第4話
さくさくと草むらを踏み締め、リヴェルは毎朝の習慣である裏庭にやってきた。
自分が来たのを敏感に察知したのだろう。にゃーん、と可愛らしい鳴き声を上げて、猫が数匹顔を出してきた。
「おはよう。今日も元気そうだな!」
しゃがみ込んで背中を撫でてやると、猫が気持ち良さそうに目を細めた。にゃごにゃごと喉を鳴らす姿が愛らしくて、リヴェルの口元がみっともなく緩む。
この学院の敷地内には、庭がいくつか点在している。この裏庭はその一つで、リヴェルは元々一人になる場所を見つけるためにここを探し当てたのだ。
猫達は、この裏庭を生活圏にしているらしく、リヴェルが休息を取っている時に知り合った。
小さい頃から、唯一の憩いであった野良猫と親しくしていたのだ。そんなリヴェルの心を彼らは瞬時に射止め、こうして毎日戯れる日々である。
「ほらほら、餌だぞ。ちゃんと分け合って食べろよ」
「かわいいなあ。でも、あんまり食べすぎるなよ」
一応餌の加減は考えているが、猫達は美味しい物に目が無い。故に、
爽やかな風が揺らす
至福のひとときだ。
浸りながら、リヴェルが猫達を撫でて顔を緩ませていると。
「……、うん?」
がっついて食事をしていた猫達が、一斉に顔を上げた。そのまま、同じ方向を向いて、ふしゃーっと低く唸り始める。
「何だ、どうした?」
まるでリヴェルを守る様に動く彼らに、疑問符を浮かべながらそちらを見つめ。
一拍を置いた後。
――ぎゃあああああああっ!!
見事に、中途半端なまま顔が固まった。「ぎゃあああっ!」と、心の中だけで絶叫し、実際に外に出さなかった自分を
固まった理由は、昨夜の夢の元凶だ。
視界に飛び込んできたのは、陽光の中で光を弾きながら輝く、真っ黒な一輪の花だった。
長く艶やかな髪が風に躍り、黒いコートが翼の様に優雅にはためく。あらゆる日差しを全て照り返し、鮮烈に咲き誇る漆黒の花。
忘れるはずもない。
一度目は、昨日の昼に。
二度目は、昨夜の夢に。
そして。
――ばっちりと、彼女と視線が絡み合った。
昨夜、遠くで絡んだ時と同じ。吸い込まれるほど綺麗な黒い瞳に、ぞくりと背筋が震え、胸の底から熱が溢れ出す。
「……っ」
相も変わらず深い漆黒の双眸は、無感動にリヴェルを見つめてきた。その真っ直ぐな――本当に真っ直ぐ過ぎる視線に、
そのまま、どれくらいの時が流れただろうか。
猫の唸り声と、風の囁きばかりが無意味に流れ続け、そろそろリヴェルが沈黙に耐えられなくなった時。
「……これ」
すっと、前触れも無く彼女――ステラという女性から、何かを差し出された。
まさか昨夜の夢に引き続き、話しかけられるとは思ってもいなかったので、何の反応も繰り出せない。愚かなほど、彼女が差し出してきた物体を凝視する。
「……、これ、……って」
たぷん、と彼女が持つ小さな袋の中身が揺れた。
徐々に目の前の光景を認識していき、魚の正体を識別した途端。
〝良かったわね、リヴェル。大切に育てようね〟
「―――――」
突然、遠くから声が聞こえた。
その懐かしすぎる声に、リヴェルは一瞬びくりと揺れる。
「……っ」
――違う。そうじゃない。
尚も響き渡るその声を打ち消し、首を振る。振り払う様に、目の前の元凶を真っ直ぐ
ひらりと
昔一度だけ、自分の手元で生きてくれた、小さな命だった。
それは。
「……、金魚、か?」
何故、金魚。
いきなり早朝の裏庭に彼女が現れただけでも驚きだというのに、何故かその手に金魚の袋を握り締め、あろうことか自分に差し出してくるというこの構図。
あまりに意味不明な出来事の連続に、リヴェルの頭は爆発寸前になった。
「えーっと、……ステラ、先輩?」
「ステラでいい」
「あ、はい」
「敬語は嫌い」
「……。じゃあ、ステラ。どうして、金魚を俺に?」
「知人が、投げてよこしてきたから」
疑問を解消したかったから尋ねたのに、何故更に謎が深まるのか。
せっかくの勇気が台無しになりそうな脱力感から無理矢理抜け出し、リヴェルは重ねて尋ねた。
「えーっと。何故、知人が投げてきたら、……いや、そもそも金魚を投げるなって話なんだが」
「そうなの?」
