第17話


 恒例の、裏庭での猫への餌やりを終え。

 リヴェルは、落ち行く日が穏やかに照らす道を黙々と歩いていた。夕食に間に合わなければエルスター達が心配するので、足は自然と早歩きになる。

 だが、今早歩きになっている理由は、それだけではない。


 ステラとの「あーん」事件の後。

 リヴェルは、謎の症状に苛まれることが多くなった。


 まず、ステラの姿が目に入ったら、動悸どうきがいきなり激しくなる。

 次に、大好物のパイを目にしたら、何故かステラを思い出す。

 そして、極めつけは。



 ――指に触れた、彼女の舌の熱さが。指に広がって、離れない。



「――っ!」



 思い出して、ぶんぶんと頭の上を両手で勢い良く振り払う。

 それはもう、目には見えなくなるほどの高速行動で、近くにいた者達が恐ろしげに距離を取っていくほどだった。


「あー! 何なんだよ、一体っ」


 はあはあと荒い息を整えながら、リヴェルは顔が熱くなっていくのを感じて頭を抱えた。

 先程の症状の他に、無意味に体温が上昇する回数も増えた。気がする。

 最近は、意味不明の行動を突発的に取り出すリヴェルに、エルスター達が呆れ。「寝ろ」と問答無用で部屋に叩き込んでくることが多くなった。

 その後、ベッドの上でごろごろする自分の脳天に、エルスターがチョップを振り下ろすのが様式美になりつつある。


「……かと言って、こんなの、誰かに相談できないしな」


 口にしたら最後。

 白い目で「変態」と罵られるのが目に見えている。

 大体、何が悲しくて、指に舌の感触が残っているのだと相談しなければ――。


「――って、そうじゃない!」


 大声で叫び、恥ずかしすぎる感触を打ち消す。その場にいた者達が飛び跳ね、変人を見る様な目つきで怯えながら後ずさっていくが、当のリヴェルはもちろん気付かなかった。


「はあ。……俺、本当に変態なのか?」


 頭を抱え、溜息を零す。

 多分、こんなに彼女に振り回されているのは、女性慣れしていないからだ。

 今の家に来てからというもの、恋愛などは希望すらなかったし、かと言って女遊びをするのも気分が悪かった。どちらにせよ、そんな悪事を働けば祖母の雷が落ちて、酷い『お仕置き』を受けていただろう。どのみち、女性に慣れる機会は無かった。

