第3話
ちゅんちゅん、と可愛らしい小鳥の鳴き声が歌い紡がれる朝。
リヴェルは、自然の目覚ましによってゆったりと目を開けた。カーテン越しに柔らかな日差しが降り注ぎ、あまりの穏やかさにもう一度眠気が襲ってくる。
――ああ、眠い。
よし、寝よう。
そう決めて、リヴェルが、ばふっと寝返りを打つと。
「おお、今日も良い朝だね! おはよう、リヴェル。朝食に行こうではないか!」
じゃっと勢い良くカーテンを開き、同室のエルスターが高らかに叫んだ。
穏やかだった日差しが
「こら、リヴェル。早起きはー、あー、なんたらと言うではないかね。ほら、起きたまえ」
「……一人で起きてくれ。俺は寝たいんだよ」
「何をいつもとは逆のことを言っているのかね。起ーきーたーまーえー!」
昨日は遅かったんだ、とリヴェルはシーツを引っ張りながら
だが、外側からエルスターが、ぐいぐいとシーツを引っぺがしにかかってくるので、もうすっかり目が覚めてしまったのが悲しい。
しかし、意地でも起きたくはなかった。ここまできたら、二度寝を
「いい加減にしてくれ、エルスター。俺は寝る。寝たい。寝よう。今すぐ寝ろ、俺。いや、むしろもう夢の中へ旅立っているんだったな。邪魔しないでくれ」
「何を言っているのかさっぱり分からんのだよ! まったく、珍しく寝汚いね! 裏庭の猫の餌やりは良いのかい?」
日課の猫の話題を持ち出され、ぐっと言葉に詰まった。同時に、シーツを引っ張っていた指が緩み、その弾みで勢い良くシーツが吹っ飛び――エルスターは見事、床に頭から引っ繰り返った。ごちん、と良い音がする。
「ぐ、お! いきなり何だね! 離すんじゃない!」
「起きろって言ってたのエルスターだろ」
「ぐ、ふ。……なら、さっさと起きたまえ! 今日は休日なのだから、遅い朝食でも待っていてあげようではないか」
ふふーん、と腕を組んで誇らしげに胸を反らす姿が、見なくても目に浮かぶ。何故、彼はいちいち何をするにしても偉そうなのかと、リヴェルは不思議でならない。
だが、それを嫌味に感じたことはなかった。彼らしいと思えるところが、彼の人たらしの
しかし。
「あー、……眠い」
「ふむ。ほんとに珍しいね。どうしたんだい。そういえば、遅かったと言っていたね。かくいう僕は、夢の中で妖艶なお姉さんと、夜空に乾杯しながら見つめ合い、楽しいひとときを過ごしていたよ」
「そうか。良かったな。俺は、―――――」
そこまで会話を
しかし、彼の反応など知ったことではない。どくどくと、全力疾走をした後の様に、心臓が大きく波打って止まらなかった。
昨夜。遅かった。お姉さん。
〝……さよなら〟
「――――――――」
一つ一つの単語を紡いで、リヴェルの顔から血の気がざっと潮の様に引いていった。
同時に、地面に転がった人の成れの果ても思い起こして、震えながら口元を手で押さえる。
「……リヴェル? お前さん、どうしたのだね。顔が真っ青だ」
「……っ、中庭」
「……、中庭?」
ぴくっと、エルスターの眉が綺麗に跳ねる。その仕草が、昨夜の惨状を物語る証拠に思えて、
そうだ。中庭。
夜更けに目が覚めて、ふらりと外に出た。月が綺麗だと眺めながら中庭に出て。
それで。
〝死ぬのは、恐い?〟
「―――――っ」
シーツを跳ね上げ、リヴェルは部屋を飛び出した。ばん、と乱暴に開いた扉の音に、「リヴェル!?」と驚かれたが、答える余裕も無い。
そもそも。
――昨夜、自分はどんな風にこの部屋に帰ってきたのだろうか。
全く覚えていないのが、かえって恐怖を
恐い。苦しい。嫌だ。見たくない。
だけど。
――違う。
恐怖だけでは、ない。
恐ろしいだけで、こんなに全身が震えているわけではない。認めたくないのに、本能が叫ぶ。
あの夜、呆然と見つめる自分に向かって見下ろしてきた、あの凛とした眼差し。
〝あなた〟
吸い込まれるほどに、磨き抜かれた漆黒の双眸。彼女の瞳の奥底に、堕ちそうな感覚。
あの
――自分は、一体、どうしてしまったのだろう。
奇妙な己の心の傾きに、混乱しながらも足は素直に中庭へと急ぐ。
息を乱しながら駆け抜けるリヴェルに、通りを行く生徒達が奇異な目線を向けてきた。
だが、そんな弱々しい視線など、昨夜の眼差しの足元にも及びはしない。
寄宿舎を走り抜け、学院への通り道でもある中庭が見えてくる。
そして。
「……はっ、……、って、―――――」
辿り着いた先の中庭。
そこは、大学院自慢の偉観のまま、見事な華やかさを誇っていた。
陽光を受けて嬉しそうに
そこには、昨夜の
転がり、消え失せた塊の残骸も。大地を無残に斬り裂いた痕も。月を隠す様に佇む人影も。
何も、残ってはいなかった。
「……、どう、して」
