第8話


「何が聞きたいの」


 リヴェルの質問に、静かにステラが問うてくる。

 彼女にとって、あの日の出来事は、特に隠し立てする必要はないらしい。

 ならば、と。迷ってから、リヴェルは踏み込むために質問を切り出した。



「……、ステラが踏み付けていた塊は」

「成れの果て」



 簡潔に返された。

 むしろ簡潔に過ぎて、何が何だかさっぱりである。


「成れの果てって、何だ?」

「魔法使いの成れの果て」


 やはり簡潔だ。

 単語が増えたから成れの果ての正体は判明したが、それ以外は全然分からない。


「魔法使いの成れの果てって、……えーっと、人間ってことでいいのか?」

「一応は。ただ、あれはもう化け物の様なもの。見境なく人を襲う。ああなったら、始末しなければならない」

「ば……」


 化け物。始末。

 物騒な単語だらけで、ふるっと寒くも無いのに体が震えた。抱く様に両手を回せば、きょとんとした様にステラが見つめてくる。


「寒いの?」

「あ、いや。……じゃあ俺は、目の前で人が死ぬのを見たんだなって」

「そうなる」


 躊躇いなく肯定される。フォローも何もあったものではない。

 だからこそ、一層暗い現実が重くのしかかってきた。



 人が、死んだ。



〝あんたの父は死んだよ〟



 幼き頃に、死は経験していた。

 あの時は、直視したわけではなかった。

 けれど。



〝そうなる〟



 訳も分からず、始末という果てに、人が死ぬ。



 直接確認したわけではないが、それでもあっさりと死を認められてしまったことに、震えが止まらない。かたかたと、体に回す腕が小刻みに揺れた。


「震えてる」

「……っ」

「やっぱり寒いの」

「ちが、……人が、死んだから」

「……、死んだら、寒くなるの」

「そうじゃないっ」


 淡々とおうむ返しに問われてしまい、自然と声が荒くなる。

 何故、事もなげに彼女はそんな風に言ってのけられるのか。

 だって、人が死んだのだ。

 彼女が、殺したのだ。



 つまり、目の前の彼女は、人を殺したということになる。



「……っ」


 気付いた途端、足元から這い寄る様に悪寒が絡み付いてくる。

 彼女のその手が、踏み潰した足が、不気味にさえ思えてきてたまらなかった。


「リヴェル?」

「……っ、あ、ひ、人が死んだら、普通は恐いし、悲しいだろっ。……何で、そんなに……」

「……恐いし、悲しい」


 単純に同じ言葉を繰り返されて、言葉に詰まる。

 一瞬、彼女の目が微かに開いた様な気がしたが、表情はまるで変わらない。淡々とした言葉も添えられて、リヴェルは身を引きそうになった。


 ――何故、分からないんだ。


 やり切れない。――やり切れない。

 人の心が、分からないからか。彼女は、罵れば相手が傷付くということすら理解していなかった。

 だから、届かないのか。


〝あんたの意見なんか〟



 ――自分の、意見など。



 先程までの浮き足立った心が、どす黒く塗り変えられていく。その感覚が気持ち悪くて、リヴェルは強く頭を振った。

 そうだ。届かない。だから、きっと伝わらない。

 人が目の前で死ぬことが、どれだけ恐ろしいことか。命が失われていく様が、どれほど冷たく、悲しいことか。分かるわけが、無い。

 でも。



〝餌にしなければ、あなたの気持ちが分かるというなら〟



「……っ」


 でも――。



「……少なくとも、俺は。人が死ぬと、……恐いよ」



 口を付いて出たのは、それでも降り続ける思いだった。

 どうして、こんなに強情になっているのだろう。疑問を抱きながらも、口は勝手に言葉を綴っていく。


「今まで生きていた相手が、目の前で突然死んだら、恐い。嫌だ。……恐い」

「……」