 だから、これは散々後回しにしていたツケが回ってきただけのこと。


「そうだよな! そう。いつか大学院を出て、妻をもらう、――」


 予行演習だと思えば。


「……」


 何故か、その先は続けられなかった。

 ただ、音の無い言葉が浮かぶたび、胸の底に鉛が降り積もっていく。

 ごりごりと、抗議の様に音を立てるのは何故だろう。


「……最初から、決まってたんだしな」


 大学院を出て跡を継ぎ、祖母の決めた人と結婚し、跡継ぎを作る。

 そして。



〝あんたは、このライフェルス家の跡取り。それ以上でも以下でもない〟



 最後は、ゴミの様に捨てられる。



 あの家では、祖母が絶対だ。決定権など、何一つ自分にありはしない。結婚相手はもちろん、友人関係でさえも帰れば支配されるだろう。

 変えられない。未来など変わらない。

 なのに。



〝リヴェルが泣きそうな顔をしていると、胸の辺りが、変になる〟



 何故、ステラのことを思い出すのだろう。



〝僕は、お前さんの言葉を否定したりはしないのだよ!〟



 不意に、エルスターの言葉が脳裏に響く。



 家を出てから、初めて自分の言葉を聞いてくれる人が現れた。エルスターをはじめ、マリアもクラリスも、否定せずに耳を傾けてくれる。

 ステラも、意思疎通がところどころ成り立ってはいないが、それでも自分を分かろうと歩み寄ってくれている。

 だから、だろうか。


「……時々、勘違い、しそうになる」


 自分は、自分の意思で、道を決められるのではないか、と。


〝いつもいつも私の神経を逆撫でして!〟


「……っ」


 緩く頭を振りかぶり、いつの間にかうつむいていた顔を上げる。

 そうだ。知っている。そんな幻想は、どこにも存在しないこと。

 自分の道は、もう決まっている。故に、恋もしない。

 だから。


「……、だから?」


 だから、何だというのか。妙な引っ掛かりを覚えて、リヴェルは知らず眉根を寄せる。

 つらつらと考えすぎていたからだろうか。まとまりがなくて、前後の繋がりが全く見えない。

 ――否。



 見たく、ない。



「……、帰ろう」


 止まっていた足を無理矢理動かし、リヴェルは寄宿舎へと向かう。思考を置き去りにする様に歩いて、前を向いた。

 考えにふけり過ぎていたのだろうか。まだ大地に顔をつけていなかった日が沈みかけている。穏やかに広がっていく夜の気配に、気持ちが前のめりになった。

 早く帰らないと、またエルスター達が心配する。

 以前、猫と遊び過ぎていて夜になり、夕食の時間がぎりぎりになってしまった時、彼らは散々に言葉で笑いながら刺してきた。あの三人の笑顔で説教コースは、かなり精神的にきつい。夢に出そうだ。


「……って、あれ」


 駆け足気味に帰路へ就いて、ふと周りに視線が走る。

 何だか、妙に静かだ。先程まではまばらに人もいたはずなのに、今では人影すら見当たらない。

 風に揺れる花々は、綺麗に色付きながら微笑っているのに、何故だろう。どこか虚ろな表情を見せ、作り物の冷たささえ見せていた。


「……、なん、だ?」


 ざわざわと、黒い風に撫でられる様に心が粟立つ。ひやりと、急に気温が下がった様な空気に抱き締められ、リヴェルは思わず右手ですがる様に左腕をつかんだ。


「……帰らなきゃ」


 気味が悪い。

 じわりと浮き彫りにされていく悪寒に、足元の大地まで不安定にうごめいている気がしてきた。踏み締めた足の裏がぐにゃりと曲がった錯覚に陥り、弾かれる様に足元を見る。

 その時。



 ――どんっ!



