EpilogueーFinal


 緑の息吹に覆われた緩やかな傾斜を、リヴェルはステラと共に歩いていく。

 空気が凛と鳴り響く様に肌寒い。もうすぐ、ここも真っさらな雪で覆われていくことだろう。きっと綺麗な景色なのだろうなと今から楽しみだった。

 頂上に近付くにつれ、ステラの気配が驚きに満ちていったが止まらない。リヴェルは最後の一歩を気合を入れて大きく踏み出した。


「……、ここ……」


 ステラの声が震える。

 淡々としているのにそう聞こえたのは、恐らくリヴェルの気のせいではない。

 この場所は、ウィルから既に聞いていた。

 彼の大切なたった一人の家族だった人。

 ステラにとって友人以上だった存在。



「そう。タリス王弟殿下が好きだった丘の上さ」



 城下を見渡せる晴れやかな景色だった。

 くっきりと模型の様な街並みに、真っ白な雲がゆったりと泳いでいる。遠くに見える城は小さいのに壮観で、タリスが好きだったのがよく分かる穏やかな光景だった。


「リヴェル。王弟殿下は駄目だと思う」

「え?」

「ウィルと同じ。そういう敬称、嫌いだったから」

「――」


 一瞬押し黙ってしまってから、リヴェルは小さく噴き出した。


「……兄弟だなあ」


 初対面の時に、ウィルが敬語はやめて欲しいと言ってきた時のことを思い出す。

 あの兄にして、弟ありだ。

 だが。


「じゃあ、タリスさん、か」

「さんもいらないと思う」

「ああ、そうかもしれない。……でも、今は必要だから」


 いざこの時になると緊張感が爆発的に増す。どくどくと、心臓だけ別の生き物の様に激しく暴れ回って肌を突き破りそうだ。

 しかし、向かい合わなければならない。


 ステラのことを好きと言ってはばからなかった人。

 ステラのことを恐がらなかった人。

 ステラのことを大切に想い、最後まで諦めなかった人。



 だからこそ、自分はここに来なければならなかった。



「……タリスさん、初めまして。俺は、リヴェルと言います」



 彼女と共に歩きたいと願ったからこそ。彼女が共に歩きたいと願ってくれたからこそ。

 リヴェルは、真っ先に彼に挨拶をしたかった。


不躾ぶしつけで申し訳ないのですが、今日は貴方にお願いがあってここに来ました」


 膝を付いて、リヴェルは両手も地面につける。

 いきなりの自分の行動にステラが揺れていたが、それでも構いはしない。


「タリスさん」


 呼びかけて、リヴェルはゆっくりと頭を下げた。



「――俺とステラが共に歩くこと、どうか認めて下さい」

「――――――――」



 本当は順序が逆だ。ステラに告白するのが先だ。

 けれど、どうしても最初に彼に頭を下げたかった。深く頭を垂れて、顔を知らない彼の存在を思い浮かべる。

 彼は、どれほどの無念だっただろうか。

 ウィルやステラに会えなくなることを恐がっていた。死ぬことよりも、会えなくなることを恐がる人だった。

 それほどまでに大切にしていた存在を、別の誰かに渡さなければならないことを、彼はどう思うだろうか。

 それでも、譲れない。

 自分はもう、彼女を手放すことを考えられはしないのだから。


「……きっと、まだまだ俺は、ステラとぶつかったり、喧嘩したりすると思います」


 いくら彼女の表情や声の変化が分かってきたとしても、すれ違いはこれからも続くだろう。

 その度に悲しくなったり、さみしくなったり、怒ったり、苦しくなったり。お互いに理解出来ないこともたくさん出てきて、落ち込むこともあるだろう。

 それに、自分は未だに魔法が恐い。そのせいで、彼女を傷付けてしまうことがこの先あるかもしれない。

 酷い宣言だ。彼は怒るかもしれない。

 けれど。


「でも、……もう、逃げません」


 命から、魔法から、家族から、彼女から。

 何より、自分自身から。

 ぶつかり合って、けれど少しずつ歩み寄って、――二人で一緒に乗り越えていきたい。


「強くなります。……力では敵わなくても、せめてステラの心を守れるくらいに強くなって」


 そして。



「二人で、幸せになります」

「……」

「ウィルも、タリスさんも、安心して笑えるくらい、幸せになります」



 だから、どうか。



「どうか、――俺とステラが一緒に歩いていくことを、認めて下さい。お願いします」



