第19話 それがどうしたってんだ

 結論から言うと、睦月は見つからなかった。街をあちこち走り回って、へとへとになって家に帰って、理由もなく授業を休んだことで親に連絡があったのかこっぴどい説教を食らっただけだった。


 俺は睦月の家を知らない。二年も塾で仲良くしてるのに、それ以外では会ったり遊んだりしたことがなかったことにその時になって初めて気づいた。だから、謝りに行くことも、慰めに行くこともできやしない。


「……チッ」


 日曜日の昼下がり。両親の出払った家で、俺は漫画雑誌を雑に放り捨てながら舌打ちをした。


 週末でも俺の家は静かだ。それは大人がいないからだと思う。団らんというものを遠い昔に置いてきたリビングには、食い散らかした菓子だとか、途中で飽きて放置されたカップ麺とかが散乱している。それの片づけ方を、俺は知らない。


 そんなものよりも、その時の俺の心を支配していたのは、あの日の睦月の顔だった。


 能面みたいな、それこそ最初に出会った頃のような……なにも感じてないような顔。そして、そういう顔をしている時、彼女の手が小さく震えていることまで、この時の俺はもう知っていた。


「……なにやってんだよ、俺は」


 頭を抱えて、リビングのソファにうずくまる。洗濯物が背もたれのところに雑にかけられたりとかしていたけれど、そんなものはどうでもいい。


 漫画を読んでもアニメを観ても、まるで満たされることはない。むしろ、空虚の形が余計に浮き彫りになっていくような息苦しさの方が勝っていた。


 そんな時であった。


 ピンポーン、とベルの音が家の中に鳴り響くと共に、


「おーい大樹! 遊びに来たぞ!」


 と、元気な男のデカい声と、


「大ちゃ~ん! あっそぼ~!」


 と、これまたやはり元気な女の声が、玄関先から聞こえてきたのは。


 その正体は、週末になると頻繁に来襲してくる、向居兄妹のものに相違なかった。


  ***


「なんか相変わらず荒れてんなー、お前の家」


 洗濯物を洗濯機にかけながら、呆れた口調で正人がこぼす。それからカップ麺の空きパックを詰めたゴミ袋の口を縛り、「これでよし」と言って台所の奥にある掃き出し口に袋を置いた。


「……そんなことまでしてくれなくていいって、いつも言ってんだろ」


「え、やだよ。ごみ溜めで遊ぶ趣味はオレにはねーぞ?」


「ごみ溜めって……」


 正人の言葉に俺は表情を歪めるも、言ってることは間違っていないため否定もできない。


 ものの三十分ほどで、すっきりと片づけられたリビング。これをしたのは、つい先ほど遊びにやってきた正人である。ちなみに俺が手伝おうとしたら、「いや、大樹は邪魔になるからこいつを頼む」と言って彼は樹里を押し付けていた。


 その樹里は、ソファに座る俺の膝の上で、「大ちゃん、好きっ」とか言ってぐいぐいと体をもたせかけてくる。正直重いし、うっとうしいが、懐かれる分には悪い気はしないので俺は適当にあやしていた。


「さーて。一仕事終えたし、ゲームしようぜゲーム!」


「あ……ああ、そうだな」


「今日はなにする? マリィカー?」


 あれこれ言いながら、正人がゲームラックをガサゴソと探り出す。


 向居兄妹は、昔から週末になるとよく、こうして俺の家に遊びにやってくる。俺の家には大人があまりいなくて、子どもだけで遊ぶのになんだかんだ都合が良かったからだ。


 そうしているうちに、ある日正人が、「こんな汚い部屋で遊べるか!」と言い出して荒れ果てた俺の部屋を片付け始めるようになった。最初のうちは俺も手伝っていたのだが、ゴミの分別がどうとか、洗濯物の表示がこうとか、そういうのをよく知らないままに手伝ったため逆に手間と仕事を増やし、最終的には樹里の面倒を見ることが俺の仕事となった。


 俺と違って、正人はけっこう家の家事を手伝っているらしい。本人曰く、「手伝わされてるだけだよ、あんなもん」とのことらしいが、それでも料理や掃除や洗濯の仕方を親が教えてくれるというのはいいことだと俺は思っている。