「――っ! うあっ!」



 唐突に背中を強く突き飛ばされた。

 あまりに強烈な突き飛ばしに、リヴェルはたまらず遠くに吹き飛んだ。どっと、受け身を取って地面に転がるが、衝撃が強すぎて一瞬息が止まる。


「ぐっ、ごほっ、……、な、に、……っ!」


 ぎいっと、重苦しい音が近くで鳴り響いた。

 慌てて顔を上げると、その先では何故か扉が重々しく閉められていく。


「はっ!? って、おい!」


 急いで起き上がるが、もう遅い。

 ばたん、と無情な轟音を上げて、世界が閉ざされた。途端、真っ黒な闇が周りにみ渡り、じわじわとリヴェルの心にまで流れ込んでくる。


「っ、おい! 開けろ! おいって!」


 どん、だん、と力の限り扉を叩くが、びくともしない。拳に硬い鉄製の冷やかさだけが伝わり、じんじんと力負けした皮膚が熱を帯びていく。


「一体何なんだ……。ここ、どこだ?」


 自分は、別に閉じ込められる様な道を歩いてはいなかったはずだ。

 なのに、今、現にどこかに閉じ込められている。誰に突き飛ばされたのか、見当も付かない。

 ざっと慣れてきた目で周りを見渡してみるが、何も視界には入ってこない。ただ、静謐せいひつな闇が、にたりと笑いながらこちらを見つめるだけだ。

 そう。



 何故か、周囲の闇が一斉に、自分を見て笑っていた。



「……っ!」



 だん、と再度扉を殴るが、何も変わらない。ただ無機質に扉がどっしりと鎮座し、リヴェルの心に絶望を与える。


「出せっ。出してくれ!」


 がむしゃらに足掻あがく合間にも、周りの闇が少しずつ足音を立てて忍び寄ってくる。

 逃げようにも四方八方を塞がれていて、まるで逃げ場が見当たらない。


「来るな! ……くそっ!」


 払う様に手を振り回せば、ずるっと、闇に掴まれた様な感触が生温く走った。

 ひっ、と悲鳴を上げる合間にも、するするっと、体の中に入り込む様に妖しくうごめく。


「や、めっ、……っ!」


 抵抗しながら体を動かすが、次々と闇が自分の四肢を絡め取る。

 そのまま、ずぶっと体に侵入してくる感触に、おぞましさで脳が痺れていった。


「う、あ、……やだ、……やめろ! 離せ! やめろっ!」


 必死にもがくが、闇はせせら笑う様に蠢いて止まらない。耳元で息を吹きかけられた様な笑い声が聞こえて、泣きたくもないのに視界がかすんでいった。

 何故。どうして。一体、何が。

 混乱したまま、それでも諦めきれずに足掻あがき続けていると。



『……、あ、なた、……』

「―――――」



 不意に、脳裏に響く様な声がした。

 何、と言葉にも出せずに問えば、声は聞いているのかいないのか、壊れた様に繰り返す。



『あ、な、……た。……あな、た。……あなた。あなた。……あなた、あなたあなたあなたあなたあなたあなたあなたあなた』



 次第に強くなっていく木霊に、リヴェルの頭がひび割れる様に痛んだ。気絶しそうなほどの強烈な激痛に、吐きそうになって喉に力を入れる。


「あ、なた、って……。君、だ、れだ」

『あなたあなたあなたあなたあなた、あはは、あはは! あなたあなたあはは! あなたあなたあなたあなたあははあははあなたあなたあなたよくもよくもあなた』


 だんだんと増えていく単語に、リヴェルは息も絶え絶えに言葉を脳に流す。不気味な笑い声におぞましさで震えたが、それでも懸命に思考を巡らせた。

 あなた。あはは。よくも。


 よくも、ということは、自分はこの声の主に何かしたということか。


 辛うじて出てきた単語で、推測をしてみる。

 だが、原因がさっぱり掴めない。

 というより、自分は元々交友関係が狭い。友人以外とは当たり障りのない付き合いしかしていないため、印象的な記憶というものを持ち合わせていなかった。


「よ、くも、って。……俺、何か、した、のか?」

『あなたあなたあははあなたあははあなたあなたあなたよくもあなたよくもよくもあははあははあははははははははあああああああああなたあなたあなた、――あなた、は』


 強く、はっきりと、一度切り。

 不気味な声は、にたっと笑いながら。



『あなたは、だれのもの?』

「――――――――」



 ぎいん、と狂った甲高い音が鳴り響く。

 激しい音に身がすくんだが、歯を食い縛って耐えた。


「……だれの、って、……」


 自分が誰のものか。

 そんなの、最初から決まっている。



〝あんたは、このライフェルス家の跡取り。それ以上でも以下でもない〟



「俺は……ライフェルス家の、ものだよ」

『―――――』



 思った以上に暗い声が漏れて、リヴェル自身が驚いた。

 だが、声の主も驚愕したらしい。何故か、気配が揺れていた。


『……、きか、ない』

「……、え?」

『なぜ、……』


 震える声に、動揺を見る。一緒に、体の中で蠢いていた闇もひるんだ。


「――っ!」


 その隙を見て、リヴェルは一気に右腕を振り抜いた。ぶちいっと、何かが千切れた音が景気良く響き渡る。


『―――――』


 声が、更に息を呑んだ。

 しかし、反応などしてやらない。続けて左腕も振り払い、震える右足で力の限り地面を蹴り飛ばした。そのまま勢い良くどこかに吹っ飛び、地面に転がる。

 その衝撃で、ぶちぶちっと、次々と何かが千切れ飛んでいく。同時に、体の中をうねっていた気持ちの悪い感触も消え去った。どうやら支配下からまぬかれたらしい、と安堵する。