そこで疑問形か。
何となく、話が噛み合わなさそうな嫌な予感を覚えながらも、リヴェルは息を深く吸って落ち着かせる。今は、謎を解き明かすことが先決だ。
「そうなんだよ。投げるな。可哀相だろ」
「そう。分かった」
「……。それで、何故、その金魚を、俺に?」
「裏庭に、毎日猫に餌やりしている変な輩がいると言っていたから」
変な輩。
よりによって、変な輩扱い。
流石は魔女の知人。他人の評価が酷すぎる。
だが、長年家で虐げられてきたリヴェルは、このくらいのことではめげない。根気強く、謎を辿っていった。
「えーっと。それで、変な輩の俺に、何故?」
「金魚は餌になるって、言っていたから」
「――」
金魚は餌。
あまりの言い草に、リヴェルの気が遠くなっていく。
一瞬脳が理解を拒否したがっていたが、耳に入れた残酷な言葉は取り消せはしない。ふつふつと、暗い熱が底から湧き上がってくるのを覚えた。
――彼女の知人は、金魚を何だと思っているのか。
そもそも、何故彼女に金魚を投げて寄越し、その上自分が可愛がっている猫の餌にするよう提案なぞしたのか。いや、それよりも提案が本当ならば、彼女の知人は、自分と彼女が会う様に仕向けたということか。
一体何のために。
謎は謎を呼んだだけで、何の解決にもならなかった。正直、もうどこから突っ込めば良いか判断もつかない。
だが、一つだけ。
〝金魚は餌になるって〟
「……っ」
やることは、決まった。
「……、ステラ」
腹の底から声を振り絞る様に、名を呼ぶ。
改めて意識して呼ぶと、何だか落ち着かない。彼女の名を舌に転がすその行動そのものに、むず
だが、同時に足元から黒い熱がじっくりと、侵食する様に這い登ってくる。
餌。
〝大切に育てようね〟
その一言が、無性に自分を
「その金魚、俺にくれないか」
「……、餌に」
「違う」
少しだけ語気を強めれば、彼女の目が少しだけ丸くなった。
――ああ、表情を変えられるのか。
変な部分で感心したが、今はそんなことはどうでも良い。
「俺が飼う」
「かう」
意味が結びつかなかった様だ。
訳が分からないと顔全体で語る彼女に、更に苛立たしさが揺らめいた。
「餌にしない。俺が部屋で飼う」
「? 何故」
「何故? 生きてるからだろ!」
何を当たり前な、と更に語気が強くなったのに、彼女は全く
むしろ、益々不可解に眉を
「金魚は、生きてるんだよ。今、この時にもな」
「生きてる」
「そうだよ。確かに金魚は餌になるかもしれないけどな。だからって、餌にしてたまるかっ」
半ば引ったくる様に、彼女の手から金魚の入った水袋を奪う。相も変わらず無表情な彼女だったが、じっとこちらを見つめてくるので、腹に力を入れて睨み返した。
金魚は元々、人の手で生み出された品種だ。鑑賞目的という勝手な都合で作り出された。
けれど、人為的とはいえ、確かに生きている命だ。
それを、簡単に餌にするという発想が信じられない。もちろん、それも摂理なのかもしれないが、少なくともリヴェルには受け入れられなかった。
それに。
〝おかあさん、……金魚が〟
昔、母と別れる寸前に飼っていた想い出。
――もう、二度と。死なせはしない。
「金魚は昔飼ってたことあるから。この寄宿舎も、金魚とかなら飼う許可もらえるし。俺が飼う」
「……」
「おーい、お前たち。注目」
呼びかけて、リヴェルは猫達の注意を己に向ける。
声をかければ、彼女を警戒していた彼らは、ゆるりと振り向いてきた。自分の手の中で揺れる金魚を見上げ、にゃーん、と首を傾げる。
「いいか。今日からこの金魚、お前たちの仲間だからな。食べたら駄目だぞ」
いいな、と一匹ずつ撫でれば、にゃふっと目を細めて頷いた。興味はあるようだが、食べる素振りを見せないので、言い聞かせは成功した様だ。
「よしよし、いいこだ。また夕方、ご馳走持ってくるからな!」
笑いかければ、猫達も尻尾を振って応えてくれる。
そんなやり取りを、じっと瞬きすらせずに彼女は凝視してきた。視線で穴が開きそうなほど集中され、そろそろ限界がきていたリヴェルが顔を上げると。
「……、何をしていたの」
不思議そうに問われた。
