべ、言った。


「ちゃあんと気づけて、偉いじゃんけ。な?」

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