 だが、それもつかの間。


「――っ、何でここも! 扉なんだよ!」


 転がりついた先で、だん、と両手で力いっぱい叩いたが、何故かその先も扉だった。

 錠前は付いていたが、穴が無い。ざっと血の気が引いていく。


「……どうやって出るんだ、これ」


 絶望的な状況に、だがみっともなくとも足掻く。だん、だん、と何度も何度も叩き続けた。


「誰か! 誰か、いないのか!」


 ここは学院内のはずだ。

 ならば、誰かしら、一人でも通るかもしれない。きっと、帰りが遅かったらエルスター達も探してくれるはずだ。ステラも、異変を察知して駆け付けてくれるかもしれない。

 だから、諦めきれない。

 そう。


「……っ」



 ――諦め、きれない、なんて。



「……何で、……っ」


 いつもなら、諦めていたはずだ。

 だって、誰も助けてくれなかった。

 昔から、祖母に『しつけ』のために倉庫に入れられることなんて日常茶飯事だった。

 何をしても、彼女には気に食わない。

 自分が外で誰かに褒められたら、家に帰ってから機嫌が悪くなる。

 転んで怪我をして帰ってこれば、醜態を見せてと怒鳴り散らす。

 少しでも「でも」と反抗すれば、倉庫に叩き込まれる。

 どれだけ極寒の日でも、どんなに猛暑の中でも、関係ない。



 みんな、助けてなどくれなかった。



 祖母を恐れ、使用人達も素通りするばかりだった。

 こっそり助けてくれる者もいなかった。――いたのかもしれないが、恐らく祖母の目は誤魔化せない。不自然に屋敷を辞めていった人達が最初の頃はいたけれど、それ以降は現れなかったから、やはり見て見ぬフリをしていたのだろう。