 正直なところ、正人が部屋の掃除や片づけをしてくれるたびに、俺は申し訳ない気持ちになる。うちの問題に他人を付き合わせているような気持ちになるからだ。


 しかし、そんな俺に対して、


「んなもん、気にするなよ。だいたい大樹、家事とか全然分からねえんだろ? ならできる方がやりゃよくね?」


 と屈託なく言ってしまえるのが、向居正人という男なのである。


 それから、


「それに、ただで家使わせてもらうってのもなんか、ほら、あれだろ」


 などと、なぜか少し照れた様子で口にしたりするのである。多分、家事ができるというのが男としては少し気恥ずかしかったのだと思う。


「おっし、じゃあ今日はこれやろうぜ!」


 そう言って正人が取り出したのは、『大乱戦! クラッシュブラスターズDX』だ。通称、クラブラ。最大で四人対戦までできる、乱闘型の吹っ飛ばしアクションゲームである。


「さっきまでマリィカーっつってたのは何だったんだよ」


「漁ってるうちになんかそっちがやりたくなった。ダメか?」


「いいけどさ……」


  ***


「大樹。お前さ、なんか今日、凹んでるだろ?」


 正人がそう言って口を開いたのは、樹里がゲームをするのに飽きて、俺の膝の上でうたた寝を始めた時だった。


「……分かるのか?」


「女房役の気持ちぐらいは、な」


「そうか……」


 投手と捕手の関係性は、よく、夫婦に例えられる捕手である俺はつまるところ、正人の女房役というわけである。


「で、どうしたんだ? オレが相手でよけりゃ、言ってみろよ」


「……いいのか?」


「今さら、遠慮するような仲でもないだろ。言いたくないなら、無理には聞かないけどさ」


 樹里が寝入ったタイミングでそう切り出してきたのは、正人なりの気遣いだったのだろう。


 それをありがたく思いながら、正人の厚意に甘えて俺はぽつぽつと話し始めた。


 塾にいる、いつも独りぼっちの女の子のこと。その子との関係を揶揄われたこと。それになんだか混乱してしまって、「違う!」と何度も言ってしまったこと。そのせいで、相手を傷つけてしまったこと。


 それは罪の独白にも似ていた。そんな俺の言葉を、正人は静かに黙って聞いてくれていた。


 やがて、俺がすべてを語り終えたところで正人は口を開いた。


「それで? それのなにが問題なんだ?」


「……は?」


 正人の口から放たれた言葉を一瞬理解することができなくて、俺は思わず目を細める。


「いや、だって……俺のせいで、俺は、睦月を……」


「そうだな。確かに傷つけたかもしれないな」


「だから……」


「でも、よくあることだろ? そんなのは」


「よくあるってどういうことだよ」


「じゃあ、逆に聞くけど。大樹はオレと一度も喧嘩したことないって言えるか?」


 そう切り返されて黙り込む。


 正人と喧嘩なら、たくさんした。殴り合ったことも、実は、ある。俺が正人を傷つけたこともあれば、正人に傷つけられたことだってある。


 そういうのを繰り返してきた。女房役をやってれば、ムカつくことも言いたくなることもある。きっと正人だってそうだったのだろう。


「オレはな、言えないぞ。大樹と喧嘩したことなんてない、とかさ。いくら仲が良くたって、そんなの言えるわけないだろ。っていうか」


 少し気弱に笑いながら、正人は続きを口にした。


「一度も喧嘩しないことが友達の条件だってんなら、オレは誰とも友達になれる気がしないぞ」


 それは確かに、と俺は思った。


 喧嘩をしない、ということは、ぶつかり合ったりしないということで。


「……ああ、そうか」


 そこで俺は、ようやく気付いた。


 今、俺は睦月と、初めてぶつかってる最中なんだって。そして正人は、俺よりも先にそのことに気づいていたんだって。だから、「なにが問題なんだ?」と彼は言ったのだ。


 ぶつかったなら乗り越えて、もっと仲良くなればいい――きっとそう言っているのだろう、正人は。


 だから俺は、そのことに深い感謝を覚えながら、


「正人……ありがとな。やっぱお前、嫌なやつだわ」


「なんでそうなるんだ!?」


「良いやつすぎて、嫌なやつってことだよ」


 なんて言って、二人で笑い合うのだった。


  ***


 そして、火曜日を迎えた。俺は、一つの決意を胸に抱えて、いつも通り塾へと向かった。


 睦月は先に塾にやってきていた。教室の隅で、今日の分の授業の予習をやっている。


 その後ろ姿はいつもと変わらないように見えた。授業前の、賑わいでいる教室で、ポツンと一つだけ浮いている背中だ。


 独りぼっちの、寂しい背中だ。そんな睦月の背中を見ていると、彼女はどれだけ孤独な夜を過ごしたのだろうかと胸が息苦しくなる。


「よし」


 俺は小さな声で気合を入れると、ノートに向かっている睦月の目の前に立った。


 こちらに気づいた睦月が、こちらに向かってゆっくりと顔を上げる。その顔は、いつもより少しだけやつれているように見えた。


「笹原さん……?」


 その呼び方に、胸が痛くなる。大樹君、とついこの間までは俺のことを呼んでいた。だけど、『友達じゃない』今の俺を、彼女は名前で呼んだりしない。


 ふざけんなよ、と思った。なんだその他人行儀な呼び方は。その声で俺をそんな風に呼んだりすんな。笹原さん、じゃないはずだろ。その声で、俺のことを呼ぶときには、睦月、お前はさ、ちゃんと、『大樹君』って言わなきゃならないはずだろ。


