Episode4 歩き出した命

第26話


 薄暗い空間の中を、リヴェルはひたすら歩き続けていた。

 ここ数日、眠りに就いてから必ず来てしまう空間だ。見慣れた薄闇に、自然と視線が下がっていく。



 ――ああ、またか。



 思って、この先に待ち構える悪夢に憂鬱になる。恐怖で足が情けないほど震え、恥も外聞もかなぐり捨ててうずくまりたかった。

 この先に行きたくない。

 眠りから覚めるのを待ち続けていたい。


 もう、――何も見たくない。


 それなのに、気持ちに反して足は何故か止まらなかった。己の意思を無視する様にひたすら足を動かし続ける。


 ――いや、違うな。


 ゆるりと否定し、リヴェルは知らず自嘲した。

 本当は分かっている。何と浅はかなと思いながらも、走る心は止まらない。



 ――この先を。何も見えない暗闇を、どうか一筋の光で裂いてくれないか。



 そう、強く願ってしまう。


 何て馬鹿なのだろうか。


 この先で、何度も底の見えない闇へと突き落とされているのにまだ願うのか。諦めの悪さに、自分で自分を踏み付けたくなる。

 失望しながら、それでも愚かな心は歩みを止めない。

 だから、また絶望を繰り返す。とうとう視界の隅に、一人の見慣れた影が入り込んできた。


 ――ああ、同じだ。


 散々繰り返されてきた始まりに、絶望が笑って背中を押した。


「……、エルスター?」


 声がみっともなくかすれる。背後からじわじわと纏わり付く黒い影に、頭を振って引き返したくなった。

 それなのに、体は思う様に動かない。口も、己の意志を無視して言葉を紡ぎ始めた。


「こんなところにいたのか。探したぞ」


 ――嫌だ。やめろっ。


 勝手に動く口に悲鳴を上げているのに、リヴェルの顔は無理矢理笑う。

 エルスターも、遂にこちらの声に気付いて振り返ってきてしまった。リヴェル、と声はしないのに、何故か唇がそう動いたのだけは分かる。

 そして、彼が近付こうとした、その瞬間。



「―――――っ! 嫌だっ!」



 ようやっと自由になった口が絶叫すると同時に。



 ぼんっと。彼は、盛大に目の前で爆発した。



 びちゃっと、真っ向からまともに不吉な液体を浴びる。真っ白なブレザーは瞬く間に赤く染まり、ところどころに肉片が斑の模様を作って服を彩った。

 彼がいた場所にはもう、何もない。ただ水たまりの様な真っ赤な液体と、千切れ飛んだ服の破片だけが、かつて彼がそこにいたのだと辛うじて教えてくれた。


「あ、ああ……っ。え、る……いや、だ」


 ずるりと足を引きずり、リヴェルは否定する様に頭を振る。

 だが、手を伸ばしても答えはない。

 ただむごたらしい残骸だけが、自分の悲鳴をせせら笑って突き飛ばした。


「……、ど、……ぐ……っ」


 目の前の惨劇を否定しながら口元を押さえ、救いを求める様に瞳が別の影を探す。


「マリア、は。クラ、リス、は」


 そろっと視界をゆっくり動かせば、彼女達はいつの間にか少し離れた場所にいた。仲良く寄り添う様に座って、楽しそうに話しながら微笑んでいる。


 マリア、クラリス。


 名を呼ぼうとして、しかし止まる。

 視界の中で、ひらりと黒い影が鮮烈にひるがえった。


「――、す……」


 はくっと、酸素を求める様にあえぐ。

 いつの間に現れたのか。マリアやクラリスのすぐ傍には、真っ黒なコートをはためかせ、凛と背筋を伸ばす一人の女性が佇んでいた。

 舞い降りる様に羽ばたく黒い翼は、いつもリヴェルが強く焦がれた姿だ。

 なのに。


「……ステラ……」


 その名を呼んだ瞬間。



 ごろん、と。唐突に、マリアとクラリスが目の前で転がった。



「……っ、ひ……っ!」



 ステラの足元で、崩れ落ちた二人が揃ってリヴェルの方へと顔を向ける。

 エルスターと違って人の形をしているが、彼女達の瞳に既に生気は無かった。瞬きをすることも無いまま、ただがらんどうなガラス球の様にこちらをじっと見つめてくる。

 口元から零れ伝う真っ赤な筋は、彼女達がもう生きていないと如実に物語っていた。唇も半開きのまま泡を吹き、二人の綺麗な顔が見る影もない。


「……、ど、して」


 どうして、彼女達が死んでいるのか。

 どうして、彼女達の傍にステラがいるのか。

 分からないまま、リヴェルは一歩を踏み出した。ふらりと、導かれる様に彼女の方へと距離を詰めていく。