 いくら叫んでも、いくら許しを請うても、祖母の気が済むまで倉庫からは出られない。

 そう。



 こんな風に、闇が不気味に笑う倉庫の中で。いつも、リヴェルは一人でうずくまっていた。



 叫んでも、伝わらないのなら。

 許しを請うても、届かないのなら。

 何を、無駄に体力を消費する必要があるだろうか。


 そんな風に、諦めて。いつしか、凍える様に心を殺した。


 ――だけど。


〝おばあさま、……おばあさま……っ〟

〝ごめんなさい。おねがい、だして。……おばあさまっ……〟


「……っ」


 何故だろうか。

 本当は。


〝おばあさま……っ〟



「――リヴェルっ!」

「―――――」



 ――この、扉を開けて。



 ぎいっと、重々しい音を立てて、目の前が開かれていく。

 隙間から差し込んだのは、柔らかな黄金色の日差しだった。一日の終わりを告げ、夜と混じる切なくも優しい色にリヴェルの周りが満たされていく。

 がたん、と扉が壊れた様に静止する。その音が、闇の終わりを告げる声に聞こえた。


「リヴェル、無事」

「……、……え」


 緩々と、座り込んだまま呆けた様に顔を上げる。

 視界に入ったのは、真っ黒にはためく翼だった。背後から差し込む日差しを弾きながらも、共に在る様に凛とはばたく、綺麗な黒い光。


 初めて見た時も、目を奪われた。


 羽ばたきながら、自分の道を真っ直ぐに進む強さに。凛とした空気を纏いながら咲き誇る、黒い一輪の花に。

 それが、今。また、目の前に、在る。


「……ステ、ラ?」

「リヴェル、怪我は無い?」

「……、……怪我」


 呆然と己を見下ろしてみるが、特に目立った外傷はない。服も転んだ時に乱れたくらいで、破れた跡も無かった。


「大丈夫、だと、思う」

「……、そう」


 ステラが細く息を吐き出す。その吐息が、どこか安心した様な響き方に思えて、リヴェルは彼女に視線を移した。

 彼女の表情は、相変わらず無のままだ。傍からすれば、全く変化が無い様に見えるだろう。

 だが。


「……、変な感じがして、急いで来てみた」

「……」

「そしたら、この倉庫に魔法の残り香があったから。リヴェルの気配もしたし、来て良かった」


 彼女の瞳が、微かに揺れていた。声も、少しだけ震えている気がする。

 心配、してくれたのだろうか。

 急いで来てくれたと言っていた。思った以上に危ない状況だったのかもしれない。

 だが。


〝来て良かった〟


「――」


 彼女は、良かったと言ってくれた。

 倉庫に閉じ込められた自分の元に、来て良かった、と。

 心配して、扉を開けて、助けてくれた。



 ――今までは、誰も、助けてくれなかったのに。



 彼女は。


「……っ」


〝おばあさま……っ〟


 誰も、助けてくれないと思っていた。諦めて当然だった。

 だけど。

 ――本当は。


「り、リヴェル?」


 焦った様な声がする。何故だろうかと首を捻ったが、それよりも胸が震えて止まらなかった。


「……、開けて、ほしか、った」

「……」

「扉、……開けて、欲しかったんだ……」


 こんな風に、誰かに助けて欲しかった。

 自分の声を聞いて欲しかった。

 扉を開けて、――迎えて欲しかった。

 それが、今。


〝来て良かった〟


 叶った、なんて――。


「……っ、……あり、がとな」

「……」


 声がみっともなくぶれた。頬も濡れる様に熱い。そこでようやく、自分が泣いていることに気付いた。

 慌ててごしごしと拭うが、ステラは困った様に首を傾げている。呆れただろうかと、少し身を引いてしまったが。


「……、リヴェル」

「――」


 追う様に、すっと手を伸ばされる。

 何事かと一瞬身を固くすると、そのまま彼女はリヴェルの右手を取ってきた。


「す、ステラ?」


 きゅっと、指の先を軽く握られる。

 その触れ方は、どこかおっかなびっくりの様にも思えたが、離れる様子はなかった。故に、リヴェルも黙って受け入れる。


 しばらく、互いの指先だけが静かに絡み合う。


 体中の熱が、右の指先にいっぺんに集中していく感覚に、リヴェルの心はむずむずと落ち着かない。

 だが、反対にひどくなだらかななぎが、心を優しく包み込んでいく。

 ほっそりとした彼女の指は、絹の様に滑らかだった。色も雪の様に白くて、とてもあれだけ強烈な魔法を生み出す手とは思えない。


 ――細い、な。


 想像していたよりもずっと細い指先に、リヴェルは知らず見惚れた。誰かを傷付ける魔法も、誰かを癒す魔法も、全てこの手が担っていると思うと、不思議な心地がした。

 そうしてどれだけ、熱を分け合っていただろうか。

 風の音だけが緩やかに流れていく空間の中、最初に切り開いたのはステラの方だった。


「大丈夫」

「……っ」


 ぴくりと、リヴェルの指が震える。

 だが、逃がすまいとステラが指を掴み直し、宣言した。



「これからは、私がばんばんリヴェルの行く道の扉を開ける」

「――」



 ――は?