「おい、リヴェルっ! ま、待ちたまえ、……はっ、……お前さん、足、速いのだね。僕は、ちょっと、疲れてしまったよ……」
呆然と呟くリヴェルの背中から、エルスターの声が届いた。
振り向けば、彼が息も絶え絶えに走り寄ってくるのが見える。ぜえ、はあ、と大きく息を切らし、ここに辿り着いた途端にへたり込んでしまった。
「え、エルスター?」
「いきなり走り出すから、……び、ビックリしたのだよ。は……っ、な、何か、あったのかね……」
切れ切れになりながらも、エルスターが懸命に言葉を振り絞ってくれる。
身勝手で不可解な行動だったのに、
〝息子が死ななきゃ、あんたなんか引き取らなかったのに〟
――あの家では、こんな風に追いかけてくれる人なんて、いなかったな。
「……っ」
不意に湧き起こる感情に
「エルスター、……ありがとう」
「う、うむ? よく分からんが、受け取っておこうか」
ぜいぜいと呼吸を整えながら、エルスターが無意味に胸を張る。その姿が、今のリヴェルには、面白いという以上に嬉しかった。
「しかし、どうかしたのかね。お前さん、寝間着姿のままだが」
「……、ああ」
そういえば、と己の姿を見下ろす。
ベッドから跳ね起きて、そのまま外に出たのだ。その姿で全力疾走すれば、奇異な目で見られるのは当然である。
「……、中庭、綺麗だな」
「ん? ああ。いつも通りではあるね」
「……、そっか」
夢か。
失望を、ぽろっと零す。
いや、夢で良かったのだろう。昨夜の出来事が現実だったならば、誰かが一人、命を落としていたということになる。例え顔見知りではなかったとしても、後味が悪すぎた。
だが。
〝――よけなさい〟
凛とした、彼女の声。
初めて聞いたその声は、やけに脳裏に強烈に響いて忘れられなかった。
「……よけなさい、か」
「ん? 何か言ったかね」
「いや。何でもないぞ」
あの時は訳が分からなかったが、彼女は確かに「よけなさい」と忠告してきた。正しいのであれば、自分を助けようとしてくれたのかもしれない。
そうだとすれば、お礼も言えないままだ。不義理だったな、と後悔する。
とはいえ、昨夜の出来事は夢なのだ。
そう。
吸い込まれるほどに澄み渡る黒い眼差しも。
自分にかけられた鈴の様な綺麗な声も。
全て、夢だと言うのならば。
「……ちょっと、
思ってしまう自分は、きっと異常なのだろう。
家での息苦しい生活が、非日常を知らず知らず求めてしまったのかもしれない。息の詰まる現実を抜け出したくて、彼女の放つ『黒』に惹かれたのだろうか。
だから、あんな残酷で、けれど魅せられずにはいられない、黒い翼を広げる夢など見てしまったのかもしれない。
ならば、戻らなければ。
〝あんたは、このライフェルス家の跡取り〟
――自分は、それ以上でも以下でもないのだから。
「ごめんな、エルスター。夢見、悪くてさ」
「そうかね? なら、戻って朝食に行こうではないか」
「あー、せっかくここまで来たなら、猫に餌をやっていくよ。……って、持ってきてないか」
「ふっふっふ。そんなお前さんに、プレゼントなのだよ」
ほれ、と缶の山を手渡された。反射的に受け取って、リヴェルは目を見開く。
丸い缶詰に印刷されていたのは、可愛らしい猫の顔だった。毎日、裏庭に出向く時の必需品で、部屋に常に保管してある彼らの餌だ。
「これ、わざわざ持ってきてくれたのか」
「その通り! 感謝したまえ」
腰に手を当てて、えっへんと得意げにするエルスターに、リヴェルはぶはっと笑ってしまった。
何だね、と
追いかけてくれた上に、己の行動を見越して餌を用意してくれるとは。彼は常時偉そうだが、気の利く人間だ。初対面の頃から、リヴェルは支えられっぱなしで、胸の裏がくすぐったくなる。
「ありがとな。早めに準備するから」
「うむ。午後は街に出るのだから、早くするのだぞ」
そうして、彼が去って行く後ろ姿を見て気付く。
――エルスターも、寝間着姿だ。
しかも、裸足であることにも目が留まる。彼が、取るものも取り敢えず駆け付けてくれたという証だ。
先程じわじわと這い上がってきた喜びが、また
何だか、とても胸の辺りが温かい。半年前まで忘れていた情景が、久しく返ってくる様だ。
〝リヴェル〟
かつて、自分の頭を撫でてくれた両親の温もりと、同じ。半年前までは凍らせていた記憶なのに、ここに来てからは時折思い出す様になった。
――彼が、友人で良かった。心からリヴェルは感謝する。
昨夜の中庭の出来事は、無かった。
だが、それで良い。代わりに、小さな幸せをもらえた。
今は、それで充分だ。
納得させながら、リヴェルは入学の頃から可愛がっている猫に餌を与えるために、裏庭へと足を向けた。
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