第9話
「あー、やっと終わったわー。楽しい時間の始まりよー」
「もー、マリアちゃん。美人が台無しだよ。ほらほら、ネクタイ直すから起きて」
「んー、ありがと。クラリス、可愛いわー。私のお嫁さんにしてあげる」
「だーめ。わたし、もう相手は決めてるから」
「そうよねー。んー、振られちゃった。エルスター、慰めなさい」
「何で僕なのだよ……」
ぐでん、と机に寝そべるマリアに、甲斐甲斐しく世話を焼くクラリス。そんな二人に巻き込まれながら、エルスターが頬杖を突いて呆れていた。
午後の最後の授業も終わり、一気に空気が解放感に包まれる。緩み切ったざわざわとした音が、講堂全体に広がっていった。
この大学院は少し特殊なカリキュラムだ。一年生は全員、一般教養をひたすら習得することに費やされる。無事に試験を合格して進級が決まった時に、初めて好きな学部を選択するのだ。
そのため、十組に別れたクラスは、各々同じ授業を同じ時間に受けるため、自然と同クラスでの行動が多くなる。同じクラスのリヴェル達四人が固まるのも必然だった。
「ほら、マリアちゃん。できたよ! ネクタイもかわいく結べたし、ばっちり!」
「ふふ、ありがと。愛してるわー」
「もー、そんなこと言っても、ちゃんと一人で立ってね」
ぎゅーっとマリアが抱き付くのを、満更でもなさそうにクラリスがぽんぽんと背中を叩く。
彼女達は本当に仲が良い。見ていると、こちらも和むくらいに微笑ましかった。
「ほらほら、リヴェルー、早く行くわよー。さっさと息苦しい講堂から出たいわー」
「分かったよ。先に行っててくれ。準備するからさ」
広げたノートを確認しながら、リヴェルは精一杯微笑んだ。
自分ではいつも通りに振る舞っているつもりだったが、彼女達には当然筒抜けである。様子が違うことに気付いている彼女達は、無理に急かしては来ない。ひらっと手を振って、入口に向かって階段を下りていった。
授業は、終始ぼんやりしてしまった。
苦い顔をして、リヴェルはノートに視線を落とす。当たり前だが、紙面は真っ白だ。これは、後でエルスターに拝み倒して写さなければならない。
ぼんやりしていたのは、当然昼休みの裏庭での出来事のせいである。
――結局、あの青年は何者だったのだろう。
今思えば、あの時はひどく自分も錯乱していた。
いきなり襲撃され、怪我も負い、痛みに押し流されているところに罵倒され、勝手に落ち込んでステラとは別れてしまった。
青年も、成れの果て、というやつなのだろうか。
死んでしまったのか。生きているのか。分からないことだらけで、頭も心も全く晴れない。
しかも、怪我を治療してくれたお礼さえ言えなかった。
礼を欠いたという現実が、一層リヴェルの心を重くする。そのまま光の差さない海底にまで沈みそうだ。
「リヴェル」
「っ」
呼びかけられ、はっと顔を上げる。
完全に手が止まっていた。隣で待っていたらしいエルスターが、深々と嘆息する。その呼気が刺さる様に鋭くて、肩が跳ねた。
「授業も上の空だったね。ノートが真っ白だ」
「……、ああ」
「お前さん、それで黙ったまんまというのが、通用すると思うのかね」
「……、それは」
「怪我のことも。マリアやクラリスには言わなかったが、せめて言い訳くらいはして欲しいものだよ」
低く
ここまで怒りを露わにする彼は、見たことが無い。あの冤罪事件の時でさえ、もう少し怒鳴るなどして声に張りがあった。
だが、今では分かりやすい強さが全く無い。代わりに、底知れぬ暗い迫力がひしひしと伝わってきて、知らず縮こまってしまう。
裏庭から帰った後。寄宿舎では言うまでも無く、彼に強い不信感を与えてしまった。
傷の手当てをしようと、彼が有無を言わさず服を脱がした後、見たのはまるで傷跡の無い皮膚だったのだ。目を疑うのは当然だろう。