 頭を下げて頼み込む。地面に突いた手が緊張で震えそうになるのを懸命に押し止めた。

 ステラが、隣でしゃがみ込んで一緒に頭を下げてくれた気配がする。その事実に泣きたくなった。彼女が共に願ってくれたことで、何とか手の震えは止めることに成功する。


 リヴェルの言葉は、本当に自分勝手な願いだ。これでは彼も、満足して頷いてはくれないかもしれない。


 だが、これが今の自分の精一杯の言葉だ。

 嘘は吐きたくない。力不足ではあるが、せめて誠意と決意だけは抱えきれないくらい込めた。

 どれだけの時間が流れただろうか。相手はもうこの世にはいない。声など聞こえるはずもない。

 けれど。



 ふわり、と。不意に、撫でる様に風が自分の髪をさらっていった。



 まるでその触れ方が頭を撫でられる様な感覚を覚えて、リヴェルの胸が熱くなる。懐に入っている懐中時計が、かつり、と胸を叩いた気がした。

 まだまだ未熟な自分。

 けれど、もう諦めたりはしない。



 自分は、前を向いて歩いていく。



「……ありがとうございます……っ」



 顔を上げ、リヴェルはもう一度頭を下げた。

 そして再び顔を上げて、ぐっと喉と目元に力を入れる。立ち上がり、ステラに手を差し出した。



「……ステラ、ちょっとこっちに来てくれ」

「? うん」



 ステラの手を取って、リヴェルは来た道とは別の方角へと丘から降りていく。――流石にここで決意表明をするのはデリカシーが無いし、失礼だと思ったからだ。

 緩やかな傾斜を降りながら、リヴェルは遠い街並みを見下ろす。


 本当に、色々なことがあった。


 ここに来てからはまだ一年も経っていないのに、一生分の経験を積んだ気がする。

 だが、ここからなのだ。ここからが始まりなのだ。

 ステラの手を引きながら、さくっさくっと一歩一歩着実に足を踏み締めてリヴェルは歩く。

 空に届かんばかりの頂上から、徐々に大地へと近付いていく。夢の様な場所から、現実へと向かっていく。


 だがそれが、リヴェルが目指す未来だ。


 確実に地に足を着け、ステラと一緒に歩いていく。

 その選んだ道こそが、リヴェルが願った険しくも幸せへと続く明るい未来だった。


 懐古と決意を抱き締めながら歩き、遂に大地に降り立つ。


 そのまま、リヴェルはステラに向き直った。きょとんとした彼女の表情が可愛らしく、思わず抱き締めたくなるのを根性で堪える。

 まだだ。まだ、リヴェルは果たしていない決意がある。

 すうっと大きく息を吸い、覚悟を握り締めて彼女に挑んだ。



「す、ステラ!」

「――はい」



 突然のリヴェルの大声に、ステラも何故か背筋を伸ばした。彼女の反応が可愛くて突っ伏しそうになったが、全力で耐えた。

 もう既に恥ずかしいことを独白の様な危ない形で出してしまったが、ここで折れるわけにはいかない。ウィルの弟に許しを請うておいて、肝心の本人に言葉が無いなど、恥以外の何物でもない。祭りの時の様な過ちはもうご免だ。


「……、お、れ……」


 言葉がつっかえて、上手く形にならない。

 ステラが不思議そうに首を傾げていたが、ここでくじけるわけにはいかない。腹をくくって、挑む様に叫んだ。


「俺、さ。俺、……君が、……好きだ!」

「……、……うん」


 ――よし、言えた!


 第一段階をクリアして、リヴェルは自然と気分を高めていく。

 ステラは目を丸くしていたが、ほんの少し――ほんの少しだけ頬を染めて目を伏せたので、きちんと伝わったのだと確信する。


「そ、それでな!」

「う、うん」

「それで」


 ここからが本番だ。

 今度こそ、彼女と恋人同士になるのだ。故に、付き合って欲しいと真っ直ぐに堂々と宣言しなければならない。


「お、俺と」

「……、うん」


 そう、付き合う。

 恋人同士になる。

 それは、結婚を前提にした清い付き合いであり、将来を誓い合うこと。つまり、ステラはゆくゆくは自分の妻になるということで、結婚生活の始まりである。

 そうだ、結婚。結婚を前提にしたお付き合いをして、結婚。

 そんな未来を夢見て、いざ。



「――俺と! 結婚して下さい!」

「――――――――」



 ――ちっがああああああああああうっ!!



