第16話


「お待たせ致しました」

「――」


 静寂を縫う様に、店員が注文したデザートを運んできた。

 誰かがこの空間に割って入ってくれたことに、リヴェルは心底安堵する。おかげで、エルスターとステラの微妙な空気も一旦リセットされた様に気まずさが消えていた。

 誰が注文したか仔細しさいに覚えているらしく、店員は全員の前に迷うことなく頼んだ品を置いていく。いつもながら丁寧な仕事に、感嘆した。

 ごゆっくりと言い置いて、店員が去っていくのを見届け、マリアが常の様に身を乗り出した。


「リーヴェルっ。美味しそうねー」

「はいはい、待てって。ほら」


 オレンジパイを切り分け、一口彼女に突っ込んでやる。

 んー、美味しい、と頬を押さえてとろける彼女に、呆れ混じりに微笑んだ。いつもながら、良い笑みである。彼女は楽しそうに、美味しそうに食事をするから、一口取られてもまあ良いかと思えてしまう。


「マリアちゃん……」

「クラリスもやればいいのよー。リヴェル、優しいからくれるわよ」

「う、ううう……っ、り、リヴェル君!」

「ん? 何だ?」


 ぐるん、と勢い良く、勇ましく、まるで死地に向かう様な意気込みでクラリスが振り返ってくる。

 何だろうと少しだけ気圧されていると、クラリスはぐっと両の拳を握り締めた。そのまま、すうっと深く息を吸い込んで、高らかに宣誓するかの如く声を吐き出す。


「あ、ああああああの、あのあの、あのね! リヴェル君!」

「あ、ああ。何だ?」

「わ、わわわわたし、わたしししも! その、ぱ、ぱ、ぱぱ」

「ぱぱ?」


 父親がどうかしたのだろうか。

 そう思ったが、別にクラリスは父親のことを「ぱぱ」とは呼んでいなかった気がする。というより、家族の話をしたことがない。

 では、何だろうか。全く予測が出来なくて首を傾げていると、クラリスの顔は何故か茹でたこの様に真っ赤に茹で上がっていった。


「ぱ、ぱぱぱぱ、ぱい、ぱぱぱぱい!」

「ぱぱぱぱい、……パイ? パイのことか? って、クラリス、大丈夫か。何だか、顔が」

「うん! その、パイ、ぱぱぱ、……パイ! あ、あああああ、あーん、ぱぱ」


 だんだんと茹でたこから、のぼせあがって熱中症の人でさえ心配になるほどの真っ赤っ赤っぷりになり、リヴェルがいよいよ、何か冷たいものを頼もうかと右往左往し始めた。

 その時。


「う、……ううううう! ぱ、ぱ」

「く、クラリス? 大丈夫か、氷でも……」

「ぱ、ぱぱぱぱい! パイ! オレンジパイは、美味しいよね!」


 物凄くどもりながら、宣言された。右の拳を握り締め、ガッツポーズでもするかの如く断言するその姿が、勇猛な戦士を連想させる。

 思い切りこちらに身を乗り出され、力強く断定されれば、もう異論はない。


「あ、ああ。……美味いよな」

「……だよ、ね! ……あああああ、マリアちゃんの馬鹿ー!」

「えー、この場合、私じゃなくてリヴェルでしょー。うーん、まあ、頑張りは認めるわー」


 テーブルに突っ伏して、大泣きし始めるクラリスに、マリアが頭を撫でながら慰める。どこか楽しげな彼女の顔は、クラリスには伝えないでおこうと、ひっそり決めた。

 その一連の流れに、ステラはこてんと首を傾げ、エルスターは大袈裟に溜息を吐く。


「マリアよ……いい加減に」

「エルスターのピーチパイも美味しそうよねー」

「……口を開けたまえ」


 心底仕方が無さそうに、エルスターがフォークでパイを刺す。そのまま、可愛らしく開けた彼女の口に、頬杖を突きながら入れていた。

 もくもくと、嬉しそうに味わって彼女が笑顔になる。先程よりも、喜びを増した様に輝いている気がしたのは、果たしてリヴェルの勘違いだろうか。

 自分も食べよう、とパイを改めて一口分けようとすると、視線を感じた。


「ん?」


 何だ、と顔を上げると、ばちっとステラと目が合った。

 予想外の出来事に、リヴェルはパイを切り分ける途中で固まる。ぱち、ぱちと軽く二、三回瞬きを繰り返し、首を傾げた。


「ステラ? どうしたんだ」

「……、おいしそう」

「ん? ああ、美味いぞ、これは。ステラのも同じだろ」

「おいしそう」

「……、……………」


 じっと、あどけない目でこちらを凝視してくる。

 何だろうと考えて、数秒。ぎぎぎ、と錆びた蝶番ちょうつがいの如く視線をパイの方へ落とした。