「例えば、俺の友人が、無残な姿で死んでいたら。俺は、崩れて立ち直れないかもしれない」


 エルスターが、マリアが、クラリスが。

 考えただけでおぞましい。想像したことにすら嫌悪が走った。

 ステラは、口を挟まない。

 だが、じっとこちらを見つめる漆黒の瞳は、少なくとも言葉を拒絶してはいなかった。そのことに安堵する自分がいる。


「……それに、殺人は犯罪だっ。法律でだって定められて」

「成れの果ての始末は、認められている」

「――」


 いきなり反撃された。

 あまりに残酷な肯定をされ、一瞬頭の中が真っ白になる。


「みと、……っ、何」

「あの夜。私が介入しなければ、あなたはとっくに死んでいた」

「―――――」


 淡々と語られて、一気にリヴェルの頭が冷えていく。同時に、気持ち悪さがすっと、引く様に凍っていった。



〝よけなさい〟



 不意に彼女の夜の一言が、鮮烈に脳裏に響き渡る。

 確かにあれは、彼女の注意喚起だった。以前の、「助けてくれたのかもしれない」という予想が的中していたことになる。



 ならば彼女は、誰かの命を奪いながら、一方で自分の命を救ってくれたということか。



 相反する二つの事実に、リヴェルの心も反発し合う。ばらばらに引き千切られそうなほど混濁したが、真実を追って、口は勝手に動き続けた。


「俺、……つまり、狙われてたってことか?」

「そう」


 ひどく簡潔だ。

 しかし、それがかえって事実を裏付けていることになり、リヴェルの背筋が大きく震えた。


「……っ、どうして、俺だったんだ?」

「……。成れの果ては、それになった時点で、もう人ではなくなる」

「……、え? どういうことだ?」


 元は人間だが、人ではない。

 論理が繋がらなくて首を傾げると、ステラは淡々とまた説明を続ける。


「魔法使いは、理性を保って人として生きる。つまり、理性が人間であるための唯一の手段と言っても良い」


 やはり、よく分からない。

 魔法使いは人間ではあるが、それには理性が大前提ということだろうか。


「魔法使いは、魔力を持つという時点で一般人とは違う。つまり、人体の構造も少し違う」

「は、はあ。まあ、確かに魔法は使えないな」

「魔法使いは、人と同じ様に生きることを望んだ。だから始祖は、人が生きていく上で持つのと同じ理性を保てば、人として生きていける様に、魔法使いをこの世に繋げた」


 何だか難しい話になってきた。

 頭がこんがらがって、だんだん脳内が理解を超えた摩擦で悲鳴を上げ始めると。



「魔法使いは理性で人になってるけど、理性を失ったら、飢えた獣になる。人体構造も人じゃなくなるから、死んだら元素に還って、体も消えてなくなる」



 急に結論付けられた。内容も、簡単になった。

 相変わらず、突然説明が少し馬鹿っぽくなる。エルスターとやっぱり似ている気がしなくもない。

 だが、人ではないという解説に、少しだけ気が楽になった。

 例え元は人間だとしても、――幾分救われるのは、自分の身勝手な願いだ。

 けれど。


 ――それでも、生きてるんだよな。


 どれだけ残忍な存在であったとしても。

 それを考えると、やはり気分は晴れなかった。


「……えーと。それで、何で俺を狙うって話に?」

「成れの果ては、腐っても元は魔法使い」

「くさっ……」

「理性は失くしても、かろうじて知恵はある。知能が高い奴は、一般人を装うことも可能」

「え……」

「そして、人気ひとけのない夜に、音が漏れない結界を張って、ふらふらと表を歩いている人間を狙って惨殺するのが大体の行動パターン」

「……っ」

「彼らは人の血を見たいのだと、私たち魔法使いは推測している。百年前まで、私たちは戦争でたくさんの命を奪っていたから」


 冷静に指摘され、更に頭の中が凍ってひび割れていく。

