第34話 フレーミング
――ただの一回ですら、人は間違ってはいけないのかい?
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
思えば――。
ずっと、自分の気持ちを言葉にするのを俺は恐れていたのかもしれない。
そうやって、自分と向き合うことに怯えていたのかもしれない。
「あのさ――」
だけど、今こそ臆病な自分から抜け出すために、勇気を振り絞らないといけないのかもしれない。
「一年半前――野球を辞めた時のことなんだけどさ」
そうして俺は、鮎菜ねーちゃんに向かって言葉を確かめるようにして話し出した。
ことの発端は、きっと『あの夏』。
――あの日見た夏空の青さに、本当の気持ちを置き去りにしたままでいることを、ようやく思い出せたのだ。
***
じゅーわじゅわじゅわじゅわじゅわじゅわ……と、うるさいぐらいに蝉が性欲を叫んでいた。
ヤりたい盛りの虫の声。気忙しいそんな鳴き声を聞く俺の首筋は、熱い太陽に炙られて盛大に汗を吹いていた。
18.44メートル先にいる、頼れるうちの
グラブの中の手が汗でぬめる。一度キャッチャーミットを外して、手のひらの汗をユニフォームのズボンで拭う。マスクの下、ごくりと喉を鳴らして冷静に状況を整理する。
七回の裏。ツーアウト、ランナー二塁、三塁。足の速い一番走者が、鋭い目つきで
得点版に目を向ける。スコアはこちらが一点リード。ここを抑えれば、勝利の女神が微笑んでくれる。
「……っ、すう、はあ」
気持ちを落ち着けるために深呼吸を一つ。それから立ち上がり、マスクを取って声を上げた。
「しまっていこうぜ!」
おお! とチームメイトが沸き立つ。試合も大詰めを迎えているにも関わらず、その気勢の衰えた様子はまるでなかった。
ボールカウントは、スリーボール、ツーストライク。
――ここが今日の大一番だ。
そう思いながら、正人に向けて右手で送った俺のサイン。それが意味するところはひとつ――
相手が四番バッターだとか、試合が大詰めだとか、そういうのはもう関係ない。いや、むしろ逆なのだ。一番疲れてキツい時に、小細工なんかに逃げようものならミスをする。
得意なことだけやればいい。それでバッターを打ち取るのが、
そんな俺の気持ちが伝わったのか、正人が口元に微かに笑みを浮かべた。
じりじりと首筋を焼く夏の日差し。
白い砂にも反射して、マスク超しにも眩しい陽光。
全身が気だるくて、汗みずくで、だけど意識は冴え渡っている。帽子の下、正人の額から頬へと伝う汗さえも、視認できそうな気さえしていた。
息を詰める。緊張とリラックスの真ん中で、全身の筋肉のバランスを取っていく。
そして――その瞬間がやってきた。
セットポジションから正人が左足を上げる。それから思い切り前に踏み込み、ボールのリリースポイントはスリークォーター気味の高い位置。終盤の今となっても、腕の振りには変化が見えない。
直後に放たれたのは、バッターの手前で鋭く変化する140キロのスライダーだ。体格に恵まれている正人だからこそ投げることのできる、中学生らしからぬ威力のボールは、左バッターの腰に抉りこむような軌道を見せ、俺のキャッチャーミットに収まった。
内角低め。ストライクかボールかギリギリの、際どいコース。だけど今日は、ずっとストライクに取られ続けていたコース。
しかし判定は。
「――ボールっ! フォアボール!」
無念の、四球。四番バッターは残念そうな顔をしつつも、一塁へ向かって駆けていく。
その背中を見送りながら、俺は愕然とした気持ちになっていた。
(俺のせいだ)
胸を埋め尽くすのは、そんな思い。今のは完全にストライクだった――だけど、ストライクにならなかったのは、どう考えても俺のせいだった。
フレーミング、という技術がある。キャッチャーの技術だ。
それを簡単に説明するなら、判定の難しい際どいコースのボールを、主審にストライクとして取らせる技術だ。受けたボールを抑え込む力を利用して、ストライクゾーンの外側から内側へ捕球したボールを集めるようにして動かすことで、ギリギリのコースに入ったボールを
もちろん、あからさまなボール玉をストライクにできるわけではない。けれども今のシチュエーションなら、普段通りにやっていたなら、ストライクに俺はできていたはずなのだ。
だが、ボールを受けた瞬間、グラブの中で手が滑った。ズボンで拭いきれなかった汗が、最悪のタイミングで俺の動きを狂わせた。フレーミングが不十分だったせいで、試合が僅かに長引いた。
ボールを正人に返球したところで、右のバッターボックスに五番バッターが入ってくる。ボールを受け取った正人の口が、「気にするな」と動いているのが見えた。「コイツで仕留めればいい」と動いたのも見えた。だけど俺は、正人みたいに冷静には頭を切り替えることができなかった。
だから日よった。
際どいコースを正人に指示せず、確実にストライクを取れるコースだけを投げさせた。だけど、七回まで正人の球に付き合ってきた五番バッターなだけはある。食らい付き続けること実に八球――ファールチップで逃げられるたびに、追い込まれるのはこちらであった。
そして最後の大ポカは、空振りで打ち取ったと思った球をグラブで弾いてしまったこと。後ろに逸れたボールを慌てて追う。バックネットがやけに遠い。やばいやばいやばい、思考を埋め尽くすのはそんな言葉だ。そして背中ではどよめくような様々な声。「走れ走れ走れ!」「振り逃げだ!」「帰れ帰れ!」「帰すな!」「――大樹、来い!」
最後の声が聞こえたと同時、ようやくボールを拾い上げる。慌てて振り向くと、もうすでに一人が帰っていた。そしてさらにもう一人、バックホームを狙っている。
ここで帰られたらサヨナラ負けだ――思考は一瞬。送球動作は、その直後。ホームまで詰めてきていた正人に向かって慌ててボールを投げるも、しかしそれを正人が受け取った時には時すでに遅く。
「負けた、のか――」
中学最後の大会で。
完全に、俺の責任で。
「マジかよ」
――マジなんだよ。
***
けどきっと、これはただのきっかけなのだ。
本当の原因は、もっと根が深く、太く――認めがたいまでに臆病な、俺自身。
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