Episode5 命の行く先

第40話


 ふあっと、欠伸あくびを噛み殺し、リヴェルはとてとてと食堂へと向かう。

 昨夜は特に夜更かしをしたわけではないのだが、妙に眠気が勝っていた。いつも通りの時間に起きられず、エルスターに叩き起こされ、こうして何とか食堂に向かっている。


「リヴェルよ、だらしないのだよ。もう少ししゃきっとしたまえ」

「あー、悪い。でも、何か眠いんだ。疲れたのかな」

「ふむ。魔女殿と一線でも超えたかね」

「ぐっほ!」


 とんでもない爆弾を投下され、リヴェルは飲んでもいないのにせた。ごほごほっと、呼吸が困難になって、恨めしげに問題発言の当人をにらみ上げる。


「そ、んなわけないだろ! まだ恋人でもないぞ!」

「おや、違うのかね。あんなに甘すぎるからてっきり」

「み、みみ見て、た、……っ」


 一部始終を覗かれていたのか。

 初めて知った事実に、がっと顔があぶられた様に熱くなる。あの恥ずかしさと情けなさ満載のやり取りを観察されていたとは、穴という穴に飛び込んでしまいたい。


「え、エルスター! 悪趣味だぞ」

「まあ、良いではないかね。聞こえなかったし」


 そういう問題じゃない。


 突っ込みたかったが、意地悪気に笑う彼には通用しなさそうだ。肩を落とし、少しむくれてしまった。

 我ながら子供っぽいとは思うが、誰も責められはしまい。


「俺の、一世一代の決意が……、はあ」

「それで? 恋人ではないなんて、まだはぐらかすのかね?」

「い、いや、だってな。俺、色々言いたいことは言ったんだが、……肝心の『好き』って、言ってなかったんだよな……」

「……」


 自分のヘマを思い出して、天井を仰ぐ。

 何故自分は、肝心なところで失敗するのだろうか。あれだけ熱烈な告白をしたのだから、あと一歩だったはずなのに。

 対するエルスターはというと、かなり胡散臭げな白い目を向けてきた。視線だけで、「何馬鹿なこと言ってんだこいつ」と物語っていて、むっと膨れてしまう。


「何だ、はっきり言えよ。情けないでも何でも! ああ、そうさ、情けないさ!」

「いや、……ここまで大馬鹿だとは思わなかったのだよ。恋愛初心者かね」

「初心者だよ。悪いか」

「いや、……はあ。君の気がすむのなら、もう一度告白すれば良いのだよ。……はあ」


 何度も大袈裟おおげさに溜息を吐かれ、ほとほと呆れられた様だ。物腰全体が馬鹿だと語っており、リヴェルとしてはひどく居た堪れない。

 だが、どうせエルスターの様に女性を満足させる様なエスコートなど夢のまた夢だ。ならば、もう開き直って我が道を行くしかない。


「ちゃんと告白するさ。せっかく、一緒に歩く決意をしてくれたんだからな」

「……、いや、……うむ。何故それで、恋人じゃないって、……まあ、女性は口にしてくれる方が安心すると言うからね。好きにすると良いのだよ」

「ああ、好きにするさ。……お、いい匂いだな」

「ふむ。今日はウィンナー入りのスープの匂いがするのだよ。これは楽しみだね」

「……いつもながら、鼻がいいよな、君は」


 食堂の扉を開ける前に、エルスターが内容を言い当てる。

 実際入ってみると、既に食べ始めている生徒達は、ウィンナー入りの野菜コンソメスープを美味しそうにすすっていた。彼はよくメニューを的中させるのだが、食に対する意欲が半端ではないのかもしれない。


