第2話
「あんたは、このライフェルス家の跡取り。それ以上でも以下でもない」
覚えておくんだね。
五歳の頃。
リヴェルが父方の祖母に引き取られてから、この十五年間ずっと言われ続けてきた言葉がそれだった。
「息子が死ななきゃ、あんたなんか引き取らなかったのに」
死んでしまった父には、自分以外に子供がいなかった。
愛人に産ませた自分は、祖母にとって穢らわしいゴミでしかなかったが、大貴族だった彼女は家を存続させるため、嫌々ながら引き取ったのだ。
失敗をすれば琥珀の髪を引っ張られ、彼女に触れてしまったら手を引っ
そして、外での祖母の振る舞いが、一層リヴェルを孤立に追いやった。
家の中では冷たいのに、外での彼女はひどく優しい祖母に変化するのだ。
リヴェルが転べば我先にと駆け寄り、心配する素振りを見せる。
他人との世間話になれば、「うちの孫は大変優秀で」と自慢をし、猫かわいがりする。
最初はそれに怯え、震えていたので、家に帰ってからこっ酷く叱られた。
「愛想よく振る舞えないのかい! この出来損ないが!」
頬をぶたれ、倉庫に閉じ込められ、食事を抜かれるのは日常茶飯事。
真冬でも容赦はなく、寒々しい空気に体温が奪われ、出ることを許された頃には熱を出すことも少なくなかった。
「
常に聞かされる言葉に腹を立てたが、刃向えば
だから、いつしか氷の様に心を閉ざせば、さざ波が立つことも無くなった。
自分は、彼女の道具である。
納得させれば、後は簡単だ。
大学院を卒業すれば
あらかじめ定められたレールを歩くことに、リヴェルは大した
そう。だから。
〝リヴェルよ、まさか、本当に魔女殿を〟
そんな、奇跡の様な瞬間を、自分は望まない。
「んー、さむっ」
外に出たのは失敗だったか。
リヴェルは一瞬後悔したが、すぐに思い直す。
夜中、中途半端な時間に目覚めてしまい、眠れそうになかったので寄宿舎からこっそり抜け出した。そこまで厳しい場所ではないので、学院の外にさえ出なければ、見つかっても特に
この大学院は、社交性を身につけるためと、生徒全員が寄宿舎に入ることを義務付けられていた。
例に漏れず、リヴェルも家を離れて寄宿舎に入り、半年になる。二人一組ではあるが、同室の住人はエルスターであるため、気兼ねもしない。
冷え切った家などよりもよほど快適な場所に、四年間は開放感を味わえるなと、少しだけ心が弾んだ。
「家だと、こんな風に抜け出すこともできなかったしな」
何て窮屈な生活だろうか。
呆れはするが、変えようとも思えない。
そもそも自分の力で、祖母が絶対権力を持つあの家の改革などは到底無理だし、反抗も無駄だと諦めている。目覚める前に見た夢が、一層己の心を灰色に染めていった。
「……半年間、夢になんて見なかったのに」
やはり、昼間の会話のせいだろうか。
辿りながら、リヴェルは『黒き魔女』という女性を思い浮かべる。
陽光の中で、くっきりと鮮やかに浮かび上がる黒き一輪の花。
鈴の様に音が鳴り響く空気を
天から降り注ぐ光を綺麗に全て弾いているのに、その弾いた陽光が
「……って、これじゃあエルスターたちの言う通り、
馬鹿馬鹿しい、と一つ咳払いをする。
その仕草が、誰もいないのに言い訳をするみたいだと恥ずかしくなった。理由も無く上がっていく体温に、嘲笑う様に風が一際強く吹き付ける。
――本当に、全てが馬鹿馬鹿しくなってきた。
外に出た行動さえ見苦しい言い訳に思えてきて、リヴェルは疲れて顔を上げる。
「あー、星……は見えないな」
その代わり、月がなだらかな円を描き、夜空に静かに浮かび上がっていた。
景色を彩る木々も、自分達を支える大地も密やかに眠る中、空から降り注ぐ月明かりが愛しそうに全てを抱き締める光景は、リヴェルの心を穏やかに照らしていった。