 ああ、そうだ。歴史で習ったではないか。

 魔法使いは百年前まで、盟友であるこの国のために戦に参加していたのだと。

 彼女は、魔法使いだ。

 ならば、当然戦に参加し、心ならずともたくさんの命を奪って――。


「……、ん?」


 そこまで考えて、思考が止まる。

 百年前。

 それは、言葉にすれば簡単だが、一人の人生の長さで測れば相当な年数だ。

 それに、目の前の彼女は二十歳のはずだ。戦に参加しているはずもない。


「なあ、ステラ」

「何」

「ステラは魔法使いだけど、その、……戦争って、百年も前のことだろ? 参加してるはず、ないよな」


 常識の範囲内の質問だったはずだ。

 だが、彼女は常識など軽く超えた。


「いいえ。参加した」

「……はい?」


 耳を疑う。

 聞き間違いだろうと苦笑いをしてみたが、彼女の眼差しは至って真剣だ。己の顔から、感情が音を立てて抜け落ちていく。


「私たち魔法使いは、悠久の時を生きる」

「……、え?」

「不死ではないけど、不老。故に、殺されたり病に侵されない限り、死なない」

「―――――」


 周囲から、音という音が削ぎ落とされていくのが聞こえた気がした。一緒に色も綺麗にぬぐわれていく。

 悠久の時を生きる。

 彼女も、生きている。



 それは、一体いつから。



 そんな馬鹿げた疑問が、頭の中を埋め尽くす。急に、彼女が遠くなった。

 嘘だろうと笑い飛ばすのは簡単だ。

 しかし、彼女は冗談を言う様な性格ではない。そんなのは、この数日の付き合いだけで推し量れた。

 だから、真実なのだ。



 彼女は、魔法使いで、永い永い、それこそ自分には想像もつかない道のりを歩いてきた。



 それだけ気が遠くなるほどの道を歩いてきたというのならば、様々な経験を積み、知識も身に着けているだろう。

 それなら、人の心が分からないというのは、何故だろうか。

 人を殺しすぎて、感覚が麻痺したのだろうか。

 それとも、予想もつかないほどの苦境に立たされて、心を殺したのだろうか。

 分からない。何もかも。

 当たり前だ。



〝私たち魔法使いは、悠久の時を生きる〟



 彼女は、自分よりも遥かな時を悠然と歩く、別世界の存在なのだから。



「……、」



 声が出ない。

 心もざわめいているはずなのに、とてもなだらかだ。

 自分こそ、感覚が麻痺してしまっている。ざわざわと、黒い音だけが、あの夜の様に間近でうごめいていた。

 彼女は、無言のまま。何を考えているのかも読めない。そのことに、どうしようもない虚無感を覚えた。


 ――何故だろう。


 最初から、そうだったではないか。

 ただ、真っ黒な透明さが強烈だったというだけで。

 言葉を交わしても、こうして傍にいても。

 彼女のことなど、何一つ理解なんて――。



「――下がりなさい」

「――、え」



 唐突に、本当に突拍子もなく、彼女が鋭く立ち上がる。



 同時に、ばちいっと近くで衝突音が弾けた。爆音の様な強さに、思わずリヴェルは耳を塞ぐ。

 何事かと音のした方を仰げば。


「……え、……だれ、だ?」


 いつの間にか、数歩離れたところに青年が立っていた。

 自分とそう年齢も変わらない、ごく普通の人間に見える。

 それなのに。


「……っ」


 彼の顔を見た途端、リヴェルの体が心ごとすくんだ。



「……ああああああっ、す、て、すて、ら、……あああああああああああっ」



 彼の瞳も、声も、見るだけで異常だった。



 瞳はぎらぎらと別の生き物の様にうごめき、今にも飛び出しそうなほどぎらついている。

 ぎょろっと、獲物を捕らえる様にこちらに視線を向けられ、またも心が竦んだ。目が合った瞬間、直接肌を舌なめずりされた様な悪寒が走り、がたっとリヴェルの足が震え始める。


