第17話 約束、応援――キャッチャーミット

 俺と睦月は、それぞれにタイプが全然違う。俺がどちらかといえば活発というか、平たく言ってしまえば悪ガキだったのとは反対に、睦月はいわゆる優等生で文学少女だ。


 そんな、好みも性格も方向性がまるで異なる俺たちだったが、話してみれば意外にも気が合った。もしかすると、親の仕事が忙しいせいで、いつも最後まで塾の教室に残っているのが俺たち二人だけだったからというのが、仲間意識として働いていたという部分もあるかもしれない。だとしたら、その点に関してだけは、俺は親に感謝をしてやってもいいと思う。


 こんな風にして親しくなった俺たちは、塾が終わってから親が迎えに来るまでの長い時間を二人で過ごすようになった。


 大抵の場合は、その日に塾であった内容の復習を二人でやるということが多かった。睦月はとても優秀な頭脳の持ち主で、俺が理解できない部分にいつも丁寧な解説をくれた。不思議と、学校や塾で教わってもちんぷんかんぷんな教科書の内容が、睦月の手にかかるとびっくりするほどすんなり理解できるのだ。


 そんな睦月の個人授業の効果は抜群であった。塾通いをしているにも関わらずそれまで七十点台が平均点だった俺の成績が、一気に九十点台にまで跳ね上がったのである。学級担任の佐藤先生(通称サトセン)なんかは、「お前、カンニングしたのではあるまいな?」などと疑ってきたりなんかもした。


「カンニングなんてしてねーよ。サトセンよりもいい先生が見つかったんだ」


「弱ったなあ」


 その時のサトセンは、冴えない口調でそう言いながら頭の後ろをボリボリと掻いていた。


「じゃあやっぱり、僕の指導力が不足していたんだなあ。笹原の先生に、僕も指導の仕方を教えてもらいたいぐらいだよ」


 確かにサトセンは、要領の得ない説明の仕方をする時がある。それでもなんだかんだで、子どもや保護者に対してごまかしたり取り繕ったりする様子のないこの教師は、けっこう生徒たちからは好かれてもいた。


 だから俺が、「サトセンはそのままでもいいと思うぜ」と言って返すと、彼はやたらと真面目な顔つきで、「今のままでもいい、なんてことは、どんな瞬間でもあり得ないんだよ」と口にした。


  ***


 サトセンの一件を睦月に話すと、彼女は少し恥ずかしそうに笑いながら、「買い被りですよ」と頬を染めた。


「私は、大樹君と一対一で勉強をしているから、貴方がつまづいた時にどこでどう間違えているのかすぐに分かるだけです。学校で一つのクラスをたった一人で受け持っている先生には敵うわけがないじゃないですか」


「そうかなあ。俺は睦月の説明、いつも分かりやすいけどな。プロの先生みたいだ」


「そう言っていただけるのは嬉しいですけど……でも、プロだなんてそんな大それたものじゃありませんから」


 照れ笑いを浮かべながらも、やんわりと否定の言葉を付け加えてくる睦月には、他の子ども達よりもやたら控え目なところがある。自己評価が低い、と言った方がいいかもしれない。とにかく、自分を他人よりも低い位置へ置こうとするところがあるのだ。


 この時も、素直に喜びだけを浮かべなかったのは、サトセンに対して遠慮をしていたのかもしれない。睦月のそういう、謙虚で遠慮深く、控え目なところに、やきもきとした感情を俺はよく抱いていた気がする。


 睦月は優しくて、穏やかで、そして優秀な子どもだった。当時俺の周りにいた子ども達の中では、一番他人に気を遣おうとする人間だった。気を遣いすぎて、独りぼっちでいるようなやつだった。それぐらいに睦月が『いいやつ』なんだってことを、俺は他の誰よりも睦月自身に知ってほしいと感じていた。


 だが、それを口にして言えば、睦月はいつも、


「ありがとうございます。大樹君は、いつも優しいですね」


 と嬉しそうに言って笑う。本当にこいつ、分かってるのか? と俺はいつも首を傾げてしまうのであった。


 それでも睦月が、嬉しそうな笑顔を浮かべてくれていたのだから、気にしないようにはしていたのだが。


  ***


 もちろん、塾が終わった後に授業の復習以外のことをすることもあった。


 当時の俺は少年野球のチームに入ったばかりだった。最初は花形のピッチャーになりたいと思っていたのだが、上級生がキャッチャーをやっているのを見て、安心感を覚えるその佇まいに憧れキャッチャーを目指すことに一発で決めた。


 正人と話すようになったのもちょうどその頃で、どのポジションにするのかあいつは決めあぐねているようだった。どのポジションも魅力的だ、などと言うのだ。


 そんな正人に、「ピッチャーやれよ!」と言ったのは俺である。


「お前は俺に向かって投げたらいいよ! なんでも捕ってやるからさ! 俺たちなら最強だぜ! 甲子園にだってプロにだって行ける!」


 何の根拠もないなりに力強い確信を持って、当時の俺は正人に言った。


 そんな俺の言葉に、あろうことか正人は背中を押されてしまったらしい。


「分かった。オレ、ピッチャーになる!」


 そう言って、本当に正人はピッチャー用のグローブを週明けには親に買ってもらっていた。


 だから、俺もキャッチャーミットを対抗するように買ってもらっていた。両親が家にいない代わりに、金だけはそこそこある家だった。だから親に言ってせがめば、金なら渡してもらうことができた。


 そのミットを買ってもらったばかりの頃は、よく塾が終わったあとに、睦月の隣で叩いたりほぐしたりしていたのだ。


「それは、なにをやっているんですか?」


 そう問いかけてきた睦月に対して、俺は待ってましたとばかりに覚えたての知識で自慢げに語ったのを覚えている。


「こうやってね、グラブの形を整えてるんだよ。ミットのこことここに折り目を作ってさ、絶対にボールを外したりしない、最強のキャッチャーミットを作ってるんだ!」


「へぇ……大樹君は、すごいですね」


「そうだろ! 俺の相棒がすごいピッチャーになるから、俺もすごいキャッチャーになるんだ!」


 ガキの癖になにを偉そうに、と今ならば思うが、当時の俺は真剣だった。


 睦月に語りながらグラブを折ったり曲げたりしていると、彼女は、


「応援します、私」


 と強い意志のこもった声で告げてくる。


「きっと、大樹君ならなれますよ。すごいキャッチャーに、きっと貴方はなれる人です」


「俺だけがなっても仕方ない」


「じゃあ、大樹君の相棒さんも、必ずすごいピッチャーになります」


 じゃあってなんだよ、とその時は思ったが、それ以上に睦月の言葉は嬉しかった。


 喜びのあまり、「だったら、ちょっとここを押さえててくれよ」とミットのマチの部分を指し示す。


 ――そうやって、睦月と共に形を整え、正人とのキャッチボールで仕上げたキャッチャーミットは今、俺の手元に残っていない。


 あの日の約束も、彼女の応援も、今はもう――。

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