 だが。



「――ごめんなさい」



 謝罪だけを残し、ステラはあっという間に身を翻した。決して早くはないはずなのに、乱れぬ足音は綺麗な影を引いて瞬く間に遠ざかっていく。


「……っ、まっ、て。……待ってくれ!」


 がくがくと震える足を叱咤しったしながら、リヴェルは彼女を追いかけた。途中で何度も足同士を引っ掛けて転んでしまったが、その度に起き上がって必死に彼女の足跡を追う。

 なのに、全く縮まらない。彼女との距離は開いていくばかりで、背中も徐々に、だが確実に小さくなっていく。


「どうして! ステラ、頼む! 止まってくれ! ステラ!」


 追いかけて、追いかけて。

 けれど、結局追い付けないまま。


「――ステラ……っ!」


 闇よりも濃い影の向こうへと霧の様に消えていく彼女を、リヴェルは絶望の中で見送った。







「――リヴェル!」

「―――――っ」


 鋭く名前を呼ばれ、リヴェルは一気に覚醒した。は、と荒く息を吐いて、思わず手を伸ばす。


「すて、ら!」

「リヴェル! しっかりしたまえ! ここはお前さんの部屋だ!」

「――っ」


 荒々しく指摘され、リヴェルは手を伸ばしたまま固まった。

 どくどくと、心臓が飛び跳ねる様にうるさい。耳元で乱打する鼓動が、まるで追いかけてくる様な恐怖を覚え、喘ぐ様に酸素を求めた。


「は……っ」

「目が、覚めたかね。うなされていたので、起こしたのだよ」

「……ゆ、め……」


 聞こえてきた穏やかな声に、暴れ回っていた鼓動が少しずつ落ち着きを取り戻していく。

 はあっと深く息を吐き出し、手を下ろす。何度か瞬きをしてから、ゆったりと周りに意識を向けた。

 視界に映るのは、あの薄暗い残酷な空間ではない。

 染み一つ無い白い天井に、少し視線をずらせば自分やエルスターがいつも使っている勉強机が目に入ってきた。壁際には、二人で共有している木製のクローゼットと本棚が、綺麗に並んでいる。


 そして最後に緩々と隣を見れば、険しい顔をして自分を見下ろすエルスターが佇んでいた。


「――君、……」


 眉間にしわを寄せて、美形が台無しだ。

 そう茶化したかったのに、声が出ない。

 真剣に見下ろしてくる彼の翡翠の瞳は、揺れていた。心配してくれているのが痛いほど伝わってきて、喉が情けなく鳴る。


「……、エルスター」


 声に出して、ホッとしたのもつかの間。



 目の前で、彼の顔があっという間に崩れ落ちていった。



「――っ! エ……っ!」


 すぐに影がぶれ、エルスターは元の形を結び取ったが、恐怖はまるで消えない。悪夢の続きに突き動かされ、リヴェルはあえぐ様に喉を掻きむしった。


「リヴェル? どうしたのだね。顔色が」

「……っ! エル、スター……!」


 声に誘われ、勢い良く彼の腕を掴んだ。彼が驚いた様に目を見開いたが、気にしてなどいられない。

 急いで掴んだ手の平からは、彼の腕の感触がしっかり感じられた。

 ぎゅっと握っても、先程の様に崩れることはない。静かに、熱がじんわりと手の平に広がっていった。

 そうだ。エルスターは、ここにいる。



 ――決して夢の中の様に、爆発なんて、しない。



「……、いる」

「……、ああ。いるのだよ」


 ここ数日、ずっと同じやり取りをしている。だから、エルスターも自分が何を言い出したのか正しく理解した様だ。

 彼には、迷惑をかけっぱなしだ。同室でなければ、こんな風に自分の悪夢で叩き起こされることもなかっただろうに。

 だが。


「……、ありがとな」

「……馬鹿だね。お礼を言われる様なことはしていないのだよ」


 彼がそばにいてくれて、安堵している自分がいた。

 一人ではない。そう実感出来て泣きそうになる。

 迷惑をかけているのが分かっているのに、どうしようもなく人の気配が恋しい。この手に伝わる温度が欲しい。



 大切な人達が、目の前で生きている。そう実感できる証が欲しくて堪らない。



「……っ、エルスター、俺」

「無理して起きることはないのだよ。まだ夜明け前だからね。寝たまえ」



 無理矢理身を起こそうとすると、エルスターがやんわり押し返してきた。

 確かに、朝日と言うにはやけに眩しい気がする。

 もう一度天井を見上げれば、ぶら下がっている明かりが煌々こうこうと部屋の中を照らしていた。闇を消すほどの明かりの強さが、先程の夢の暗さを塗り変えていく様で安堵する。