「っ、何、だ、あれっ」

「は、あ、あ、あああああっ、お、まえ、は、……ああ、ステラ」

「……、誰。私はあなたを知らない」

「ステラ。ステラの、匂い。そいつ、匂い、殺す……!」

「……、え? ……っ!」


 かたかたと、人形の様なぎこちない喋り方におぞましさを感じている間もなく。

 ぎらっと彼の瞳が一際ひときわ大きく輝いたと同時に、風が一気にリヴェルを目掛けて駆け抜けた。刃の様に地面が抉れてこちらへ走るのを目に、思考が止まる。

 だが。



「……させない」



 ぱあんっと、目の前で風が弾けた。



 空気が無残に散るのを確認する暇もなく、ステラは翼の様に黒いコートをひるがえし、真っ白な閃きをむちの様に振るう。


「すて、らあああああああっ! ころ、す! はな、れ、ろ!」


 打ち下ろされる鞭を器用にかわし、青年が風の乱舞を滅茶苦茶に彼女に向かって撃ち込んできた。

 だが、彼女の体に届きはしない。



 ばさっとコートをはためかせ、彼女が華麗に宙を舞う。



 その直後、白き輝きに弾かれた風の塊が、鉛の様に地面を殴り、無残に穴が開いていく。

 どご、ぼごっと、鈍い音を立てて緑の息吹が死んでいくのを、リヴェルは呆然と見つめていた。痺れた様に、頭も心も動かない。

 しかし。



「……にゃあん」

「――」



 近くで上がった鳴き声に、我に返った。

 弾かれた様に見下ろせば、猫達が逃げずにリヴェルを囲む様に布陣していた。まるで自分を守る様な勇ましさに、血の気が引いていく。


「馬鹿、逃げろ!」


 軽く叩けば、猫達が少しだけ後方へと駆けていった。

 しかし、あまり距離を取らない。

 そして、その猫達の躊躇う様な動きが、不幸にも青年の目に留まってしまった。



「……匂い、……ステラアアアああっ!!」

「―――――」



 どおんっと、風が猫達の近くで爆発する。

 悲鳴が聞こえ、リヴェルの表情も心も凍てついた。猫が宙を舞う姿に、ぶちっと心臓を噛み千切られた様な激痛が走る。



〝あんたの父は死んだよ〟



 死ぬ。

 死んでしまう。



〝俺のせいで〟



 また、死んでしまう。

 目の前で。

 猫が、命が。無くなるなんて。

 嫌だ。――嫌だ。

 そんなこと。



「―――――っ!」



 ――させないっ。



 もう一度風が、猫の方へと投げられる。

 震える体を叱咤しったして、リヴェルは力の限り地面を蹴った。そのまま、舞い上がった猫達を抱き込み、地面に転がる。

 途端。



 左肩に、深く、鋭い激痛が焼ける様に突き抜けた。



「う、あっ!」

「……リヴェル!」


 気を失いそうになるほどの痛みの中、声が乱反射する。焦った様な声音だな、とどこか他人事の様に認識した。

 痛みに悶えている間にも、ぎらぎらした獣の様な視線が、背中に深く突き刺さる。狙われているのが分かったが、刃を続けざまに刺し込まれている様な激しい痛みに、立ち上がることも出来なかった。



