第28話
「あんたの母親は、金のためにあんたを切ったんだよ」
母に捨てられてから三ヶ月。
住んでいた家に無断で帰ったリヴェルは、連れ戻された後、祖母にそう告げられた。
「手切れ金として束を積んだらね、もう踊り狂った様に手の平を返したよ。あんたにも見せてやりたかったね」
幼いリヴェルに向かって、祖母が嫌みたらしく事実を言い聞かせてくる。
嘘だ、と叫びたかったが、あの更地を見た後では何も反論が思い付かなかった。同時に、家を出て行く時の母の罵倒が脳裏に反響し、視線が次第に下がっていく。
「分かったら、もう二度と馬鹿なことを考えるんじゃないよ。あんたは、ここで一生奴隷の様に生きていくしかないのさ。両親の罪を、その身で償うんだね」
今思えば、何て理不尽な要求だろうか。
しかし、一方で、それだけ両親が傷付けた人達もいるのだろうと想像する。
母の存在を、本妻はどう思っていたのか。祖父が父に味方をすると知った時、祖母の心はどれほど千切れ、切り刻まれただろうか。
もちろん、そんな理屈で自分の傷が塞がるわけでもない。
ただ、誰もが捨てた自分の行き場が、他には無いことも十二分に知り尽くしていた。
だから、祖母に従う。
将来は、祖母が決めた人と結婚し、子供を作り、役目を終える。
そう決めて、十数年。大学院に入学した時も、それが変わることはなかった。
なのに。
〝あなた、――死ぬのは、恐い?〟
あの夜。
その漠然とした決意は、全て無残に
さらさらと、夕暮れの中に風が吹き抜ける。
裏庭で猫と戯れ、頭上から柔らかく降り注ぐ日差しを浴びながら、リヴェルはごろんと寝転がった。
一日の終わりを告げる優しい茜色が、鮮やかに世界を照らす光景が美しい。そんな一枚絵の様な中に身を置くなんて、何とも
ごろごろと喉を機嫌良く鳴らしながら、猫が数匹自分にのしかかってくる。お腹の上で丸くなる猫や、自分の肩にすりつけながら丸まる猫達の可愛らしさに、リヴェルの頬もだらしくなく緩んでいった。
「んー、君たちは本当に愛らしいな。大好きだ!」
「……、お前さんの猫からのモテっぷりには、時々脱帽するのだよ」
すぐ傍から、心底呆れ果てた声が降ってきた。過剰なまでに過保護になるとウィルに宣言していた、エルスターである。
彼は、あの日から宣言通り、可能な限りリヴェルの傍を離れなかった。彼の自由を奪っていることに気が引けたが、同時に今、誰かが傍にいてくれる状況に安堵している自分もいる。
何て、醜くて女々しい感情だろうか。
自分の醜悪さにほとほと愛想が尽きたが、どうしても拒絶は示せなかった。
「エルスターも、猫と遊ばないか? 癒されるぞ」
「別に、僕は毛むくじゃらにはなりたくないのだよ。『これ』もあるし、充分だね」
鞄の持ち手を指し示しながら、エルスターは開いていた本に視線を落とし続けている。
彼が指したのは、マリアからもらったあざらしのマスコットだ。ぷらんと、愛らしく吊り下がり、奇しくも彼の方を向いて笑っていた。
――そういえば、彼はマリアからもらえると知って、手の平を返していたな。
最初は可愛すぎると文句を言っていたのに、クラリスから「マリアがプレゼントする」と聞いて、焦りながら前言を撤回したのだ。
考えてみれば、エルスターはマリアとの会話では時折挙動不審になる。マリアも、彼と自分とでは、時々反応が違った。
何というか二人共、浮き足立っている様な、じれったい様な、もどかしい感じがする。
それは、果たして自分の気のせいだろうか。
否。
〝いつか、きっと。『ああ、こういうことか』と〟
きっと――。
「なあ、エルスター」
「何だね」
「君は、マリアと仲が良いよな」
「ぐっほ!」
いきなり彼が
だが。
〝リヴェル君は、そろそろ察しが良くなろうよ〟
前に、クラリスが指摘していたのはこういうことなのだろうか。
胸を叩いて息を整える彼の姿に、何故か強い
「な、ななな何だね! いきなり! 僕は、クラリスとも、お前さんとも仲が良いつもりだがね!」
「ああ、うん。それは否定しないけどな」
「だ、だったら、何故マリアなのかね。別に、彼女とは特に何も」
「好きなのか?」
「ぶっほおおおっ!」
リヴェルの口からついて出たのは、ほぼ無意識だった。
だが、彼は異常なまでに反応した。今度は、ごほごほと勢い良く咳き込んでいる。
――ああ、そうか。
すとん、と胸の中に在るべきものが収まっていく。
何と分かりにくいのだろう。
そう思ったが、すぐ、何て分かりやすいのだろうと微笑ましくなった。
「そっか。うまくいくといいな」
「だ、だだだだから! 別に、僕は!」
「いいじゃないか。好きって分かってるんだからさ。……俺は、よく、分からないからな」
羨ましい。
ぽつんと、染みの様に言葉が落ちる。
エルスターが、あからさまに眉を
「ごめん」
「何故、謝るのだね」
「……怒ってるみたいだからさ」
「何に怒っているのか分からない内に、謝るべきではないのだよ」
ぱたん、と本を強く閉じて、エルスターがこちらに向き直る。
だから、自分も猫を抱いて身を起こした。にゃあっと、猫が察した様に自分から下り、
「お前さんは、自分の気持ちを素直に表現するくせに、肝心なところで弱虫だね」
「……、そう、だな」
「そこまで自覚しているのに、見ない様にするのは何故だね? 僕が、魔女殿をよく思っていないからかね」