夢に侵された、真っ黒な染みが洗われていく様な清らかさだ。
「……綺麗だな」
ぽつりと呟いて、リヴェルは誘われる様に中庭に出る。
家にいた頃は、こんな風にゆっくり空を見上げる余裕も無かった。何もかもが新鮮で、じわじわと浮かれた気分になっていく。
学院にある中でも一番大きなこの庭は、緑に溢れ、花々も色鮮やかに咲き乱れる憩いの場だった。
季節ごとに違う顔を見せるその庭は、国内でも有名な観光地で、外の国から見に来る客も少なくない。時折、この国の王もお忍びで訪れるそうだが、リヴェルはまだ立ち会ったことはなかった。
「ま、あと三年以上あるし。そんな珍事にも立ち会えるかもな!」
その時が楽しみだと、もう一度空を見上げ――はて、と首を傾げた。
「? 何だ?」
先程までまんまるだった月が、不自然に欠けている。あれだけ綺麗な円を描いていたのにと、何度も瞬いてしまった。
何故だろうと目を凝らし、視点を絞っていく。
その甲斐あって謎の輪郭が見えた頃――己の目が、ゆっくり見開いていくのが分かった。
「――、え」
見上げた先。並び立つ
慌てて目をこすってみるが、景色は変わらない。影は悠然と細い街燈の頂点に立ち、月を覆い隠す黒いコートが、まるで翼の様にはためいた。
そう。黒いコート。
〝長い黒髪に、黒い服、おまけに年中黒いコートを羽織っていてね〟
忘れるはずもない。
昼間、強烈なまでに自分の心に植え付けていった、真っ黒な華々しさだ。
ステラ・シャーリー。
友人に教えてもらった名が、唐突に脳裏に閃く。
黒き魔女。
来る人来る人に死ぬのが恐いかと尋ね、恐くないと強がれば殺意を向けてくるという人物だ。
そんな、真っ黒な噂の中心人物が、あろうことか街燈に佇むという、一般人なら到底ありえない芸当をやってのけている。
「……本当に、魔女なのか……、っ」
口にして、ばっとリヴェルは手で塞ぐ。予想以上に声が響いたからだ。
同時に、人影がゆっくりとこちらに視線を向けてくるのが見えて、心臓が跳ね上がった。遠いのに、ぱちっと、あの澄んだ黒い目と合った気がして、息を呑む。
――気付かれた。
逃げなければ、と反射的に足を動かそうとしたのに、何故か足の裏が地面から離れてくれない。
どうして、と思う間もなく、彼女がしっかりと自分に眼差しを注いでくるのが、離れているのに伝わってきた。
風になびく黒いコートが、穏やかな白い月を嘲笑う様に隠す。
なのに、欠けた月が、その漆黒によって余計にくっきりと闇に浮かび上がる。白と黒が相反しながらも、互いに手を取り合いながら、より一層綺麗に輝く様は一枚絵の様に美しかった。
視線が、貼り付いた様に
――綺麗、だな。
何故だろうか。
月が欠けるほどに真っ黒な闇を纏っているのに、その異様な雰囲気はとても清らかで、リヴェルは知らず見惚れていた。
が。
「――よけなさい」
「――、え」
突然、頭上から涼やかな声が降り注ぐ。
それとほぼ同じくして、リヴェルは思い切り地を蹴っていた。声に導かれる様に、ほとんど反射だった。
途端。
――どおん、と目の前で大爆発が起こった。
「……っ! うわっ!」
盛大な土煙が巻き起こり、リヴェルの方へと一斉に土砂の如く降りかかる。
目や口に大量に入り、ごほごほっと
「な、なに、……って!」
砂塵と格闘している間に、ぐんっと今度は首根っこを強く引っ張られた。そのまま勢い良く宙に体が舞い、遠くで更なる爆発音が続けざまに世界を揺るがす。
どっと、地面に叩き付けられる衝撃に、一瞬息が出来なくなった。酸素を求める様に咳き込みながら、痛みと苦しみにもがき、無意識に生を求める。
「っ、って、ほんと、何だって……、――」
何が何だか分からない。
故に、ようやく開けられるまでに回復した目を、懸命に眼前に
だが、すぐに後悔した。
「……、なん、だよ、……これ」