 ――殺される。



 あの夜の、憐れな塊の様に。



「……っ」



 目の前に点滅した光景に、だが、ぐっと歯を食い縛る。漏れそうな嗚咽おえつは、懸命に噛み殺した。


 ――ならば、せめてこの子達だけでも。


 精一杯の力で抱き寄せて、リヴェルは体を丸めた。潰されても、刺されても、彼らには届かない様にと願う。

 しゃっと、頭上から鋭い音が振り下ろされる。

 襲い来る恐怖に、ぎゅっと両目を瞑った。情けなく震える体を、それでも動かさずに構え――。



 ――ぱあんっと、何かが破裂する音が空で鳴った。



 同時に、どっと重い塊が転がる衝撃が地面に走る。

 いつまで経ってもやって来ない痛みに、恐る恐る目を開ければ。



「……、え?」



 最初に視界を埋め尽くしたのは、涼やかに染まる真っ黒な翼だった。



 ぱちぱちと、急いで瞬いてもう一度見上げれば、眼前で羽ばたいたのは黒いコートだと認識できた。

 長い髪を風に揺らし、凛然と佇む姿は、広々と花開く大輪を思わせる。堂々と咲き誇るその佇まいに、図らずも目を奪われた。

 先程まで続いていた不穏な音も、綺麗に鳴り止んでいた。戻った静寂が、火照ほてった体を徐々に冷やしていく。



 同時に、忘れていた痛みも思い出した。



 全身を切り裂かれる様な痛みが左肩に走り、たまらずうずくまる。


「い、……っ」

「……、見せなさい」

「っ、――!」


 ぐいっと、あろうことか傷を受けた左の方の腕を思いっきり引っ張られた。声にならない絶叫がほとばしる。

 しかし、そんなことには毛先ほども気付かない彼女は、構わずびりっと血にまみれたブレザーを中身のシャツごと裂く。その衝撃で、熱い鉄の棒を押し付けられた様な激しさが体中を駆け巡り、彼女から逃げ出そうと必死にもがいた。