表情は先程と同じ。まるで変わっていないのに、何故か「何だこいつ」という声が聞こえてきそうな顔で、リヴェルは少しむっとする。
「猫たちに言い含めてたんだよ。金魚食べないようにって」
正直に答えれば、彼女は尚も無感動のまま首を傾げ。
「……あなた、馬鹿なの?」
「―――――」
馬鹿呼ばわりされた。
よりによって、馬鹿。言うに事欠いて、馬鹿。
知人も知人なら、彼女も彼女だ。
何故、初対面の人間相手に、ここまで
初めて目の当たりにした時の不可解な衝撃など、どこかに吹っ飛んだ。
足元の猫達が、びっくりして物陰に走り込んだのには悪いと思いつつも、感情が抑えきれなかった。
「何だよ、馬鹿って。君、さっきから失礼だな!」
「だって、猫と話せるわけがない」
「はあ?」
「猫が、人の言葉を理解できるはずがない。だから、馬鹿なのかと聞いた」
淡々と己の考えを提示され、リヴェルはぐっと言葉に詰まる。
だが、それで勢いが止まるわけでもない。
金魚を投げた話や、簡単に餌にすると言ってのけた神経にふつふつと頭にきていたこともあり、自然と声が荒くなった。
「話せないから馬鹿とか、簡単に人を馬鹿にするなよ! 正論だからって、相手を傷付けていいわけないだろ!」
「……、傷付いたの」
「傷付いたさ! 金魚も餌にしちゃう様な奴には分からないだろうけどな!」
己の言葉も、相手を傷付けている。
彼女が心を痛めるかは分からないが、それでもリヴェルは後悔した。
なのに、止まらない。
〝俺のせいで、死んじゃったんだ〟
怒りとか悲しみとか苦しさとか、過去と現実がごちゃ混ぜになって、一緒に心を
「それに、猫は確かに人の言葉は喋れないけどな! 人の気持ちを察するのは動物の方が得意なんだよ! だから! あいつらは、この金魚は絶対に食べないからな!」
説明が酷過ぎる。子供の喧嘩だ。
これではエルスターを馬鹿に出来ないと頭を抱えながら、リヴェルはそれでも力強く
二人の間に、冷たい風が走り抜ける。
あれだけ涼やかで気持ちが良かった空気が、今では肌を刺す様な寒々しさしか感じ取れない。自分の心に追い打ちをかける様な冷たさに、リヴェルの気持ちもどんどん落ちていった。
それに。
彼女の表情も、本当に変わらない。石像の様に、微動だにしなかった。
〝あんたの意見なんか〟
何度も、何度も。
繰り返しぶつけられた罵倒が、脳裏を
意見なんか、聞き入れてはもらえない。自分の思っていることなど、必要無かった。
大学院に来てからは、エルスター達がいたから忘れていた。自分の言葉が通じない人達が、この世の中にはごまんといるということを。
――帰ろう。
きっと、どんな言葉を尽くしたって、彼女にも伝わらない。何も言ってこないということは、それが答えなのだろう。
ぎゅっと袋の
が。
「その金魚」
「――」
思い切り腕を掴まれた。
ぐいっと引っ張られ、リヴェルは思わずたたらを踏む。
「な、何だよ」
「私が飼う」
「……、は?」
今度は何を言い出したのだ。
餌にしろと言ったり、
慌ただしく変わっていく状況に、リヴェルは軽く混乱した。彼女の言動が全く読めなくて、顔が苦く
「何で、いきなり」
「金魚は餌じゃないと、あなたは言った」
「……、言ったが」
「餌にしなければ、あなたの気持ちが分かるというなら、飼ってみる」
「……、は?」
あなたの気持ちが分かる。餌にしなければ。
その理論は何だと問い詰めたかったが、驚愕し過ぎてリヴェルの口からは何の言の葉も零れはしなかった。ただ、はくっと、金魚の様に息だけが漏れる。
飼ってみれば、リヴェルの気持ちが分かるとは一体どういう了見か。首を傾げるしかない状況だったが、幸運にも彼女は話を続けてくれた。
「傷付いたと言ったから」
「……、はい?」
益々意味が分からない。
思った矢先、次に差し出された言葉はかなり意外なものだった。
「私には何故、あの言葉であなたが傷付いたか分からないから。……金魚を餌にしなければ、分かるんでしょう?」
「―――――」
そこまで言われて、リヴェルは己の言葉を辿ってみる。
傷付いた。彼女に馬鹿と言われたから、そう告げた。