「そうだ、リヴェル。また、ウィルに会って欲しいのだよ」

「え? いや、いいけど。俺もちょうど話があったし」

「ふむ、なら話は早いのだよ。今夜にでも……、おお、マリア」


 エルスターが手を上げると、テーブルの端に座っていたマリアが、ひらひらと手を振り返してくる。

 既に席を人数分取ってくれていたらしく、それぞれの前に食事が広げられていた。用意をして待ってくれていた彼女に感謝する。


「おはよう、マリア。ごめん、遅くなった」

「おはよー。珍しいわねー、リヴェル。昨日、遅かったのかしらー?」

「いや、普通だったんだけどな。……あれ、クラリスは?」


 いつもはマリアと一緒に並んで食堂に来ている彼女の姿が見えず、リヴェルは何の気なしに尋ねてみた。

 しかし、聞かれたマリアも少し困った様に頬に手を当ててしまった。困惑している姿は希少だと、秘かに心配になる。


「それがねー。クラリス、用事があるから先に行ってて欲しいって」

「おや、珍しい。マリアも知らないのかね」

「うん、何も言ってくれなかったから。すぐに追い付くから、席お願いねって言われたんだけど……今朝は珍しいことだらけねー」


 笑っているが、マリアとしては少し不安気に揺れている様に見えた。

 エルスターもそう感じたのか、常の定位置である彼女の前に腰を下ろしながら、綺麗な眉をひそめる。


「何か、行き先に心当たりでもあるのかね?」

「ううん、無いんだけどー。……でも、何か、いつもと様子が……」

「みんなー、ごめんね。お待たせ!」

「―――――」


 マリアが何かを言いかけた時に、当の本人の声が明るく吹き抜けた。

 振り向けば、今話題となっていたクラリスが微かに息を切らしてたたずんでいる。いつも通り快活な彼女に、リヴェルは胸を撫で下ろした。


「クラリス、おはよう」

「リヴェル君、エルスター君、おはよう」

「おはよう。ふむ、今日も元気だね。少し心配――」

「あ、あのね、エルスター君。お願い、席、代わってくれる?」

「して……、む?」


 ぱん、と両手を合わせてクラリスが拝み倒してくる。

 唐突な願いに面食らったエルスターは、見事に硬直した。戸惑っているのが隣にいるリヴェルにも大層伝わってきて、動揺が静かに輪の中に広がる。


「駄目、かな?」

「んむ? いや、ああ、……構わないのだよ」

「ありがとう!」


 当惑に揺れながらも、紳士なエルスターが腰を上げる。テーブルの端だから良かったが、中央にいたら大変だったろうなと、リヴェルは場違いなことを考えた。

 願いを聞き届けられたクラリスは、そんな揺らぎにはつゆほども気付かないと言わんばかりに、うきうきと隣に座ってきた。すとん、と着席する音が可愛らしく上がる。



 ――確かに。何となく、変だな。



 マリアの心配をここにきてようやく実感し、リヴェルも狼狽しながら彼女に話しかけた。


「なあ、クラリス。何かあったのか?」

「え? どうして?」

「あ、いや。突然席を替わってくれって言うからさ。こっちが良かったなら、俺に言ってくれれば」

「それじゃあ意味がないもん」

「は?」

「リヴェル君の隣じゃないと」


 真っ向から言い切られ、リヴェルは更に困惑した。彼女の言い分が正しいならば、自分の隣が良いから席を替わったらしい。

 自分に、何か用事でもあったのだろうか。


 尋ねようと口にする前に、彼女は何故か唐突に頭を肩に寄せてきた。


「っ!? クラリス?」

「えへへー、ちょっとまだ眠いから。リヴェル君の肩って、ちょうど良い位置にあるね」


 全く悪びれも無く言いながら、更に腕に両手を絡ませてくる。その際、するっと撫でられる様に触れられて、何とも言えない刺激が駆け抜けた。


「っ、ん、く、クラリス。やめてくれ。どうしたんだ、急に」

「急じゃないよ。ずっと、こうしようと思ってたもん」


 ねる様に告げながら、きゅっと腕を握り締めてくる。

 目の前の二人が唖然あぜんとして、口を大きく開いていた。周囲もちらちらと、こちらを窺うように一瞥いちべつしてくる。

 何だか、とてもまずい状況だ。リヴェルはあまり乱暴にならない様に、彼女の手をがそうとした。

 が


「っ、……え」

「んー、もう少し」



 彼女の手が、全く動かない。



 びくともしない力に愕然がくぜんとした。

 別に、痛みを感じるほど強く掴まれているわけではない。

 それなのに、何故か剥がせない。仮にも自分は男で、彼女よりも確かに力はあるはずだ。

 しかし。


「く、クラリス。おい」

「んー」


 実際、どれだけ力を入れても引き離せない。

 それに。


 ――まずい。


 そんな予感がして、リヴェルは苦い思いで首を振った。


「駄目だ。クラリス、離してくれ」

「どうして?」

「俺、好きな人がいるんだ」



 だから、これは困る。



 はっきりと口にする。

 もしかして、という思いがよぎったからこそ断言した。勘違いだったら自分が恥をくだけだ。それで良い。

 だが、彼女は動かない。それどころか、ぎゅっと爪を立てる様に腕を握り締めてきた。食い込む感触に、いつっと、小さく悲鳴を上げてしまう。


「おい、クラリス。どうしたんだっ。今日、本当に変だぞ!」

「うん。変になることにしたんだよ」

「は? どういう、意味」

「それはね――」

「――リヴェルっ」

「――」


 攻防を繰り広げていると、背中から声がかかった。