 そういえば、マリアが「美味しそう」と言って身を乗り出したのを見計らって、自分はパイを彼女の口に放り込んだ。エルスターも然り。

 そして、おいしそう、と告げてくる彼女。


 ――ああ、つまり。


 予感がして、恐る恐る視線を彼女に戻した。


「もしかして」

「……」

「ぱ、パイが、食べたいのか?」


 こくん、と大きく頷かれる。

 本気か、と恥も外聞もなく叫びたくなるのを噛み殺したのは、とても偉いと自画自賛したくなった。

 彼女はとても素直で、言われたことを実行するのをあまり躊躇わない人物だが、まさかここでも発揮されるとは露ほども推測しなかった。脳内だけで、頭を抱えてのけ反ってから、にこりっと全神経を集中させてリヴェルは笑う。


「あのな、ステラ」

「うん」

「俺と君は、同じパイで」

「おいしそう」

「……」


 駄目だ、これは。


 心なしか、わくわくと瞳が輝いている。面白そうだと感じたのだろうか。実行するまで引かなさそうな彼女に、視線は無意識にまたパイに落ちる。

 何故、この行動に興味を示したのだろう。本当に彼女は読めない。

 観念して、リヴェルは切りかけていたパイを最後まで分けた。そのままフォークの先で刺し、彼女に向ける。


「ほら」

「……」


 何故、固まる。


 早く食べて欲しいと、これほど切に願ったことはない。震えそうになる手に力をこめて、リヴェルは彼女の口元へと更に近付けた。

 何だか緊張する。マリアには軽く出来ていた行動なのに、ステラに対しては恥ずかしくてたまらなかった。

 彼女の瞳が、パイに注がれている。薔薇の花びらの様な綺麗な形は、芸術だ。オレンジの果実も非常に艶があり、見ているだけで喉が鳴る。

 彼女も、目でまず堪能たんのうしていたのだろうか。たっぷり一分ほどパイを観察し、すん、と匂いを嗅いだ後。



 ――ぱくっ。



「―――――」



 躊躇いなく、口に含んだ。



 その際、開いた唇がどこか艶っぽく、心臓が訳もなく飛び跳ねた。

 不自然にならない様に、かつ素早くフォークを引っ込めている合間に、もくもくと彼女の唇が動く。色が綺麗だな、と思った瞬間、いけないものを見ている様な気持ちになって、慌てて目線を下に落とした。

 そして、落とした先に、今し方彼女が口に含んだフォークが目に入って、また振り子の様に顔を上げる。

 別に、悪いことをしているわけではない。

 なのに、変な高揚感が止めなく押し寄せてきて、無性に叫び出すか頭を抱えたくなった。


「……おいしい」


 だが、彼女はそんなリヴェルの苦悩を知らない。

 少しだけ弾んだ声で喜ばれ、どっと疲労が両肩に伸し掛かった様にくたびれた声が漏れ出た。


「そうか。良かったな……」

「うん。じゃあ、リヴェルも」

「ああ。俺も、……って、は?」


 何の話だ、と思っている間に、ステラは自分のパイを一口切り分けた。そのまま、豪快にぶすっとフォークを刺し、何故かリヴェルの目の前に突き出す。

 先程とは、逆の体勢だ。瞬きも忘れて、そのパイの欠片かけらを注視する。


「えーっと、何だ?」

「はい、あーん」

「はい、あー、……、ん?」


 言われて、オウム返しに復唱し、はたと我に返る。

 はい、あーん。子供に言う様な言葉は、昔、風邪で寝込んでいた時に母に向けられた類のものだ。

 あの時は、確か起き上がるのも辛くて、食べさせてもらう時に口を開け、という意味だった。はずだ。

 ならば。これは。


「リヴェル」

「……、ああ」

「あーん」


 目の前には、フォークで切り分けられたパイ。そして、その言葉。



「……、あ、の。ステラ」

「私ももらったから。お返し」



 ――やっぱりかー!



 ここで咆哮ほうこうしなかった自分を、心の底から褒めてやりたい。

 理解した途端、どかっと大量の熱が降ってきた様に暑苦しくなった。周囲の気温が猛スピードで上がっていく。


「い、いや」

「嫌?」

「え、あ! 嫌、じゃ、ない、……のか?」


 今まで散々マリアにしてきたのに、逆パターンとなると酷く気恥ずかしい。する側よりもされる側が苦手なのかと、変に冷静な部分で分析してしまう。


「……って、ど、どうして、あー、ん、なんだ?」

「ウィルが、前にやってるのを見た」


 ――ウィルー!