エルスターは何か言いたげではあったが、次の授業が始まる寸前だったので、移動することになった。無論、講堂に着くまでの間は一言も交わさなかった。
自分達の様子が異様なことは、彼女達も感付いただろう。それでも何も言わず、笑って迎えてくれたことにリヴェルは心の底から泣きたくなった。
しかし、どうすれば良いと言うのか。
どこまで話せば良いのか。そもそも、何を打ち明ければ良いのか。
まとめようにも、自分自身が一番困惑している。分からないことだらけで、むしろ教えて欲しいくらいだ。
だが、そんなことはエルスター達の方こそ主張したいだろう。黙ったままでは、判断する材料など
それでも、分からない。
〝たかが猫を助けるために、自分の命を投げ出すなんて。馬鹿以外の何者でもない〟
自分は、一体。
何に傷付いて、何にそこまで落ち込んでいるのか。
分かりそうなのに、全然悟れなかった。
「……、でも」
「でもも何も無いのだよ。お前さん、いい加減に――」
「もー、あの教授、面倒なことばっかり押し付けるんだからー。やんなっちゃうわ」
エルスターの声に
何事かと教壇の方を眺めると、彼女とクラリス、そして別の女子達が憂鬱そうに紙の束や天球儀、その他よく分からない道具を抱えている。今回の天文学の授業で使用した道具と資料である。
しかし、何故彼女達が教授の授業道具を抱えているのだろう。手早く荷物を片付け、早足で近付いた。
「どうしたんだ?」
「あ、リヴェル君。あのね、教授、これから会議だから、この道具全部戻しておいてって」
「もー、普通か弱い女性にそんなこと頼むかしらー。リヴェルからも何とか言ってやりなさいよねー」
「いや、もういないぞ?」
「遅いからよー。今日は毛虫みたいにゆったりねー」
「け、毛虫……」
ぶーぶーと文句を垂れるマリアは、それでも律儀に道具を運ぶ様だ。クラリスも重そうな天球儀を抱えて、よろよろと足取りが
流石に見かねて、ひょいっとリヴェルは天球儀を奪った。結構な重さが腕にのしかかり、奪って正解だと頷く。
「り、リヴェル君?」
「俺が持って行くよ。マリアも、それから君たちも。道具を貸してくれ」
「え。まさか、一人で持って行くつもり? いいわよ、私も」
「いや、僕が行こう。みんなは、先に行っていてくれたまえ」
マリアの道具を奪い、エルスターが華麗に歩き出す。さっさと講堂を出て行く彼に、リヴェルも慌てて別の女性達が持つ資料を受け取った。
「じゃあ、また後でな」
「あ、あの。ありがとうございます」
「ありがとう、リヴェル君」
「いいさ。力仕事は男に任せてくれ」
言うが早いが、リヴェルはエルスターを追いかけた。何となく、彼の背中が無言でついてこいと命令している様で、
マリアやクラリスの視線が追いかけてきたが、リヴェルは振り切って走った。エルスターはゆっくり歩いてくれていたらしく、すぐに追い付く。
「エルスター」
「それで? 魔女殿と、何をしていたのだね」
問答無用の切り口に、袋小路に放り込まれたのだと悟る。二人になったのは計算だった様だ。
――しかし、どこまで話したものか。
前に、全ては話さなくて良いのだと彼は優しさを見せたが、今回はあまり通用しない気がした。これだけ近くにいるのに、境界線でも張られたかの様に、彼が遠い。
切り出し方に迷っていると、エルスターが硬く問いを放り投げてきた。
「最初に何を話していたかね」
最初。
導かれる様に、裏庭の出来事を
最初は、猫と
ゆったりと心をほぐしていたところに、彼女が突然姿を現し。
そして。
「えっと、……猫が金魚を食べないことを確かめていた」
「……」
一瞬、エルスターの空気が固まった。
その後、たっぷりと一分沈黙を保った後。
「……そんなことは聞いていないのだよ!」