 口から何かが飛び出た瞬間、リヴェルは心の中で渾身のツッコミを吹っ飛ばした。

 何故に、結婚。今、結婚。結婚を前提にしたお付き合いを申し込むつもりが、全ての過程をすっ飛ばして結婚とは何事か。

 しかも、口にしてしまった以上、もう引っ込めることも出来ない。盛大に脳内だけでのけ反りまくり、リヴェルがじたばた悶えていると。


「うん。結婚する」

「――そうか! 結婚してくれるか! よし! 結婚……って、おおおおおい!」


 そのくせ、あっさりと了承された。

 恋人やら何やらを吹っ飛ばし、いきなり婚約者である。


「い、いやいやいやいや、待て待て待て待て! 待つんだ!」

「どうして?」


 何故、首を傾げるのか。


 彼女の常識の無さにはほとほと困り果てていたが、まさかこの時にまで頭を悩ませることになるとは。神様は随分と試練がお好きらしい。


「あ、あのな? 俺たち、まだ、恋人でもないしな」

「違うの?」

「え」

「……、一生共に生きて欲しいって言われたから、てっきりそうだと思ってた。違うの?」

「……、………………」



 ――俺の馬鹿あああああああああっ!



 今の返答で、ステラの方は完璧に恋人のつもりでいたと発覚し、リヴェルは物凄い勢いで崩れ落ちた。ステラが慌てて「リヴェル?」と、ぺちぺち肩を叩いてきたが、笑いかける余裕もない。

 何だ。好きと言っていなければ、付き合っているわけではないと思っていた自分は、時代遅れということか。そういえば、エルスターやウィルにも呆れられていた気がするが、それはこのことが原因だったのか。

 だとしたら、自分は。


「……、ごめん!」

「……、うん。何が?」

「俺、好きって言うの、すっかり忘れてて、その。好きって伝えてないから、恋人になっていないと、その、……」


 言っていてだんだん悲しくなってきた。どれだけ酷い言い訳だろうか。何だか浮気がばれて、精一杯弁解して懺悔ざんげしている男の気持ちだ。居た堪れなくなる。

 こんなことならば、どうせ祖母が決めた女性と結婚するだろうと諦めず、きちんと恋愛に興味を持てば良かったと、穴を掘りまくる勢いで反省していると。


「……、じゃあ、今日から、婚約者?」

「……、……婚約者」

「だって、結婚して欲しいって」

「……、ああ」


 何とカッコ悪いプロポーズだろうか。

 今の時点で恋人になっていないと思い、勢いあまってぶっ飛んだ告白をするとは、無様過ぎてエルスター達にはしばらく言いたくもない。

 だが。


「……、結婚、いいのか?」

「うん」


 即答だ。


 迷う暇もない、いや、迷う必要があるのかと言わんばかりの真っ直ぐな瞳に、リヴェルは吸い込まれる様に落ちていく。

 初めて出会った日も、彼女の磨き抜かれた黒水晶の様な瞳に落ちた。あの日から、もう自分の未来は決まっていたのかもしれない。


 だが、こんな運命ならば、大歓迎だ。


「俺のおばあさま、手強いからな」

「うん」

「でも、俺も生まれて初めて、頑張って抵抗し抜くから。一緒に、頑張って欲しい」

「うん。頑張る」


 力強く頷いてくれる彼女の、何と頼もしいことか。下手をすると性別が逆転しているのではないかと、みじめな錯覚に陥りそうだ。


 ――いや。負けるものか。


 自分は、彼女の強いところも弱いところも見てきた。互いに、情けないところまでさらしてきた。

 ならば、自分の出来る限りの力で、彼女を支えていきたい。

 過去の自分を、乗り越えたい。



〝愛する価値も〟



 ――縛っていた呪詛じゅそを振り切って、自分は、自分の足で道を歩いていく。



「ステラ。俺と、結婚して下さい」

「――はい」



 返事を聞いて、リヴェルは今度こそ彼女に手を伸ばす。そのまま両手いっぱいに抱き締めて、彼女の髪に鼻先を埋めた。

 ふわりと微かに香るのは、前と同じほのかな清潔な甘さだ。流れる髪に指を絡めると、滑らかな感触が指先に心地良い。これだけ長いのにきちんと手入れされていて、艶やかなきらめきが、夜空の中に星が咲いた様に美しかった。


 腕の中の彼女は、やはり思った以上に華奢きゃしゃだ。これで、あれだけ強力な魔法を振るうのだから驚きだ。


 けれど、力いっぱい抱き締めてしまえば折れてしまいそうなその身が、彼女の素に触れている気がして愛しかった。衣服越しに伝わってくる熱が、この腕の中に彼女が確かに存在しているのだと教えてくれる。

