第7話
「よーし、見てろよ、リヴェル! お父さん、張り切っちゃうからな!」
幼い頃、リヴェルは一度だけ、両親と二人で近くの街のお祭りに出かけたことがあった。
その日は東の国の祭りを真似たものなのだと、父が得意気に教えてくれた。確かに祝賀祭とは違うなと、リヴェルも興奮したのを覚えている。
わたあめにパスタ、フランクフルトにボルシチなど、東西南北の国の料理がまとまりなく集まった屋台を渡り歩いた後、輪投げをしたり、射撃をしたりと、十二分に祭りを楽しんだ。
その度に、父が手本を見せてくれたり、情けない姿を晒したりと、大変忙しかったが、母と一緒に尊敬したり笑ったり、楽しい時間を過ごしたものだ。
そして。
最後に寄ったのは、金魚すくいが出来るお店だった。
和紙という紙で貼られた円形のプラスチックの
頼りない薄っぺらな紙で、本当に金魚が掬えるのだろうかと思いつつ挑んでみれば、やっぱりすぐに紙は破れた。店員に「残念だったなー、ぼーず」と笑われ、すぐに諦めてしまった。
だが、父は違ったらしい。
よーし、と腕まくりをして、得意気にポイを構えて見せた。
「狙うは……あの金魚だ!」
びしーっと力強く人差し指を突き付け、獲物を狙う肉食獣の如き眼差しを一匹の金魚に注ぐ。異様な視線に気付いたのか、狙われた金魚が、びくーっと跳ねた。様な気がした。
狙いを定め、そっとポイを水に浸して父は根気強く待った。それはもう、他の者達が息を呑むほどの集中力で、リヴェルも母も固唾を呑んで見守った。
そう。
十分、二十分と、「お前まだかよ」と突っ込みたくなるほど長い時間、待った。
そうして、三十分ほど経過した頃。
遂に、時は来た。
狙いの金魚が、もう三十分も過ぎて怯えを忘れたのか、優雅にすいすいとポイの真上をすり抜けようとし――。
「……はああああああああっ!」
父の奇声と共に、ポイが素早く、確実に金魚を捉えて動いた。そのまま、ぽいっと構えていたカップに金魚を放り投げる。
ぱしゃっと、金魚は見事カップに収まった。思わず、おおっと周りが歓声を上げてしまうほどの粘り勝ちだった。
「よし、見たか、リヴェル! 取ったぞ!」
どうだどうだ、と誇らしげに父がリヴェルにカップを見せてくる。狭いカップの中でゆったりする金魚の目は、まるで「やっちまった」と遠くを見ている気がしたが、気付かないフリをした。
自分よりも子供らしくはしゃぐ父に呆れながらも、嬉しそうな姿につられ、幸せにもなった。
父は、一週間に必ず三回は会いに家を訪ねてくる。
本妻は、もう早くに亡くなっている。
だが、それでも世間体というものは付き纏うものだ。祖父母の猛反対を押し切って来ていることを知っていたからこそ、父と笑えるこの時間が、何よりも大切だった。
「父さん、すごいね」
「そうだろう、そうだろう! 大切にするんだぞ。父だと思って!」
「え。金魚は金魚だろ」
「がーん!」
そのまま、盛大なる影を背負って地面にめり込む父に、母が「あらあら」と面白そうに笑っていた。母の父に対する扱いはぞんざいだが、それも彼らのコミュニケーションだと知っている。仲が良いと、子供ながらに心がほんのり満たされていた。
普段は家にいない、父。
その父がくれた、金魚。
――大切にしよう。
店員が笑いを噛み殺しながら金魚の入った袋を渡してくれた時に、リヴェルは更に地面を掘って埋まる父の肩を叩いた。
「ありがとう、父さん」
「……、リヴェル」
「大切に、そだてるね」
「……っ!」
精一杯感謝を伝えれば、「りヴぇるうー!」っと叫んで抱き付かれた。首が締まって苦しくて、母に笑顔で拳骨を落とされていたのが、懐かしい。
ああ、そうだ。あの頃が、きっと最高に幸せな日々だった。
なのに。
あの後、金魚が死んでしまった。
自分は、大切に育てることが出来なかった。
だから。
その直後。
「あんたの父は死んだよ」
父が、死んだ。
祖母だと告げてくる人から、一方的に宣告された。
父からもらった金魚が、死んだ。
自分が、殺した。
だから、父も死んだ。
ああ。
だから。
「命を粗末にする子、愛する価値もないわ」
母も、自分を憎んだのだ。
「お前たち、今日も元気だなあ」
足元でじゃれつく猫達に笑いながら、リヴェルは裏庭でゆったりしたひとときを過ごしていた。