「い、いたっ、痛い! やめろ! 殺す気か!」

「死なない。いいから、じっとして」


 なら、もう少し優しくしてくれ。


 そんな悲痛な願いは、しかし欠片かけらも届かず、彼女は信じられないことに傷口に指をわせた。

 ぎゃあ、っと恥も外聞もなく叫んで暴れるが、体は一向に前に進まない。思った以上に強い力に、彼女は女性ではないと失礼な考えまでよぎった。

 ぼたっと、大粒の汗があごを伝って流れ落ちる。

 痛みからか、恐怖からか。必死に気を紛らわそうと猫に手を伸ばした。

 にゃおん、と心配そうに寄ってくる猫達に、「味方はお前たちだけだ」と涙しながら、手荒い治療を受けていると。


「終わった」

「……、え」


 もうか、とひりひりする左肩に目をやって――仰天した。


「え、……あれ?」


 そろそろと、傷があっただろう箇所に右手を這わせる。

 だが、伝わってくるのは、ほのかな熱と滑らかな感触だけだ。想像していた生温い熱さや、でこぼこした跡はどこにも感じられない。

 そう。



 傷を受けたはずの左肩は、綺麗に塞がっていた。



 何も知らなければ、怪我をしたことすら気取られないだろう。ただ、服の無残な裂かれ方や、真っ赤に塗れた色だけが、凄惨さを物語っていた。

 いつかの夜の様に、夢見心地だ。

 呆然と彼女を見つめれば、淡泊な返事だけが差し出される。


「治癒力を促進させる魔法で治した」

「そく、……しん?」

「元々、人には怪我をしたら自然に治癒する力が備わってる。それを魔法で促進させて、素早く塞いだ」

「……、は」

「でも、あんまり使うと塞いだ箇所とそうじゃない箇所の不和が起こる可能性もあるし、治癒力も下がる。今度から怪我はしないで」


 説明と同時に注意された。

 振り返れば、確かに軽率な行動だったかもしれない。力の無い自分が、猫を守るためとはいえ、何の策もなく庇うなど。

 それでも動いたのは、助けたかったからだ。


〝大切に、そだてるね〟


 もう、二度と。



「……、何で、そんなに馬鹿なの」

「―――――」



 あんな――。



「……、ば、か?」



 前と同じ罵倒をされた。

 先程とは違う意味で呆ける自分に、彼女は容赦なく罵声を降らせてくる。


「たかが猫を助けるために、自分の命を投げ出すなんて。馬鹿以外の何者でもない」

「……」

「そんなに死にたいの。なら、次は助けない」


 淡々と突き放されて、リヴェルの頭が真っ白になった。ただ、ひたすらに彼女の今の言葉を耳に、脳に、胸に、流す。


 たかが、猫を助けるため。


 そうかもしれない。普通は、しないのかもしれない。

 あれだけ暴力的な力を見せつけられて、自分が死ぬかもしれない時に猫を庇うなんて、笑い者になるだけかもしれない。

 だけど。



 ――『たかが』。



「……っ」



 たかが、だなんて。

 そんな風に、言わないで欲しかった。



〝そんなに死にたいの〟



 ――死んだら、―――――――――。



「……っ」



 頭を振りかぶって唇を噛み締める。

 別に、そういうつもりでは、無かった。

 ただ、助けたかった。

 自分は、昔、命を殺したから。

 だから。


〝大切にするんだぞ。父だと思って!〟


 あの時、助けられなかった分。

 大切に可愛がっているこの子達だけでも。

 今度こそ――。


「……、ああ」


 漏れた声は、吐息よりも小さかった。

 そうだ。分かっている。

 助けられなかったから、今度こそ。

 そう思う自分の行為は、ただの。



「……、ただの、自己満足だよ」

「―――――」



 だから、馬鹿だ。



 笑いたくもないのに、笑みが口元から零れた。

 何故だろうか。

 誰に馬鹿にされるよりも、何よりも。

 己の命を助けてくれた彼女に馬鹿にされたことが。

 命を、『たかが』としか見てくれないことが。



 何よりも、こたえた。



 彼女が何か言いたげに口を開きかけたが、勢い良く立ち上がることでさえぎる。

 そのまま乱暴に裏庭を出て行こうとすると、向こう側から別の足音が聞こえてきた。ざくざくと、少し慌てた様な音に顔を上げ、目をみはる。



「……、え、エルスター?」

「おお、リヴェル。やはりここにいたのかね」



 現れた姿は見慣れた人物で、無意識に安堵が零れ落ちる。

 エルスターの方も顔を緩めたが、自分を確認した瞬間、さっと険しい顔に変じた。


「リヴェル、どうしたのだね、その傷は!」

「え? ……、あ」


 己の姿を振り返り、リヴェルは分かりやすく口を一文字に引き結ぶ。

 そういえば傷は治ったが、服は凄惨な傷跡を残したままだ。真っ白なブレザーに真っ赤な血の花は、さぞかし悪目立ちすることだろう。


「あ。いや、これは」

「なかなか次の授業に来ないから呼びにきたら、何だねこれは!」


 気遣う様に左腕を掴まれて、冷やりとした汗が背中を伝う。

 これだけ派手に損傷しているのに、傷が無いと確認されれば、確実に怪しまれる。

 どう言い訳しようかとぐるぐる頭を回転させていると、エルスターの視線が不意に後方に注がれた。

 ただでさえ険しかった目つきが、更に鋭く射抜く。放たれた気迫は、まるで刃の様に肌を深く貫いた。

 いつもと異なる彼の様子に、リヴェルの心が一瞬震え上がる。


「……魔女殿。これは、どういうことだね」

「え、エルスター?」

「事と場合によっては、ただですむとは……!」

「ち、違う! 彼女は、違う!」


 咄嗟とっさに否定すれば、エルスターが鋭い気迫のままこちらを振り返ってきた。

 あまりの形相に恐怖で息を呑めば、罰が悪そうに彼が引き下がる。


「……リヴェル、一度寄宿舎に戻るのだよ」

「……、え」

「まさか、そんな格好で授業を受けるわけにはいかないだろう。さらし者になりたいなら別だがね」


 真っ当な論理をぶつけられ、ぐうの音も出ない。

 大人しく従うしかないと項垂うなだれて、リヴェルは促されるまま歩くしかなかった。

 その際、彼女に別れを告げる気力もない。振り返ることすら億劫おっくうだ。



 ――ああ。助けてくれたお礼も、言えなかったな。



 小さな後悔が棘の様に心を刺し、リヴェルは混乱しきった頭をそのままに、友人の誘導に従う。

 だから、気付けなかった。

 自分の背中を押しながら、一度だけエルスターが後方を振り返り。



 殺す様な視線を、彼女に向けたことに。



 リヴェルは、気付くことが出来なかった。


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