「え、エルスターが、最初はって言ったんだろ! だから、最初は何してたか思い出してたんだよ!」
「だからって、猫が金魚、……お前さんたちのコミュニケーションは、本当に理解に苦しむのだよっ」
両手が塞がっていなければ、がしがしと乱暴に頭を
「……、それで?」
「それで、食べないことを確認して、俺は猫と会話できるのか、すごーいって話してたんだよ」
「何だね、その頭の悪そうな会話は!」
「頭が悪そうで申し訳なかったな! でも、事実だ! 彼女、俺が本気で猫と会話できるって驚いてたんだからな!」
売り言葉に買い言葉の如く、怒鳴り合いが続く。
先程の委縮した空気が嘘の様に弾け飛んでいたことに、リヴェルは気付かない。気付かないまま、話はぽんぽんと
「それで?」
「猫と会話できるわけじゃないって言ったら、意味が分からないって言われた」
「……、それで?」
「猫を撫でてみたらどうだって言ったのに、撫でなかった」
「……、……それで?」
「金魚の調子はどうかと聞いたら、分からないって断言された」
「……、……………」
少しずつ思い出してきたら、話の噛み合わなさにおかしくなった。気持ちは
上ったり下ったり忙しい心に、また黙り込んでしまった。
一番分からないのは、自分の気持ちだ。それを思い出して、視線が知らず床に落ちる。
「……それで?」
更に、静かに重ねられる。
彼は沈黙を許さない。尋問みたいだと、妙に心がささくれ立った。
どうして、誰も彼もそっとしておいてくれない。一人安らかに整理したいのに、次から次へと心を荒らされて、自分を保つのが難しくなる。
「まるで尋問だな」
「ああ、尋問なのだよ」
「っ」
肯定されて、かっと頭に血が上る。
だが、爆発したのは彼の方が早かった。
「尋問したくもなるのだよ! 裏庭でお前さんを見つけた時、僕がどんな気持ちだったか分かるかねっ!」
「―――――」
低く、強く、
いつもは明るい翡翠の瞳が、怒りに燃えて薄暗くなっていた。
うっすらと透明な膜が張られているのが見えて、急激にリヴェルの頭が冷える。
「血塗れだし、酷い顔をしているし、生きた心地がしなかったのだよっ。友人が血塗れになっていたら誰だって驚くし、心配になるだろう。どうしてそれが分からないのかね!」
どん、と胸を押された気がした。実際はお互いに両手が塞がっているのだから、手が出るはずもない。
だが、確かにリヴェルは胸を叩かれる音を聞いた。響く様に、体の中心が揺れ動く。
ああ、そうか。
彼は、心配してくれていたのか。
簡単な答えを思い知り、喉が震えた。目の奥が熱くなって滲みそうになったが、ここで泣けない。つん、と鼻の奥が痛くなったのにも気付かないフリをした。
自分を、案じてくれる人がいる。
それは、何と心強いことだろうか。
心の底に深く
「……、ごめん」
「謝るくらいなら、心配させないでくれたまえ」
「ごめん」
頷くことは出来なかった。
だから、謝罪しか口にしなかったのだが、正しく彼には伝わったらしい。恨めしげに睨み付けてきたが、すぐに折れてくれた。
「……まったく。ちゃんと話せるところまで話せたら許すのだよ」
彼は、また譲歩してくれる。
自分ばかり不誠実で申し訳なくなったが、それでもまだ、全てを話す勇気は出ない。
〝言っても誰も信じない〟
彼女が、断言した様に。
彼に、冗談に取られたら。ましてや噓吐きと思われたらと、考えただけで恐ろしかった。
「さて、怪我のことだがね」
「っ」
噓吐きにされるのが一番怖い部分に触れてきた。どうあっても逃がしはしないらしい。
ばくばくと、心臓が忙しなく脈打つ。隣にいる彼にも聞こえているのではないかと心配したが、どうせ表情から余すことなく読み取られているだろう。
観念して、経緯を
「……ステラと、金魚や猫と戯れていたら、突然知らない青年が、来て」