午前の授業を終え、昼食を友人と共に食べた後、リヴェルは裏庭に足を運んだ。
自分の足音を聞き分けたのだろう。瞬く間に猫達が顔を出し、足元に寄り添ってきた。草むらに座り込み、彼らとのんびり、降り注ぐ陽光を浴びる。
何となく、一人になりたかった。
今朝の夢見が悪かったせいだろうか。
あまり、誰かと話す気分にはなれなかった。友人も自分の様子には敏感な方だし、多くの時間を過ごすと十中八九気付かれる。
また、一人で抱え込むなと怒られそうだが、まだあの頃の話を打ち明ける気にはなれない。話した時の反応が恐いというよりは、己の傷の深さを忘れたくないという気持ちが強かった。
金魚が死んで、父が死んだ。
別に、金魚が死んだせいで父が亡くなったわけではない。そんなこと、成長した自分も
だが、理屈ではない。
父だと思って大切に育てた金魚は、間違った育て方をしたせいで、死んでしまった。
直後に父が死に。
その件で母に罵倒され、そのまま別れることになった。
〝母さん。まって、母さん〟
泣きながら懸命に伸ばした手は、だが、鋭い一撃と共に母に払いのけられ、それっきり。その背中は、振り返ってくることすらなかった。
〝ねえ、母さん……っ〟
祖母に手を引かれながら、幼いリヴェルは
けれど、願いが届くことはついぞ訪れなかった。
震えながら遠ざかる背中は、今でも鮮明に瞳の裏に焼き付いている。
〝愛する価値もないわ〟
金魚の死に心が沈み、父の死に深く刺された後。母の鋭く冷たい刃が、深々とトドメと言わんばかりに突き刺さった。
リヴェルにとっては、それが全てだ。
お祭りでの幸せな光景も鮮やかに思い出せるのに、それ以上の暴力で、両親との別れはそれまでの幸福な色を塗り変えていった。
しかし、それをまた新たに上書きしたいわけではない。
――あなたのせいじゃない。
一言でも、そんな風に言われてしまったら、自分はきっと相手を許せなくなるだろう。
相手は悪くないのに。気休めではなく本心であっても、慰める様な言葉は一切聞きたくなかった。
我ながら
けれど、両親との優しい想い出も、金魚の死も、告げられた父の死も、あの日の残酷な母との別れも、自分にとっては等しく大切な宝で、何にも代えがたい幸福の証だ。
それを上書きして、無かったことになど、されたくはない。
例え、誰であろうと。許さない。
「……幸福、か」
あれだけの傷を、幸福と言ってのけるその神経。
理由は何か。
そんなことは、一番自分が――。
「……、ん? こらこら、くすぐったいぞ」
ぴょん、っと一匹が懐に飛び込んできて、すりすりと頬に顔を寄せてくる。
慰めてくれているのだろうか。動物は、人の心の動きに敏感だと言う。元気づけようとするその行為に泣きたくなったが、大人しく受け入れた。
言葉はいらない。
そうだ。もし、自分が欲しいとすれば。
ただ、傍で――。
「……、ん?」
不意に、猫達が一斉に同じ方角へ振り返る。
何だか前にもこんなことがあったな、と過去を辿り、すぐに思い至った。何と分かりやすい予知だろうか。
渋々、リヴェルが猫達の目線を追いかければ。
――
光の中に翻る真っ黒なコートの女性は、真っ直ぐに自分を見つめていた。相変わらず、降り注ぐ光という光を弾きながら飛沫を上げる姿は眩しく、目も心も奪われていく。
だが。
凛と佇みながら、右手に大き目の水槽を軽々と抱えているその姿。
彼女の
「ステラ、……こんにちは」
「こんにちは」
淡々とした挨拶を返し、黒い女性――ステラは、さくさくと規則正しく草むらを踏みしめて猫の前に仁王立ちした。猫達がふーっと唸りながらリヴェルの前に並ぶのを興味なさ気に眺め、約二秒。
何故か、おもむろに水槽を彼らの目の前に置いた。
そのまま膝を付いて、ステラはじっと猫を観察する。リヴェルも何事かと彼女を凝視した。
猫達は、無言。金魚ものんびりと、大きな水槽の中で気持ち良さそうに泳いでいる。
さらさらと温かな日差しが自分達を包み込み、沈黙が困った様にたゆたう。
ステラと、リヴェルと、猫が三者三様にどれだけ睨み合っただろうか。数秒のことかもしれなかったが、リヴェルにとっては日が暮れそうなほど長くて気まずい時間だった。
やがて、ステラは「うん」と一つ頷き。
「猫、食べない」
ぽつりと、短く呟いた。