 リヴェルがその声を聞き逃すはずがない。一瞬弱まったクラリスの手から抜け出し、立ち上がって振り返る。


「ステラ!」


 助かったという安堵と同時に笑って声をかける。

 ステラは、思い描いた通り食堂の入り口に佇んでいた。いつもの様に真っ黒なコートを羽織った姿は、夜の花が綺麗に咲き誇る様でリヴェルの顔が緩んでいく。



「おはよう、ステラ。珍しいな、食堂に来るなんて」

「リヴェル、……いない」

「……、え?」



 彼女が焦った様に駆け寄ってくる。その顔が滅多にないほど青褪あおざめていて、リヴェルの顔も改まった。


「どうした、ステラ。落ち着いて」

「きん、ぎょ」

「きん、ぎょ、……金魚? 金魚が、どうしたんだ」


 ふるっと、すがる様にステラがリヴェルの腕に触れてくる。先程とは違う優しい熱に、自分の手を重ねて彼女の手をさすった。

 それで少しだけ落ち着きを取り戻したのか、青い顔のまま懸命に伝えてくる。


「金、魚」

「ああ」

「……金魚が、いない」

「――」


 一瞬、言われた意味が分からなかった。かなり間の抜けた顔をさらしてしまっただろう。

 だが、それでは話が進まない。辛うじて残っていた声の欠片かけらを、リヴェルは懸命に外にしぼり出した。


「……、え?」

「私が、散歩から戻ってきたら、……金魚、二匹とも、消えてて」

「―――――」


 今にも崩れそうな彼女に、リヴェルは必死に足を踏み締める。

 一緒に自分も崩れ落ちてしまいそうだったが、彼女のためにも、何より自分のためにも、今は落ちるわけにはいかない。

 だが。



 金魚が、いない。



 その内容に、言い知れぬ嫌な予感が胸を浸していった。


「金魚がいないのか。水槽は、あるのか?」

「うん。金魚だけ、逃げた様に。……リヴェル、ごめんなさい。あなたからもらった金魚まで」

「落ち着いて、大丈夫だ」


 震える彼女の手を、なるべく刺激しない様に握り締める。

 金魚が、自ら勝手に逃げるはずがない。水無しでは生きられないのだ。

 ならば、誰かが侵入したと見る方が間違いない。

 だが、その後、どこに。何の理由で。

 そもそも、どうしてステラの金魚を――。


「ステラの、……。金魚」


 ステラが飼い始めた金魚。キッカケ。始まりの場所。

 ステラを狙っている存在は、そういえばまだ捕まっていないのだ。その存在が、金魚を奪っていったのだとしたら。

 金魚にまつわる場所は。



「……、裏庭」



 突然脳裏に、裏庭の光景が浮かぶ。

 根拠など無い。

 だが、言葉にはしがたい知らせ、というものにリヴェルには思えてならなかった。


「裏庭に行こう、ステラ」

「裏庭?」

「ああ。何となく、……。……悪い、みんな。先に食べててくれ。――行くぞ!」


 彼女の手を取って、食堂を飛び出す。

 不安が加速度的に膨張していく。正直、確かめに行きたくもない。

 だが、そんなことでは真っ向から誰にも、何にも向き合えなくなる。

 だから。



 ただ、今は金魚の行方だけを追って、リヴェルはひたすらに裏庭を目指して駆け抜けた。








 ステラと共に飛び出したリヴェルを目で追って、エルスターは小さく嘆息した。

 二人はすっかり食堂で注目の的となってしまっていた。彼らが噂の中心になるのも、そう時間はかからないだろう。

 隣のマリアはというと、何となく不安気に入口とクラリスを交互に見つめていた。

 当然だ。エルスターとしても、恐怖さえ入り混じってしまっている。

 この、不安と動揺が広がる中。


「……クラリス」

「うん。なあに?」



 ただ彼女一人、底抜けなまでに表情が明るい。



 ステラを見るのも苦しいはずの彼女が、どうしてそんなに弾んだ様ににこやかでいられるのか。

 彼女は、昨夜宣言していた。リヴェルに告白し、大胆になると。だから席を替わり、リヴェルにアプローチをするまでは百歩譲って良いとする。

 実際は全く雰囲気的によろしくなかったが、その後だ。

 リヴェルとステラが話している間。そして、二人を見送ったクラリスの横顔に狂気を感じた。



 ――彼女は、笑っていたのだ。



 血相を変えてやってきたステラを。それを慰めるリヴェルを。悲痛な顔ではなく、むしろ愉快そうに眺めていた。

 何故、そんな表情を浮かべるのか。

 昨夜から、糸が切れた様に彼女の様子が異常だ。どこか、壊れてしまった様な風にさえ思える。

 そう。壊れて――。



 ――まさか。



 そこまで思い至って、エルスターは割れる音を遠くに聞く。最悪の予想を思い浮かべながら、エルスターは一つ彼女に確認した。


「クラリスよ」

「うん。なあに?」


 振り返ってくる彼女の反応はいつも通りだ。

 しかし、一貫して変化が無いその様子が、エルスターの恐怖をあおっていった。



「お前さん。……今朝、一体どこへ行っていたのだね?」



 これは、最悪の予想の前段階のものだ。

 出来ることならば裏切って欲しい。こんな予想は当たって欲しくない。

 しかし。


「えっとねー」


 彼女はにこやかに、楽しげに、歌う様に打ち明けてくる。

 その内容に、エルスターは世界が静かに暗転していく瞬間を、目撃することになった。


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