 むしゃくしゃしていたし、イライラしていたし、はっきり言ってムカついていた。睦月に対して、ここで初めて俺は明確な怒りを覚えた。八つ当たりにも近いけど、それとは多分少し違う。


「俺はお前の友達だ!」


 開口一番、俺はそう言って叫んでいた。


「睦月は俺の友達だ! 誰がなんて言ったって、どんな文句を口にしたって、俺とお前は友達なんだよ!」


「あ、あの……?」


「だから『友達じゃない』なんて言うな! 他人行儀な呼び方をすんな! 睦月がなんと言ったって、俺はお前の『友達』だって何度だって言うからな!」


「ささ、はら……さん?」


「違うだろ! 『大樹君』だろ、そこは!」


 きょとんとした表情になる睦月に、俺はさらに言葉を重ねる。


「頼むから、大樹君って呼んでくれ。だって俺たち、友達だろ?」


 そう告げたところで、睦月は呆然とした面持ちになる。だが、次第にこちらの言葉を理解していったのか、その表情が崩れ始めた。


 睦月が表情を崩すことは、めったにない。だけど、この時の彼女は、気づけば表情をくしゃくしゃにして――涙をぽろぽろ流し始めたのだ。


「だ、だって、わたし……私、なんかが友達だと……笹原さんが迷惑するって……きっと迷惑なんだって」


「だから違うだろ。そんな呼び方すんなっつってんだろ」


「で、でも、だって……いつも、いつもそうだったんです。私は、だって……きっとお父さんも、お母さんだっていらないって言うんだったら、いったい誰が私なんかを、って……」


「それがどうしたってんだ! 睦月なんか、って言うやつがいたら俺がぶっ飛ばしてやる。お前は『なんか』じゃないだろ、全然。睦月『だから』、俺の友達なんだよ」


「だって、それは……そんなのって……」


「だから、俺のために言った言葉で睦月が傷ついたりするようなことすんな! 次に俺のことを友達じゃないって言ったりしたら、その時は本気でぶっ飛ばすからな!」


「だ、だ……だいきくん……えぐっ」


 もう喉が詰まって、睦月はなにも言えなくなっていた。だけど、その泣き顔と、そしてこくりとうなずいたのが、俺の言葉を理解したなによりの証だった。


 涙でくしゃくしゃになった睦月の顔を、服の袖で拭ってやる。ノートにぽたぽた落ちてた水滴も、ついでにさっと拭き取った。


 それから強引に睦月に小指を差し出させ、俺の小指と無理やり結ぶ。そして、なるべく頼りがいのありそうな声を作って俺は告げたのだった。


「いいか、睦月。俺とお前は、友達なんだぞ。それこそ、ずっとだ。それって親友っていうんだぜ。だから俺とお前は、ずっと友達で、ずっと親友だ!」


「ずっと友達で、ずっと親友……」


「ああ! 分かったか!?」


 少し呆けた顔つきで、睦月が俺の言葉を理解しようとする。やがて――なぜだか、ほんの少し儚げな笑みを浮かべたが、それもすぐに花が咲くような笑顔に変わる。


 そして、彼女はうなずいたのだ。


「はいっ。私と大樹君は、ずっと友達で、ずっと親友です!」


「ああ!」


 誓いの小指は結ばれたまま、俺はそこで顔を上げ、教室中を見渡した。


 俺と睦月のやり取りに、誰もが目を丸くしてこちらを見ている。なんだなんだと、訝しがっている。


 そんなやつらに、俺は全力で牙を剥いてやるのだ。


「なんか文句あっか!?」


 ――と。


  ***


 ――そして、時は流れる。


  ***


 一睡もできないままに俺は日曜日の朝を迎えた。だが、眠気は微塵も感じない。


 睦月との出会いをずっと思い返していた。まだ無邪気で、人の想いの残酷さを知らなかった日々のことだ。


 今日、俺は約束を破る。小指で交わした誓いを崩す。


「――ごめんな」


 と呟いた言葉は、誰に対して向けたものなのか。


 それは誰にも――俺ですら、分かりはしない。

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