つい先程まで自分がいた場所は、深く、鋭く、大きく
まるで死神の鎌で次々と斬り裂いた様な残酷な跡に、リヴェルは真っ二つにされる己を想像して、ぞっとする。
しかも、抉られている箇所は一つではない。あちこちに無残になった大地が晒されており、あれだけ綺麗に咲き誇っていた草花も酷く乱れ、潰れ、消し炭になっていた。
そして。
大量の傷跡の中心地に、彼女はいた。
漆黒のコートを悠々と羽ばたかせ、足元に人間らしい塊を無表情に踏み付けている。
人間らしい、というのは、その塊が既に人の形をしていなかったからだ。
しかし。
「……、ぎ、ぁ」
「―――――っ」
塊から、
見れば、塊の近くには、枯れ木の様なものが数本転がっている。その先が手の形をしている様に見え、リヴェルは喉の奥で悲鳴を上げた。ひゅっと、嫌な音が喉元で鳴って一層苦しくなる。
――恐い。
思うのに、視線が外せない。
だが、外さなかったことをまたもすぐに後悔する。
「……、ひっ」
凝視した塊が、ぴく、びく、と
脳が理解を全力で拒否する。
それなのに、追い詰める様に、塊はびくっと勢い良く跳ねた。今度こそ生き物――人間なのだと確信してしまい、リヴェルは悲鳴を迸らせた。
「う、あ……っ! う、うご、いてっ」
「――――、さい。……さよなら」
何事かを呟き。
ぐしゃっと、彼女は無感動に足元の塊を踏み潰した。断末魔の様に、塊が無様な音を一度大きく上げたきり、大人しくなる。
そして、間もなくふっと、煙を上げる様に消え去った。何事も無かったかの如く、彼女の足元には何ら見当たらなくなり、目を盛大に疑う。
――何が、起こったのか。
目の前の出来事を、リヴェルは凍り付いた頭で分析する。
訳が分からないまま、自分が土煙に攻撃されている間に、一人の人間が彼女に殺された。
その人間――かどうか分からない生き物を直接よく見ることは出来なかったが、足元の塊は明らかに動いていたし、呻き声も漏れていた。
今が夜で良かった。リヴェルは時間に感謝する。そうでなければ、スプラッタをまともに拝むことになっていただろう。
「……っ」
は、っと呼吸が乱れるのを抑えられない。ざりっと、再び指が申し訳ない程度に地面を掻いたが、それで何かが変わるわけでもなかった。
誰かが、死んだ。
彼女が、殺した。
ならば、次は。
〝じゃあ、死んでみる?〟
「――」
――死んだら、―――――――――。
昼間のマリアの言葉を思い起こし、リヴェルは強く息を呑む。一瞬脳裏に浮かんだ言葉は、無意識にすり抜けていった。
――そんな情けない醜態を晒す自分に、なけなしの興味を持ったのか。
足元から視線を外し、彼女はこちらに向かってきた。
こつ、こつ、と、高らかに夜空に響く足音は、出で立ちに反して高潔な匂いを纏っている。
こんな時だというのに、その足音にまで目を奪われた。
それが、恐怖からくるものなのか、恍惚としたものなのか、リヴェルには判断が付かない。
「あなた」
かつん、と。間近で、清らかな音が踏み鳴らされる。
無感動にこちらを見つめてくる漆黒の双眸は、昼間と同じくどこまでも磨き抜かれていた。吸い込まれるほどの深い闇に、リヴェルは堕ちていく様な錯覚を覚える。
あれほどまでに、残酷な光景を見たはずなのに。己の心は、今、ひどく高揚していた。
絡み合う視線が、震えるほどに心地良い。この世の宝石よりも輝きを増す黒い瞳に、足元から這い寄ってくる熱を
そんな、リヴェルの昂ぶりを知ってか知らずか。
彼女はまるで表情を変えず、真っ直ぐにこちらを見つめ。
「あなた、――死ぬのは、恐い?」
「――――――――」
友から聞いていた質問を、一切の感情がこもらない声で捧げられた。
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