 ここにはいない元凶に絶叫し、リヴェルは頭を抱える。そして、ステラはどこまでも真っ直ぐだということが証明され、更に頭を抱えた。

 まずい。恥ずかしい。恥ずかしすぎて死にそうだ。何故ステラは平気なのかと、変な八つ当たりまでしたくなるのを寸でで堪えた。

 しかし、このまま右往左往していると、余計に変態に思われてしまうかもしれない。現に、もう既に友人達の目が生温い。というより、涼しくなってきている。これは、さっさと終わらせた方が身のためだ。

 ぐっと顔を上げて、パイを見つめる。


 そうだ。いつも、している通り、されれば良いだけだ。


 完全に混乱した頭で言い聞かせ。




 ばっくん、と勢い良くパイにかぶり付いた。




 さくりとした、生地の心地良い感触の後、じゅわっと甘い果汁が流れ込んでくる。

 相変わらず、ここのパイは美味しい。都心にだけ流通しているオレンジの菓子を扱っているだけではなく、味まで抜群なのは貴重だ。

 そうだ。いつも通り、美味しい。

 なのに。


「美味しい?」


 誰かに――ステラに、食べさせてもらった。

 それだけだ。


「ああ」


 なのに。



「……、美味うまい」



 いつもよりも遥かに濃厚で、甘い味がした。



 口元を手で覆い、もごもごと残りの欠片を噛み締める。

 体中が熱い。これは、顔も真っ赤になっているだろう。鏡を見るのも嫌だし、友人達に見られるのも照れくさくて仕方がない。

 何故、こんなに熱いのだろう。

 食べさせるのも恥ずかしかったが、食べさせてもらうことが、ここまで顔から火が出るほど恥ずかしいとは予想もしなかった。

 ちらりと彼女を見れば、まだこちらを見つめたままだ。真っ向から視線が絡み合って、身の置き所がなくなる。

 それなのに。



 ――微かに、見逃してしまいそうなほど微かに。彼女が、笑った。



「―――――っ」



 見間違いか。

 そう思いたくなるほどの刹那的なものだったが、彼女は確かに笑っていた。

 そのまま、彼女は自分のパイに興味を移したらしく、もくもくと食事を開始する。美味しい、と言わんばかりに次々と食べていく姿は、マリアとは別の意味で気持ちが良い。

 彼女の唇が、忙しく動く。


 その唇の端に、パイの生地が一枚ついていた。


 どきり、と強張こわばる顔や心を落ち着ける。そのままリヴェルは一度小さく息を吐いて、仕方なさを装って注意した。


「ステラ。唇にパイがついてる」

「え。どこ」


 全然見当違いのところをさする彼女に、じれったくなる。

 立ち上がって、手を伸ばしたのはもう無意識だった。



「ここだ」

「―――――」



 くいっと、彼女の唇に指先が触れる。

 ふにっとした柔らかな感触に、ぞわりと指先から電撃が注ぎ込まれた様な痺れが走った。


「……っ!」


 ぐっと喉からほとばしりそうになる声を、力の限り叩き潰し、リヴェルは努めて冷静に、平静に、泰然たいぜんと唇から指を離した。


「ほら」

「ありがとう」


 紙の手拭きで拭こうと手を引っ込めかけて、がっと彼女に手首を取られた。

 何だ、と冷静さが崩れて動揺している合間に、更に手首を引っ張られ。



 ――ぺろっと、彼女の舌が指先を舐めた。



「――――――――」



 頭の中が、真っ白になる。

 遅れて、くすぐったい、生温かな感触が指先に甦った。

 指の腹を這う感覚が、もどかしいのに気持ち良い。生温いはずなのに、妙に熱っぽくて、冷えた肌がさみしくなった。

 それに、極めつけは。



 彼女の舌先が、指をなぞる瞬間。



 伏せた睫毛まつげが、ひどく艶めかしい。

 妙にざわついた感覚が背筋を駆け抜け、堪らず震えた。



「……っ! ステ……」

「パイ、もったいないから」



 ――そういう問題じゃないっ!



 今度こそ叫びたかったが、声が出なかった。息と一緒に詰まって、更に熱が上がっていく。

 自分ばかり慌てふためいて、彼女は至って冷静だ。それはそうだろう。彼女に他意はない。


 ただ、パイを食べさせてもらったから、お返しをした。

 ただ、ぬぐったパイの欠片がもったいないから食べた。


 それだけだ。他に意図などありはしない。

 それが、どれだけ自分を惑わせ、もてあそんでいるかなど。彼女に、理解出来はしまい。



「―――――っ!」



 どっかと乱暴に椅子に座って、猛然とパイを切り分ける。そのまま、ばくんと食べ、よく咀嚼して飲み込んだ。

 やはり、美味い。ここの店のパイは最高だ。

 けれど。



〝美味しい?〟



 ――彼女に、食べさせてもらったパイの方が、美味かった。



 そんな風に考えてしまう自分が不思議で、悔しくて。

 リヴェルはパイを食べきるまで、他に何も出来なかった。

 だから。



 友人達が、各々考え込む様に自分を見つめていたことに。



 リヴェルが気付くことは、当然不可能だった。


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