第6話 あの夏の、あの日の――
放課後。
帰宅しようと廊下に出たところで、ヌッとバカでかい影が俺の前に現れる。
正人だった。
「よう。放課後は部活じゃないのか?」
バカでかい図体にそう告げると、正人は爽やかに「よっ」とこちらにほほえみ返しながら口を開いた。
「ああ、もちろんそうだぞ」
「なら、行かないとな」
「せっかくだから、久しぶりに大樹もどうだ? 野球を辞めてから運動不足だろう、お前」
「遠慮しとく。俺にヒーローは向いてないもんでね」
野球部のヒーロー。エースで四番。去年、うちの学園の野球部を甲子園出場にまで導いた栄光の立役者。輝かしい経歴を誇る親友に向かってそんな言葉を投げかけると、彼は困ったように眉を寄せた。
「ヒーローヒーローってみんな言ってくれるけどな。投手だけで野球がやれるわけでもないってのは、正人だって知ってんだろ?」
「ああ、知ってるぞ。投手が抑えてくれなくちゃ話にならないってこともな」
「そんな狭い見識だと、プロでやってくことはできないと思うけどな、オレは」
「こちとら、なる気がないもんでね。そういう役目は、お前に託した。俺の分までがっぽり稼いで将来的には養ってくれ」
「頑固だなあ、お前」
「一年以上、懲りずに野球部に勧誘し続ける正人のクソ根気には敵わねえよ」
ったくこの野球バカが、と毒づいてみせると、嬉しそうに正人がはにかむ。ここで笑えるところが、ヒーローのヒーローたる所以なんだろう、と感じるね、まったく。
「つーか、さっさと行け行け。練習遅れんぞ」
「そういうことなら、仕方ないねえ。今日のところは諦めますか」
「明日も明後日も諦めとけよ」
「ハハッ、無理だなそりゃ! オレはお前とまた野球がしたくてたまらねえからな」
軽やかに笑って、正人がこちらに背中を向ける。
そして立ち去る間際、彼はこちらを振り返って言った。
「ああ、そうそう。大樹、水曜はいつもん場所な」
「わぁーってるよ」
「そんじゃ、また明日」
「おう。野球も恋愛も頑張れよ、お前」
「……む、睦月のことは言うなって。その、」
途端に顔を真っ赤に染め上げ、正人がおどおどと視線を泳がせる。
そして。
「~~~~て、照れるだろ、そういうの」
恥ずかしそうにぽつりと呟き、今度こそ本当に立ち去って行った。
なんというか、ね。
「……ったく」
照れた顔でも、正人がすると、元の顔の良さも相まってなんだか絵になるのが腹立つな。
なんとなく、持って生まれた顔面偏差値に理不尽なものを覚えながら、かばんを持ち直し帰宅の途につく。
学校を出て、駅前へ向かう。といっても、電車で家に帰るというわけじゃない。
自宅に続く道だと、駅前を横切る形で帰るのが一番家に近いというだけだ。
家までかかる時間は歩いてだいたい十五分程度。すぐに家についた俺は、制服からジャージに着替えて家を出る。
それからは、四十分程度のロードワーク。軽く体が汗ばんだところで家に帰り、腕立てや腹筋などといった筋トレ種目を庭でこなしていく。
一通りの運動をこなしたところで、用意しておいたペットボトルのスポドリを口にする。汗をかいた体に染み渡っていく水分が心地良い。
そうやって玄関先でドリンクを飲みながら、タオルで首筋を拭っていると、
「おー、やっとるやっとる。相変わらずだよねえ」
などという、甘ったるい女の声が聞こえてきた。
またか、と思いながらもそちらに目を向けると、学校帰りの樹里がギターケースを背に抱え、生け垣の向こうからこちらを覗き込んでいる。
「え、なにこの美少女、萌える、かわいい、クソー超抱きてえ! って今先輩思ったでしょ?」
「思ってない。なんだその風評被害は」
「ごめんねー、あたし童貞趣味ってわけじゃないから相手してあげらんねーし」
「異性と粘膜接触をした経験の有無で人をイジるのは、感心できない趣味だぞ、マジで」
「アハッ、それなら大丈夫だし。あたしこういうの先輩にしかやんないっていうか、ほら、猫ちゃん被るのはこれでもけっこう自信あるっていうか~」
一瞬で媚びた目と顔を作る樹里は、確かに猫かぶりの達人だ。俺の知る限り、こいつほど「男ウケする振る舞い方」を知り尽くしている女はいない。
しかし悲しいかな。俺は睦月でいい女というものに対する耐性をすでに獲得している。そんな俺に、樹里の猫かぶりもそうそう通用しない。
だからか、こいつは俺に対しては比較的、素の振る舞いで接してくる傾向があるように見えた。
「ってかさー。その、タオル首にかけるのやめなよ。おっさんじゃん」
こちらに歩み寄って来ながら、不満そうに目をサンカクにして樹里が文句を言ってくる。
「はあ? 便利だろうが、首かけタオル」
「それが許されるのは建築現場とか農家とかで汗水たらして働いてるおっさんだけだから」
「失礼な。俺にだって許されとるわ、こんなん」
「はーい無理でーすあたしが許しませーん、だって青春っぽくないもん。ってかさ」
すん、と鼻をひくつかせて、ますます不満げに眉をしかめる。
「なんか超汗臭いんですけど。汗臭い体で近寄らないでくれる?」
「そっちから近づいてきたんじゃねーか!」
「あれ、そだっけ? まあいいや」
「良くねえんだよなあ」
「つーか話変わるんだけどさぁー」
「ほんと唐突な、お前」
「野球とかもう辞めたくせに、なんか毎日毎日、よくやるよねー。先輩も」
差し込まれたその言葉は、なんだか呆れているようで。
どこか哀れんでいるようで。
だけど俺は冷静に答えることができた。
「まあ、な。もう体動かすのは癖になってるし、将来的なこと考えても今のうちは鍛えといて損はないだろ」
「とか言ってさー。本当は、気にしてんじゃないの? 中三の、夏のさ――」
「やめろって」
声を荒げるでもなく、苛立たしげな言い方になるでもなく。
ただ、静かに俺は樹里の言葉を遮った。
沈黙が降りたのは、束の間。静寂の打破は、一瞬。
「ってぇ!?」
不意に向こう脛を蹴っ飛ばされ、思わぬ悲鳴を俺は上げる。
蹴っ飛ばした本人に目を向ければ、もう樹里は背中を向けて立ち去るところだった。
「おい樹里テメェ!? いきなりなにしやがる!?」
「べぇっつにー。そんなの、樹里は知らないしぃ?」
「知らないって、ほんとお前なあ!」
「素直じゃない人には、教えてなんてあげないもーん。せいぜいカッコつけたこと言ってろ。ぜーんぜんカッコよくはないけどねぇ」
言いながら肩越しにこちらを振り返った樹里は、ぺろりと舌先だけ出してあかんべーを向けてくる。
その小憎たらしい顔に、
「んだとぉ!?」
と思わず声を荒げるが、それよりも先にギターケースを左右に揺らして樹里はその場を立ち去って行った。
「ったく……つつっ」
まだ痛む向こう脛を手でさすりつつ、彼女の言葉を反芻する。
――中三の、夏のさ。
やめろ樹里。その言葉は俺に刺さる。
だって、気にしてねえわけねーじゃんよ。
気にするなってほうが無理なもんだろ。
クッソ……。
空を見上げる。まだ春なのに、今日の太陽はやけにじりじりと肌を焼いていく気がする。
まるで、あの日の太陽のように。
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