その後、自分は何と言った。
〝傷付いたさ! 金魚も餌にしちゃう様な奴には分からないだろうけどな!〟
「……、あ」
確かに、口にした。
売り言葉に買い言葉というだけの陳腐な口論だが、リヴェルは彼女にぶつけた。
だから。
彼女は、分かろうとしてくれたのか。
自分が、どうして傷付いたのか。金魚を飼うという決断までして、彼女は近付こうとしてくれた。
そこまで思い至って、リヴェルは呆然とした。何と言う突飛な発想。やはり自分には理解出来ない。
けれど。
「……、ふ、ははっ!」
何だか、無性に笑いが込み上げてきた。心も一緒に、笑う様に温かくなっていく。
――そうか。
彼女は、分かろうとしてくれたのか。
その事実に、思わず俯き、目を閉じる。そうしなければ、不意に込み上げてきた感情が零れ落ちそうだったからだ。
自分の言葉は、完全に彼女に届いたわけではない。
だが、何故己の言動で相手が傷付いたのか。分からないなりに、分かろうと努力してくれた。
そして、何より。
彼女は無表情で、無関心に見えるのに。一生懸命、歩み寄ろうとしてくれた。
その事実に歓喜し、そして同時に己の思い込みを恥じた。
自分こそ、少し否定されたからと言って、相手の真意を読み取ろうとはしなかったのだ。同じ穴のムジナ、いや、自分の方がもっと悪い。勝手に見限って、ふて腐れた。諦め癖が強いのは、自分の短所である。
「……、ごめんな」
「何が」
「いや、……」
上手く言葉に出来そうになくて、それ以上は言えなかった。だから、笑って誤魔化す。
しかし。
――聞いた話と、随分違うな。
エルスター達の話だと、無表情で無感動で、何を考えているか分からないという説明だったが、少なくとも感情は相応に備わっている様に映った。そうでなければ、金魚を飼うなど言い出しはしなかっただろう。
人が当然身に着けていそうな知識や倫理は、かなり欠落していそうだが、相手を知ろうとするその人柄に、リヴェルは心を打たれた。
今も、彼女の顔に変化はない。
だが。
その表情の裏には、どんな感情が隠されているのだろう。
初対面の時とは別の意味で、リヴェルは彼女に興味を持った。
「そっか、うん。飼ってくれるのか」
「うん」
「じゃあ、任せるぞ。飼い方とか、分かるか?」
「まったく」
潔い。
そんな彼女の裏表のない言葉も、さっきまでとは違う意味合いに響いて、微笑ましくなった。
「じゃあ、まずは水槽だな!」
「水槽」
「金魚鉢とかでもいいぞ。それに金魚を」
「……、こういうの?」
「え? ――」
ぱちん、と彼女が指を鳴らすと同時。
ぽん、と軽い音を立て、目の前に四角い水槽が出現した。
何もない場所から、両手で抱えるくらいの大きさの水槽を取り出した彼女。
手品だろうか、と己を納得させようとしたが、がんがんと鐘が間近で鳴り響く様に、頭の中で警鐘を鳴らした。
「え、っと」
うまく言葉が絡まって出てこない。息がまとめて喉に詰まった様に苦しかった。
昨夜の、街燈の上に佇む彼女が、唐突に脳裏に閃く。
涼やかな声。目の前で上がる爆音。気付いた時には、彼女の足元で蠢いていた塊。
あれは、夢だ。
夢だった、はずだ。
けれど。
「どうして、そんなに驚くの」
「どう、して」
「昨夜、とっくに私の魔法は見ているのに」
「―――――――」
昨夜。
彼女の口からその単語が飛び出してくることで、リヴェルは出口のない場所に追い詰められた。
だって、自分はいつの間にかベッドで寝ていた。中庭だって、いつも通りの光景だった。あんな、昨夜に目の当たりにした無残な傷跡など、
なのに。
「あの、さ。魔法、って」
「だって、私は魔法使いだから」
魔法使い。
現実味のない固有名詞だ。
それなのに、彼女の唇から発せられれば、やけにしっくりと合うことにリヴェルは絶望した。
「私は、魔法使いステラ・シャーリー。よろしく、……リヴェル・ライフェルス」
最後の逃げ道を塞ぐ様にフルネームで呼ばれ、リヴェルは己が既に非日常に足を踏み入れたことを否応なく思い知らされた。
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