 思わず間の抜けた声が漏れた。

 自分は今、何を聞いたのだろうか。そんな疑問があっという間に脳を埋め尽くしている間に、続きが流れる。


「リヴェルは、扉が開いて嬉しいって言った」

「は、……」

「だから、扉を開ける。安心して」

「―――――」


 まるで、胸を叩く様に強く言い切る彼女に、一瞬ぽかんと口が開いてしまった。何を言い出したのかと、頭が真っ白になる。

 だが。


「扉を、開ける、……」


 ふつふつと、腹の底から笑いが込み上げてきた。そして遂には、ぶはっと、噴き出してしまう。


「ふ、……ははっ!」


 堪らず胸を押さえて笑う自分に、ステラは首を傾げる。何故笑うのかと言わんばかりの表情に、また笑いが込み上げてきた。

 自分は、確かに扉が開いて嬉しいと言った。

 だから、彼女は開けるとこの場で誓ってくれたのか。胸を張って。

 何と、真っ直ぐな。

 しかし。



〝安心して〟



 ――これ以上の励ましは、無い。



「あ、はは! そうだな。……嬉しいぞ」

「うん。任せて」

「ああ、……任せるな」


 ステラらしいと、笑ってしまう。

 いつもは肩透かしを食らったり、沈んだりする彼女のすっとぼけた言葉が、今は自分を浮かび上がらせてくれる。

 そうだ。嬉しかった。扉が開いて、救われた。

 彼女は何も知らなくても、どこかで自分の傷を撫でてくれる。それが堪らなく幸せだった。


「あー、笑った。ほんとにありがとな」

「……、役に立ったのなら、良かった」

「ああ。……でも」


 ほぼ沈みかけた夕陽を見つめ、リヴェルは頭を捻る。

 気のせいでないならば、閉じ込められる前も、大体夕陽は沈みかけていた。

 それなのに、今もまだ沈みかけたままだ。時間がそんなに経っていないということだろうか。

 それに。


「……、ここ。体育用の倉庫、だよな」

「うん、そう」


 簡潔に肯定されて、益々不可解に巻かれる。

 自分は、裏庭から真っ直ぐ寄宿舎へ向かっていたはずだ。この、授業やサークルで使う体育器具を収納する倉庫は、寄宿舎とは真逆の方向にある。

 いつの間に、ここに入り込んでしまったのだろうか。自分が浮かれた思考に沈んでいたせいで、方角を間違ってしまったのか。

 ただ、倉庫に誰かの意地悪で閉じ込められただけで、おかしなことは無かったのだろうか。

 だが。


「……」


 あの、闇が不気味に笑って体中を蠢く様な嫌な感触を、忘れるはずがない。

 あれは、幻覚などではない。実際に襲ってきた『何か』だった。

 それに。


〝あなたは、だれのもの?〟


 あの、壊れた様な声を、幻で片付けるなど土台無理な話だ。


「なあ、ステラ」

「……」


 呼びかけたのに、ステラは無言だ。むしろ、無視してリヴェルの背後に視線を注いでいる。

 何だろう、とリヴェルも振り返り――ぎくっと頬が引きつった。


「え、……エルスター?」

「やあ、リヴェル。熱い熱い逢引きのところ失礼するが、そろそろお邪魔しても良いかね?」


 振り返った先には、いつの間にか腕を組んで、仁王立ちしているエルスターがいた。

 その表情はまるで東に伝わる鬼の様な険しい顔つきで、リヴェルの体がずさりと後退あとずさる。


「まったく。遅いから心配して来てみれば、こんな人気のないところで魔女殿と逢引きとは。やるのだよ」

「い、や。ちが」

「心配して損したのだよ。はあ、……魔女殿もほどほどにしておいてくれたまえ。リヴェルは、女性に免疫がないのだからね。誘惑されれば、一発でころっといくのだよ」

「いかないぞ! 何を言ってるんだ!」


 とんでもない注意をしてくれるエルスターに怒鳴るが、しかしステラは無反応だ。

 その後、数秒かけて首を傾け、彼女はぱちぱちと瞬き。


「何を誘惑すればいいの」

「そこじゃないっ!」


 どこかずれた箇所に注目され、リヴェルが光の速さで打ち消した。エルスターが呆れ顔になっていたが、構わず話を終わらせる。


「ああ、もう! エルスター! 彼女は変なところで世間知らずなんだ! あんまりからかうなよ」

「何を言う。忠告なのだよ。お前さんも、少しは無防備なことを自覚したまえ」

「う、ぐ。それは……」


 つい今しがたの出来事を振り返り、ぐうの音も出ない。

 確かに、今回の自分は隙だらけだっただろう。ステラの前では泣いてしまったし、情けない姿ばかりさらしている。

 そんな風に反省する自分に、エルスターはこれ見よがしに溜息を吐く。

 しかし、どことなく目元が和らいでいた。心配をかけたと、小さくなってしまう。


「ご、ごめん」

「……まあ、無事なら良いのだよ」

「……エルスター」

「だが。何があったかは聞かせてもらうのだよ。魔女殿も。良いね」

「……、はい」

「分かった」


 ぎっと強く睨まれ、リヴェルは体を更に縮こめる。ステラの淡々とした返事が、眩しい。

 しかし、今振り返っても散々な出来事だった。今でも、闇に笑いながら近寄られた時のことを思い出して、ぞっとする。

 だが。



〝リヴェル、怪我は無い?〟

〝遅いから心配して来てみれば〟



「……ありがとな、二人共」



 閉じ込められても、助けに来てくれる人がいる。

 それは、何て幸せなことだろうか。


「……礼を言う暇があるのなら、少しは危機感を持ちたまえ!」

「……、はい」

「エルスター、母親」

「母親ではないのだよ! せめて父と言いたまえ!」


 間に挟まれながら、二人のちぐはぐな会話を聞く。

 それが、今のリヴェルには堪らなく嬉しくて、幸せなひとときだった。


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