第33話 邪魔をする性格

いったい誰が悪かったのか。

誰もが悪かったのか。

それとも誰も悪くなかったのか。

あるいは、自分だけが間違えていたのか……。


それはもう分からない。拗れた想いは戻らない。

けれどただ一つ、はっきりと分かることがあった。


臆病なのは――俺だった。


―――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 ゴールデンウィークを迎えた、五月の始め。


 昼過ぎに起きた俺は、自室のベッドでごろごろと無為に時間を潰していた。スマホを見たり、ベッドの脇に積んである漫画を手に取ったりしながらも、なんとなくどれも続かない。


 なんだか自分を持て余しているような感覚だった。暇だというのに、何をやりたいということもない。意欲的な気持ちにまるでなれない。今この瞬間の俺は、世界で一番怠惰な人間ではなかろうか――などと、そんなことを少しばかり思う。


 せめてもの己の惰性に抵抗を試みるべく、一度はベッドから離れ机に向かってはみたものの、気づけば教科書や鉛筆ではなく、手にはスマホを握っている。しかも、ネットを開いて検索欄に打ち込んでいるワードは、『巨乳 女教師 無修正』などと。……指が性癖を覚えている。


「元気ビンビンじゃねえか、俺」


 ハッ、と自嘲交じりに笑って、無造作な仕草でスマホを放る。宇宙一無駄な投擲を、クッションがポフンと間の抜けた音を立てて受け止めた。


 ついで、今度は、バフンという音が部屋に響く。こちらの音は、俺がベッドに飛び込んだ方の音だ。


 ――最近はしばらくこんな感じだった。なんというか、あまりにも激しく自己主張(!)する「無」に取り憑かれているかのようだった。


 こうなるともう、やることなすことすべてが無駄のように感じられる。特に活動してもないのに、疲労感や倦怠感を覚えるようになる。思考もろくに働かないし、もはや完全に惰性マックスで日々を過ごしている有様だ。


 そんな風にして、俺は「無」だった。けれどもそれは、「無意識」だったというわけではない。


 むしろ、意識の方は気を抜けば、睦月の言葉を勝手に思い返していた。


 ――大樹君が私たちから去っていこうとするのは、本当に、『私』が理由なのですか?


 睦月にこう訊ねられた時、痛いところを突かれたと思った。丁寧に丁寧に、いくつも理由と言い訳を重ねて封じた心の奥底を、強引にこじ開けられたかのような気持ちだった。


 彼女の言葉の威力は大きく、忘れようとすればするほど、意識するまいと考えれば考えるほど、どうしても思い返してしまう。好きな女を親友に取られた――自分ですらそう信じていたのに、ここへ来てそれが本当に事実だったのかだんだん分からなくなっていく。


「マジで俺、しょーもねー……」


 考えることが億劫になって、ベッドの上で寝転びながら窓の外へと目を向けると、青い空が嫌味なぐらいに広がっている。澄み渡るほどに、晴れた空。こんな天気の日に思い切り外で体を動かしたら、きっと気持ちがいいことだろう。


「大樹君ばぁ起きちょるけー? 昼ごはん、そうめんばぁ作ったで、もう起きちょるなら食いやぁー」


 そんな風に思っていると、階下から鮎菜ねーちゃんの声が聞こえてくる。


「あ、起きてるー!」


「ほいじゃあ、はよぅ降りてきぃやー。一緒にぇ」


「はーい、分かった」


 返事を返しつつベッドから降りる。窓から差し込む陽の光から目を背け、俺は部屋を後にした。


  ***


「あれ? お、なんかきれいだ」


「やだも~。そがぁこと言うて褒めたところで、そうめんぐらいしか出んにぃ?」


 ダイニングテーブルの上を見て、思わず感嘆の言葉を漏らすと、あからさまに鮎菜ねーちゃんが照れてみせる。自分のことを言われたものだと勘違いしたらしい。


 しかし残念ながら、俺が綺麗だと評したのは鮎菜ねーちゃんの方ではない。とはいえ、別に鮎菜ねーちゃんが不美人であるというわけではない。『綺麗』というよりは『可愛い』という言葉の方が彼女には似合うというだけだ。素朴で、純朴そうで、これはこれで男に好かれそうだと思う。あと胸……いや、これに関してはあえて語る必要もあるまい。