 その全てに、ひどく安堵した。自分の傍に誰かがいるという奇跡に胸の奥が熱くなる。


「……リヴェルは、撫でたり抱き締めたりするのが好きなの?」

「――っ」


 不意に腕の中で零れたささやきに、かっと一気に体温が上昇する。

 そういえば、リヴェルはこうして想いを交わす前から、彼女には触れたり撫でたり抱き締めたりしていた。――彼女もそうではあったが、自分のは他者から見たら、完全にセクハラである。


「う、ぐ。ごめん。……嫌か?」

「ううん」

「そ、そうか」

「ただ、好きなのかなって」


 純粋な疑問らしい。

 すりっと、体を寄せてくる仕草に理性が爆発しそうになったが、当然全神経を傾けて堪えた。

 彼女は、心臓に悪い。色んな意味で。


「そうだな。うーん……、触れて、熱を感じると、安心するんだと思う」

「安心」

「ああ。傍に誰かがいてくれることは、俺にとっては奇跡みたいなものだからな」


 両親と離れてから、自分の傍には誰一人としていなかった。

 だからこそ、夢見た時もある。いつか、本当にいつか遠い未来、自分の隣に、たった一人でも傍にいてくれたなら、と。

 だが、その願いを抱いて、一年、二年と経つ内に、十五年近く経ってしまったから、もう諦めていた。

 それなのに、諦めた後に願いは叶った。人生とは、生きていれば何が起こるか分からない。


「……、私も、奇跡」

「え?」


 ぎゅっと、背中に腕を回してステラが更に抱き付いてくる。

 その抱き心地が、当然だが猫よりもずっと柔らかくて、良い匂いで、くらくらと眩暈めまいがした。

 前から思っていたが、彼女は本当に無防備過ぎる。何度か注意したが、なかなか直らない。

 しかし、万が一にも他の男性に同じことをされたら、事である。自分の理性が吹っ飛んで相手に何をするか分からない。

 だから、注意をしようとした矢先。


「不思議」

「ステ……、うん? 何がだ?」

「私、最初から、リヴェルに触れられるのは嫌じゃなかった」

「え! う、あ、その、……ありがとう?」


 突然の大胆な告白に、どもりまくって仕舞にはお礼を言う羽目に陥った。何と言うか、毎回彼女にはタイミングをずらされている気がする。

 しかも、言葉には続きがあった。


「他の男性が触れてきた時は、叩き飛ばして、ぼこぼこにしてきたけど」

「え! ……、そ、そう、だったのか」


 ならば、自分も本当はそういうぼっこぼこのめっためたにされた挙句に、埋められていた可能性があるのではないだろうか。

 想像して、頭が深く下がる思いだ。本当によく、今、自分は命がある。これこそ奇跡である。


「でも、リヴェルに最初に触れられた時、嫌じゃなかった」

「……、そ、そうなのか」

「リヴェルは色々騒いでいたけど」

「うぐ、だ、だってな! 俺、本当、その、女性に対して失礼というか無礼というか、恋人でもないし、意思確認もしなかったのに、その、……髪触ったり抱き付いたり、……」


 どんどん変態行為を思い出して項垂うなだれる。よくステラは嫌がらなかった。何故だろうか。謎が更に謎になった。


「リヴェルが初めてだった」

「え?」

「触れられても、平気な人。だから、多分もうこの人なんだなって、途中から思ってた」

「―――――――」


 淡々とした彼女の言葉に、リヴェルの熱が足元からじわじわと、しかし確実に高まっていくのが実感出来た。

 自分は今、かなり嬉しいことを言われた。彼女にその気があるかは分からないが、凄い口説き文句である。

 彼女は、こう言ったのだ。初めて触れられて嫌じゃなかったのが、自分だと。



 自分が、初めてだったのだと。



「――っ!」



 更に実感して、ぶわっと体の芯から熱が吹き荒れる。

 何故、彼女はこうも口説き文句が上手なのか。しかも、行為も自分を舞い上がらせることだらけだ。

 それなのに自分ときたら、全然彼女に甘い殺し文句を一つも言えていない。

 何だかだんだん情けなくなってきた。これでは、ウィルの弟に顔向けが出来ない。


「……、何だか、ウィルの弟さんに呆れられている気がする」

「どうして?」

「男として情けないから、かな」


 ははは、と乾いた笑いを零して遠い目をする。

 彼なら――二十年前、本来ステラの大切な存在となっていただろう彼なら、どんな反応をしていただろうか。


 ――過去を振り返るのは簡単だ。彼に引け目を感じるのも、生者の勝手な都合だ。


 だからこそ、自分は自分の力で向かっていかなければならない。

 どれだけ引け目を感じていても、どれだけ彼女の心に住む彼に嫉妬をしようとも。