はあ、とリヴェルが曖昧に同意すると、ステラは感心した様に何度も首を縦に振り。
「あなたが、猫たちに注意したから?」
「は?」
何の話だ、と眉を
「あなた、本当に猫と喋れるの?」
「は?」
「だって、猫は金魚を食べるって聞いたのに、食べないから」
「……、ああ」
なるほど、餌の話か。
合点がいって、肩の力が抜ける。彼女の突拍子もない行動は、この前の話の真偽を確かめたというわけだ。
裏を返せば、金魚を危険に
「君、猫が金魚を食べたらどうするつもりだったんだ」
「大丈夫。動く前に殴った」
「……」
開いた口が塞がらない。
そういう問題ではないと額を押さえたが、どう説明すれば伝わるのか見当も付かない。馬鹿と言われたら相手は傷付くという、子供でも分かりそうな論法が通じないのだ。口が開いたまま無言になるのも仕方がない。
だが、こちらの困惑など知ったことではないと言わんばかりに、彼女の言葉は続く。
「あなた、すごい」
今度は、何だ。
唐突過ぎる賛辞に、思考回路が麻痺する。
「……、えっと、何が?」
「猫と会話はできないって思ってた。でも、あなたは会話ができる。だから、すごい」
「―――――」
いきなり手放しに褒められて、また心が掻き乱された。
何だ、これは。
思いながら彼女を見れば、真っ直ぐに漆黒の視線が自分を貫いてきた。
澄み切った黒い瞳は、どことなしか輝いている様にも映る。もしかしなくとも、これは尊敬の眼差しというやつを向けられているということだろうか。
表情は、全くといって良いほど微動だにしていない。
それなのに、瞳だけは微笑う様に澄んでいた。きらきらと、少女の様にあどけなく。
気付いた途端。
「……っ」
かあっと、訳も無く熱が頬に集まる。
ばっと視線を外したが、変に思われないかと冷や冷やした。
「い、いや、俺も別に会話ができるわけじゃないぞ?」
「でも、猫はあなたの言うことを聞いている」
「それは、……うーん。何て言えばいいのかな。この前も言ったけど、動物って人の心の動きに敏感なんだよ。だから、ある程度こうしたらいいって分かるのかもな」
未だ彼女を見上げて警戒する猫を、
すりっと体を寄せてくる彼らに頬を緩ませれば、彼女はこてんと首を傾げた。その際に、さらっと滑らかな黒い髪が舞う様に流れて、少しだけ鼓動が跳ねる。
「よく、分からない」
「……、うん。俺もよく分からないな」
「それじゃあ、ますます分からない」
「あはは。うーん、ステラも猫を撫でてみれば、少しは分かるかもしれないぞ?」
ほら、と猫を前に押し出せば、ステラは全く意味が分からないと全身で物語っていた。じっと穴が開くほどに猫達を見つめ、手を伸ばしはしない。
猫も彼女を見上げて石像の様に動かなくなってしまった。両者の和解の日は遠いな、と苦笑する。
「というかさ。ステラって魔法使いなんだろ?」
「うん、そう」
「じゃあさ、魔法か何かで猫とかと会話って出来たりしないのか?」
素朴な疑問だったので、不意にぶつけてみた。
考えてみれば、魔法で水槽を出したり、あの夜は色々攻撃的な魔法を繰り出していたのだ。ならば、猫と会話をする魔法があってもおかしくない。
そう、思ったのだが。
「できない」
簡潔に否定された。
あまりに迷いなく断言されたので、リヴェルは即座に反応出来なかった。「そ、そうか」と間の抜けた返事をしてしまう。
「魔法は、万能じゃない」
だが、話は終わっていなかった様だ。続きがあるらしい。
「魔法は、
「えーと、無から有には出来ないとか、そういうことか?」
「そう」
「……じゃあ、この前はどうやって水槽を出したんだ?」
「水槽は、無から作り出した産物じゃない。材料があり、そして全て元素が元になっている」
「……、ああ、まあ」
専門的な話になってきたのだろうか。
だとしたら、お手上げだ。あまり難しい話だと、リヴェルも理解が及ばない。
が。
「魔法は、そこら辺に
「は、あ」
いきなり簡単になった。
先程までは難解な臭いがぷんぷんしていたのに、この落差は一体。肩透かしを食らった気分だ。何となく、馬鹿っぽい説明になるエルスターを思い出す。
しかし、簡単な方がリヴェルとしてもありがたい。故に、黙っておくことにした。