 惨劇があったあの日から、リヴェルは度々悪夢にうなされる様になった。


 うなされ、悲鳴を上げ、その度にエルスターに叩き起こされて。飛び起きて周りが真っ暗だと、あの夜を思い出し、しばらく恐慌状態に陥る様になってしまった。

 そんな自分を見かねてか、エルスターは起こす時に明かりを点けてくれる様になったのだ。適切な処置をしてくれる彼の気遣いには頭が上がらない。


「……ごめんな、また起こした」

「回数は減っているのだよ」

「でも」

「それに、……この程度ですんでいる。お前さんは僕が思った以上に強い。少しは自信を持ちたまえ」


 ぐしゃぐしゃと乱暴に頭を撫でられた。

 慰めてくれているのだろうか。腕だって、いつまでも強く掴まれて痛いだろうに、文句ひとつ言わない。

 どんどん自分の不甲斐なさを露呈してしまっているが、今は甘えることにした。


「……、また、同じ夢だ」

「……」

「俺の大切な人たちはみんな死んで、……ステラも、消える」


 追いかけても、呼んでも、彼女は止まらない。

 何の弁解もせず、ただ悲しそうに背を向けて、あっという間に消えてしまう。

 どうして、何も言ってはくれないのか。友人の死が彼女の仕業ではないことなど、分かり切っているのに。


〝……リヴェル〟


 あの時。

 自分が、彼女の手を振り払ったからか。

 だから。


「……っ。ステラは、あんなこと、しない。……絶対、しないっ! それなのに、俺、……」

「……、リヴェルよ」

「……。……なんてな」


 エルスターが何か言いかけたので、無理矢理話を切った。

 ただでさえ心配をかけているのに、これ以上愚痴に突き合わせるわけにはいかない。

 自分の過ちは、自分で解決しなければならないのだから。


「現実には、みんないる。エルスターだってこうして生きているし、マリアもクラリスも、学院に行けば会える」

「……うむ」

「彼女には、会え――、……」


 無意識に零れ落ちた言葉に自嘲する。結局話を切れなかった己を踏み付けたくなった。

 そう。


 彼女には、未だ会えてはいない。


 裏庭に行っても気配は無く、学院内ですれ違うこともない。

 自分が手を振り払ってしまったから、彼女は姿を消してしまった。

 当然だ。拒絶したのだから。会ってもらえなくても仕方がない。

 それなのに、エルスターに八つ当たりをしてしまった。自分で自分を制御出来ない。その事実にまた気落ちした。

 いっそ。


〝死ぬのは――〟


 谷底に蹴落としてくれれば、そのまま――。


「リヴェルよ」

「――」


 沈みかけていた思考を、エルスターの声が引き上げてくれる。闇の底よりも強い自暴自棄を、緩々と頭を振って追い払った。

 駄目だ。今、自分は死ねない。

 死んだら、本当に会えなくなる。エルスターにも、マリアにも、クラリスにも。

 そして。



〝……ごめんなさい〟



 彼女にも。



「……っ」



 浮かんだ言葉に、自分を嘲る。

 一度彼女の手を振り払ったのに、まださもしく願うのか。

 突き飛ばしておきながら、拒絶しておきながら、傷付けておきながら。



 自分は、まだ彼女を求めるのか。



 何と愚かな。

 己の身勝手さに絶望しながら、左手で顔を覆って目をつむる。今はもう、何も考えたくなかった。


「……ごめん。俺、もう少し寝るな」

「ああ。……学院には」

「行く。裏庭にも。起きそうになかったら、起こしてくれ」

「分かったのだよ。……おやすみ、リヴェル」

「ああ、……」


 おやすみ。


 奇妙なことに、その言葉を口にした途端、深い睡魔に襲われる。先程まで冴えきっていた意識がゆるりと落ちていった。

 不思議だ。人間は、残酷な衝撃を受けても、貪欲に生を渇望する。どれだけ心が疲弊ひへいしきっていてもお腹は減るし、眠くなる。本能と言うべきか。

 だが、今はその本能が生を求めること自体に感謝した。

 そうでなければ、自分はとっくに生きることを放棄していただろう。



「……、……馬鹿だな」



 今でも迷う。

 金魚の死。父の死。母の失踪。祖母の否定。周りの悪意。



〝死んだら、―――――――――〟



 ずっと封じ込めていた、葛藤。



 このままで良いのかと、迷ってばかりだ。

 だけど。


〝僕は、お前さんとの仲を、学院生活だけで終わらせるつもりはないのだよ〟


〝また一人で抱え込もうとしてたわけー。いけない子ねー。お仕置きしなくっちゃ〟


〝この前、先生に頼まれた資料とか地球儀とか、運んでくれたでしょ! だから、お礼だよ!〟


 自分のことを、大切に思ってくれる人がいる。

 そのことに気付いた。――気付いて、しまった。

 だから。



〝あなた、――死ぬのは、恐い?〟



 ――例え、もう二度と彼女に会えなかったとしても。



 自分は、生きていかなければならない。



「……、ああ」



 だけど。



 会――い、な。



 まだ迷い、混乱する思考に溺れながら。

 リヴェルは疲れ果てた底で、抱いた願いと一緒に意識を手放した。


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