「ふむ。そういえば、その辺に転がっていたね」
さらっと受け入れられた。
彼はあの時、かなり激怒していた様に見えたが、観察眼は鋭かったらしい。いつでも冷静になれる彼を秘かに尊敬する。
「その後は、よく、分からなくて。いきなりステラや俺に襲い掛かってきて、最終的には彼女が撃退した」
「で? その時に怪我を負ったと?」
「ああ、……」
言葉が続かない。
ならば、その血塗れの箇所の傷はどうしたという話だ。
しかし、信じられるだろうか。彼女が、魔法で怪我を治してくれたのだと。
嘘の様な真実だが、そもそも百年前から姿を消した魔法使いの存在を、エルスターが受け入れてくれるだろうか。
ちらりと視線を上げれば、彼は真っ直ぐにこちらを見据えてきていた。いつの間にか足も止まっている。
空間には、二人。遠くに学生達の賑やかな声が聞こえるが、ここに来る気配はまるで無かった。
尚も逸らさずに自分を見つめる翡翠の双眸は、とても穏やかだ。それがかえって彼の誠実さを表していて、リヴェルは何も言えなくなる。
嘘は吐けない。
それなら、真実を話すしかない。
だが、それは同時に彼女を魔法使いだと暴露することにもなる。
彼女は構わないと話していたが、受け入れられないことが前提だし、そもそも秘密を明かすことにも
己の保身も混じって、声が喉の奥で絡まって苦しい。
「……まったく」
だんだん下がっていく視線を、溜息で飛ばされた。
今度こそ突き放されるだろうか。
心と共に視界も暗くなっていく中で、耳を疑う言葉が彼の口から吐き出された。
「お前さん、魔法使いに会ったことはあるかね」
「―――――」
がばっと、弾かれる様に顔を上げる。
しまったと思った時にはもう遅い。エルスターの、してやったりという勝ち誇った笑みにまた視線が下がった。
これでは、白状したのと同じだ。
しかし、つい最前までとは別の意味で苦しくもなった。
「……、エルスター。君、魔法使いに会ったことは」
「あるのだよ」
あるのか。
いや、当然だろう。そうでなければ、彼の口から魔法使いなどという単語は出てこない。
「そもそも、僕は国王の甥なのだよ。王族は、代々魔法使いとは盟友。知らないわけがないのだよ」
「……、あ」
種明かしをされて、間の抜けた声が漏れる。
そうだ。歴史上でも、魔法使いは盟友である王に力を貸すために戦に参加していた。百年前の話であったとしても、今だって彼らの関係は続いているかもしれない。
ならば、王族のエルスターが魔法使いを知っていてもおかしくはないだろう。
真相を暴露され、脱力してしまった。同時に、己の可愛さ故の愚行に愛想を尽かしてしまう。
「……、ごめん」
「その怪我を負ったのも、治ったのも、魔法だね?」
「……」
「まただんまりかね。義理堅いというか」
「違う」
義理ではない。単純に、保身だ。
「噓吐き呼ばわりされるのが、恐かったんだ。……俺が、最低なんだ」
「……、ふむ」
何やら考え込み始めたエルスターに、どうしても真正面から向き合えない。
自分はこんなに不誠実な人間だったのかと、思い知らされて失望した。彼も、同じだろう。
早く、立ち去ってしまいたい。
だが、彼に何らかでも引導を渡されなければ駄目だという気持ちもせめぎ合い、縫い付けられた様に足を動かせないでいると。
「なあ、リヴェルよ」
「はい」
呼びかけられて、思わず敬語になる。
少しだけ空気が笑った気がしたが、顔を上げられない。
すると、今度は呆れた様な溜息の後。
「……お前さん。もし僕が魔法使いだったなら、どうするかね」
「――――――――」
思ってもみない質問に、二人を取り巻く空気が綺麗に停止した。
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