「でもさ。えーと、元素? を使ったら、自然界のバランスとか何かが崩れたりなんかはしないのか? よく分からないけど」
「大丈夫。使うのは、極々微量だから」
「はあ」
「それを、自分が持つ魔力を
「……、そ、そうなのか」
「魔力が続く限り、元素が増やせる。それが魔法」
「……、へえ」
そうツッコミたかったが、言ったところでステラは否定しそうだ。それ故、こちらも黙っておくことにした。
取り敢えず、魔法は万能ではない。主に、元素など元になるもので色々作り、出す。
図らずも魔法使いの歴史に直に触れ、嬉しい様な、好奇心がくすぐられる様な、踏み込んでしまった様な、複雑な気分になった。
そう。
――これ以上、踏み込んで良いのか。
胸の内から、問いかける声が聞こえてくる。
耳を塞ぐ様に目を伏せ、「あー」と無理矢理リヴェルは声を出した。無駄な抵抗だと知りながら、意識を別の方角へ逸らしたかった。
「そういえばさ、水槽の話が出たけど。金魚の調子はどうだ?」
「分からない」
「……、うん。ステラらしいな」
清々しいほどに即答だ。
出会ってほんの数回なのに、彼女の物言いに慣れてきている自分がいた。未だに予測不能な方向へ話が転がるが、それも彼女らしいと納得してしまう。
「餌、与えすぎたりしてないか?」
「大丈夫。回数も、言われた通り二回くらいにしている」
「そっか。なら、安心だ。ちゃんと食べきってるんだろ?」
「うん。食べきれなかった時は、水を
思ったよりも、こまめに世話をしている様だ。
最初はどうなるかとはらはらしたが、意外にも手は抜かない性質らしい。話を聞いて胸を撫で下ろした。
「良かった。金魚、大事にしてくれてるんだな」
「……大事」
「えーっと、ちゃんと面倒見てくれてるってことだ」
「うん。気持ちを知りたいから」
気持ちを知りたい。
金魚を飼う時にも口にしていたが、本気だったのか。
別に、金魚を飼ったらリヴェルの心が分かるわけではないと思うのだが、何故かそれを修正する気にはなれなかった。
彼女と過ごす時間を欲しているのだろうか。腹も立つし、振り回されるし、特に良い雰囲気ではない気がするのに。
それに、彼女と共にいるということは。
〝――死ぬのは、恐い?〟
あの夜の出来事に、踏み込むということだ。
結局、先程の問いかけが戻ってきた。本気で無駄な抵抗になってしまい、頭を抱えたくなる。
――黙っていれば良い。
何もわざわざ、自ら危険に飛び込む必要はない。あの塊だって、夜の暗さではっきりと認識したわけではないし、何故か消えてしまった。全て夢の出来事にすれば、何も知らなかった日常に戻れる。
それが、安全だ。賢い道だ。選べば良い。彼女との時間を捨て、背を向ければ戻れる。
なのに。
「……ステラ」
口は、勝手に動く。意思に反して、前に進む。
否。
「聞いても、いいか?」
――求めて、いるのだろうか。
それは、好奇心か。
それとも。
――死んだら、―――――――――。
「……っ」
脳裏にちらついた言葉は、目を閉じて封印する。今、思い出したら止まれない気がした。
だが、どちらにせよ自滅を導く地雷だというのに、それでも進まずにはいられない。
「あの夜の、こと。……聞いても、良いか」
声は震えてはいないだろうか。
己の小心さが滲み出ていないか不安になった。臆病者と鼻で笑われたりしたら、なけなしのプライドでも傷付く。
だが、当然と言うべきか、彼女の表情はまるで無反応だった。いちいち彼女の言動で一喜一憂している自分が、馬鹿らしくなってくる。
「あ、外部に漏らしたらまずいなら、何も聞かないぞ!」
「別に。言っても誰も信じない」
そうだろうな。
妙に説得力があって、何とも言えない顔になる。
なら、自分なら話しても大丈夫なのかと一瞬高揚したが、非現実的な場面を目撃したのだから、今更ということを思い知って落ち込んだ。
――何なんだ、一体。
自分の心の移り変わりが謎めきすぎていて、聞く前から疲れ果てていると。
「何が聞きたいの」
静かに問われる。
彼女にとって、あの日の出来事は、特に隠し立てする必要はないらしい。
ならば、と。迷ってから、リヴェルは踏み込むために質問を切り出した。
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