 それを受け止めて、自分は進んでいく。


「でも、男として頑張らなきゃな」

「……、うん」

「少しずつ強くなっていくから、……見守っていて欲しい」

「うん」


 迷わずに頷いてくれる彼女。その頼もしさに、心から敬服する。

 出会った時から真っ直ぐに前を見つめる女性だった。凛とした空気をまとい、芯の通った一輪の花の様な彼女に、リヴェルは一目で心を奪われた。


 彼女の隣に並べる人になりたい。


 そう願った自分は、今も変わらずここに在る。

 例えこれから、己の醜い欲望に、堕する感情に、自分でも制御出来ない暴走に振り回されたとしても。

 自分は彼女と一緒に乗り越えて、共に未来へと歩いていく。

 自分の殻を打ち破るキッカケをくれた、尊い彼女と共に。


「……、ステラ」

「うん」


 彼女を少しだけ離し、顔をそっと彼女に寄せる。

 ふわりと風に舞う前髪が綺麗で、自然と口元に笑みが乗った。

 そのまま、唇を寄せ――。



「――ありがとう」

「――――――――」



 額に、そっと口付けを落とした。



 ばくばくと、リヴェルの心臓が苛烈に暴れ回っている。きっと彼女にも伝わってしまっているだろう。

 額に口付けるだけでもこれなのだ。結婚本番は、考えただけで頭が沸騰する。

 心なしか、体中も熱くて汗ばんできた。顔も熱いし、恐らく真っ赤になっているだろう。彼女の顔をまともに直視出来ない。

 離れた方が良いのだろうか。それとも、余韻らしいものにひたって触れ合ったままの方が良いのか。

 初心者過ぎて、判断が付かない。場数というものの大切さに、今更ながらに気付いた時。


「……、リヴェル」

「え? ――」


 不意に、頬に柔らかなものがかすめた。同時に、彼女の顔も近くなる。

 すぐに彼女は離れ、うつむいてしまったから表情はうかがえない。

 だが、――見える肌がほんのり赤い。どくどくと、伝わってくる心臓の音は、果たして自分のものか彼女のものか。混じり合って、境目が分からない。


 ――ああ。彼女も、一生懸命伝えてくれている。


 知った瞬間、堪らなくなった。覆い被さる様に強く抱き締めて、腕の中の温もりを堪能する。

 可愛い。愛しい。堪らない。彼女の全てが欲しい。

 ほとばしって止まらない感情たちを懸命に抑制しながら、リヴェルは背中に手を回して懸命に応じてくれる彼女に、もう一度囁く。



「好きだ、ステラ」

「……、うん。私も」

「ずっと、……ずっと。一緒にいような」



 色んなことを一緒に見たい。様々な土地に共に行ってみたい。

 気持ちを共有したり、色々な意見を言い合ったり、衝突したり、離れたり、また歩み寄ったり。

 そうして、互いを深く知って、しわくちゃなおじいさんおばあさんになるまで一緒にいられたなら。それだけで、幸せだ。



〝命を粗末にする子、愛する価値もないわ〟



 全てを忘れられたわけではない。



〝それが、嫌だからっ! こんな手を使ったんだよ!〟



 古い傷も、新しい傷も、未だ鮮明に心には刻まれている。

 全てを乗り越えられたわけではない。

 だが。



〝金魚はきっと、あなたを恨んでなんかいないわ〟



 散りばめられた言葉を掻き集め、自分は歩いて行こう。

 自分は、一人ではないから。悩みはしても、迷いはしない。



「……そろそろ、戻るか!」

「……うん」



 どちらからともなく身を離し。

 また、どちらからともなく、静かに手を差し出し、絡める。


 この手がつなぐ先には、何があるだろうか。


 試練か。未来か。どちらにしても、一筋縄ではいかないだろう。

 だが、それでも良い。自分はもう、決めた。彼女と、友人達と、共に歩き、立ち向かっていくのだと。

 だから。



〝本当に大切にしているのなら、覚えていてあげてちょうだい〟



 ――父さん。母さん。



 どうか、ずっと先に会う日まで、待っていて。

 生きて、生きて、生き抜いて。

 自分の力で、会いに行くから。

 だから。



「……俺、行くな」



 囚われた過去にしばしの別れを告げ、ステラと歩き出す。

 空は、雲一つない晴れ晴れとした蒼さで、リヴェル達を祝福する様に微笑っていた。


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黒き翼と、つなげる命(みらい) 和泉ユウキ @yukiferia

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