 だがまあ、嬉しそうにしている鮎菜ねーちゃんを見るのは気分がいい。あえて言葉を訂正することなく、おとなしく俺はテーブルに着く。


「簡単なご飯で悪かぁねえ。けどまあ今日は暑いでな、さっぱりしとるんもええがぁ思って」


 簡単、などと鮎菜ねーちゃんは口にするけど、テーブルの上に並べられているそうめんはやっぱりひと手間加えられている。麺はざるに上げられ、几帳面に一口ずつ上手い具合に丸められているし、添えられた皿には彩りも豊かな薬味が並んでいる。刻み生姜に、小葱に、小さく角切りにされたトマトに、大葉。見た目も涼し気だし、深皿に注がれたつゆ・・にはいい塩梅に氷が浮かんでいる。


「いやいや、全然そんなことない。美味そう」


「そうけぇ? 麺なら茹でりゃあまだまだあるで、足りんかったらうなんし」


 にっこり微笑む鮎菜ねーちゃん。それから二人で両手を合わせて、「いただきます」を唱和する。


 それから、氷に加えてドバドバぶち込んだ薬味の浮いているつゆにそうめんをつけ、ちゅるちゅると音を立てすする。だしの風味にトマトの酸味、大葉の香りや生姜の刺激がいい感じに利いていて、舌の喜ぶ感じがした。几帳面に丸めたそうめんをざるに上げているおかげで、つゆが水っぽくならないのもいい。味が薄まらないために、いくら食べても飽きが来ない。


「んめぇ」


 シンプルに一言、呟くと、鮎菜ねーちゃんが嬉しげに微笑む。


「大樹君は食いっぷりがええがぁ、ほんに作り甲斐があらぁな」


「そう?」


「そうよぉ。なんならもっと茹でるけ?」


「え? いいよいいよ、そこまでしなくて。全然足りてるしこれでじゅうぶん」


「そうけぇ……」


 ……なんでか、微妙に残念そうな顔つきをする鮎菜ねーちゃんだった。


 それにしても……なんとも、長閑なひと時である。野球を辞めてから一年半。こうしたゴールデンウィークの過ごし方は、正直まだ慣れない俺がいた。


「……」


 束の間、箸でそうめんを運びながらも、物思いに耽ってしまう。家の中で冷たいそうめんをすすっている今。太陽の下で、凍らせたペットボトルのお茶を飲んでいた昔。比べるものではないと分かってはいても――、


「……はぁ」


 どちらの方がしっくり来るのだろうかと、今日はついつい考えてしまう俺なのである。


「ため息ばぁ吐いて、なんか悩みでもあるんけ?」


「……っ」


 だしぬけに問われて驚いた。慌てて俺はかぶりを振る。鮎菜ねーちゃんに心配をさせるのは本意ではないし、なによりいつも世話になっているのだから、余計なことで気を煩わせたりはしたくなかった。


「いや、ちょっと暑いなーって思ってただけ。ゴールデンウィークが終わった後のこと考えると、うんざりするなぁ~って」


「ほんにぃ? まぁた、そがぁことうてからに……最近難しそうな顔ばぁよぅしとるじゃんけ。な~んか、悩んどるんずら~?」


「悩みなんて――」


 ――別にない、と言いかけた口を、対面に座る鮎菜ねーちゃんの人差し指が「めっ」とでも言いたげな様子で塞いでくる。その表情は、いつもよりもどこか真剣なもので……。


「大樹君の人によう気ぃ使う性格は、大樹君の良いところでもあると思うんよ」


「……」


「でもまあ時々、大樹君の邪魔ばぁする性格ずら」


「俺の、邪魔……?」


「そうずら」


 うむ、と一つ鮎菜ねーちゃんはうなずいて、


「人に気ぃ使って、自分のことばぁ言わんでおると、だぁれも気持ちに気づいてやれんがや。それじゃとしんどい思いばぁすることになるでなぁ」


 そうやって、優しく、穏やかに……だけどどこか諭すような口調で言ってきた。


「わたしは無理に聞き出そうなん思わんけどね。なんも話してくれんのは、こっちもちっとばかし心配だに?」


「それは……」


「いつでもなんでも、やぁいいがや。頼りなくても、こんなんでもわたしは家族のつもりだでな」


 そんな言葉と共に、鮎菜ねーちゃんが微笑みかけてくる。


 その笑顔と言葉が、なんだか胸に沁み入るようで……。


「……あのさ、ねーちゃん」


「んー?」


「じゃあ、聞いてもらっていいかな?」


 気づけば、そんな言葉を口にしていた。


 鮎菜ねーちゃんが、ニカっと笑う。なんとも頼もしさを感じるような、そんな笑顔だった。

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