「え」
何故、そこで彼女が出てくるのだ。
「それとも、自分は恋などしないと、呪いの様に縛り付けているからかね」
「……っ」
何故、それを。
問い質したかったが、彼は頭の回転が速い。
リヴェルが実家で置かれている状況も知っているし、学院内での生活で、自分が周囲からどんな目で見られてきたかも当然気付いている。知らず内に、己の言動から漏れていた可能性も捨てきれない。
ならば、自分が祖母に逆らってまで我を通すことなど考えない。そんな風に戒めていることを推測しても、おかしくはなかった。
「……、俺は」
「それとも」
まだあるのか。
勘弁してくれと頭を
しかし、すぐに後悔する。
「好きになってから、相手に捨てられるのが恐いのかね」
「――――――――」
一瞬、瞳を
懸命に瞬きをして世界に光を取り戻せば、彼の翡翠の双眸が真っ直ぐに自分を射抜いてきていた。
逃げることなど許さない。
そんな風に、目は物語っている。
ひやりと、背筋に冷たいものが流れ落ちた。
「こわい、って、……いや。何でだ?」
「この前、お前さんが言っていたではないか。一人にしないでくれ、とね」
「っ」
〝いつか、俺を、置いていくのか〟
失言だった。
ステラに追い付けなかった夜が、鮮明に目の前に甦る。思い出したくもないのに、心に反して脳は正確にあの日の出来事を映し出した。
追いかけても、姿が見えない。静寂が嘲笑する様に、彼女の音を消し去ってしまった。真っ暗な空白だけが全てだと、今でも自分の前でせせら笑う。
置いていかれた。捨てられた。
好きだったのに。友人だったのに。
ああ。
そうだ。
〝母さん。まって、母さん〟
自分は、置いていかれたのだ。
〝ねえ、母さん……っ〟
自分は、捨てられたのだ。
母は、自分達が暮らしていた幸せの証さえも綺麗に消し去っていった。まるで、自分なんかもういらないと高らかに宣言する様に、追いかけることさえ許されなかった。
そんな
〝命を粗末にする子、愛する価値もないわ〟
「――っ」
不意に響いた母の声が、自分の心を激しく突き刺す。
目の前では、エルスターの視線が絡め取る様に強く追いかけてきた。真っ直ぐに突き刺しながらも、するりと心に入り込む様な感触を覚える。
そう。
自分を、内側から暴く様に。彼の視線が静かに、撫でる様に入り込んできた。
ぞわりと、体の中から見られている感覚に心ごと粟立つ。
「……っ、そ、……」
嫌だ。
――見ないでくれ。
彼の視線から逃れる様に、ばっとリヴェルは下を向く。頭も心もぐちゃぐちゃになりながら、必死に壁を突き出した。
「……そ、そんなの、推測だろ。別に、俺は。……自由が、無いからっ」
「その気になれば、今のお前さんには味方がいるではないか。僕もその一人だ。後押しくらい出来るのだよ」
「……っ」
「さて、どうするかね。まだ抵抗を続けるかね? 言っておくが、お前さんはそこまで相手を煙に巻くのは、達者ではないのだよ」
「――」
そんなことは、自分が一番よく知っている。
だからこそ、今まで黙って、笑顔で乗り切ってきたのだ。
相手を口で言い負かすことは無理だから。笑いたくもない相手に笑顔でやり過ごし、黙々と力をつけ、何も言えなくする。生い立ち以外の陰口を封じるには、これしか方法が無かった。
なのに、何故か彼には通じない。どんどん周りを封鎖され、逃げ場が無くなっていく。
エルスターは女性陣には弱いが、リヴェルには容赦しない。このままだと、何もかも洗いざらい暴かれてしまう気がする。
だが、今、心を引きずり出されてしまったら。
自分は。
〝……、おかあ――〟
「――っ!」
――嫌だ。
恐い。
「……、なあ、もうやめないか」
「何故だね」
「何故、って」
詰まった言葉に、溜息を吐かれる。
その溜息がひどく
「お前さんは、いつもいつも本当の願いは話さないね。今までは、言えるところまでで良いと言ってきたけれどね。そろそろそれも飽きたのだよ」
「……っ、エルスター」
「どうせ駄目だ。どうせ無理だ。恋だけではない。今の友情も一時のことで、卒業すれば全て終わる。……諦めてばっかりのお前さんのことだ。そんな風に考えていたんだろう」
「……、やめろ……」
「そうやって、何もかも諦めているお前さんに、いつも腹が立っていたのだよ。だから、いい加減に引導を渡してやろうと思ってね」
「やめろっ」
拒絶をする自分の声に、しかし力がこもらない。
それなのに、彼の視線には徐々に力がこもっていく。ただでさえ苛烈な強さに、空気ごと震えた。
――もう、やめてくれ。
叫ぶのに、声は音にはならない。
空気だけが震える様に委縮する中、エルスターは静かに、しかし力強くリヴェルの心に土足で踏み込んできた。
「さて。もう一度聞こうか」
質問ではない。ただの確認だ。
暴かれる予感がして、頭を振る。
「……っ、いやだ」
視線の強さに、思わず一歩分
彼は、一歩も動いてはいない。なのに、見つめてくる翡翠の瞳だけが、逃がさないと近付いてくる様だった。
〝おかあ――〟
「――っ!」
聞こえそうになった声を無理矢理振り切る。
だが、彼の視線は知ったことかと無慈悲に追いかけてきた。逃げたいのに逃げられないその予感が、一層恐怖を
――嫌だ。恐い。
暴かれるのは嫌だ。気付くのは嫌だ。
そんなことをしたら、もう生きていけなくなる。せっかく傷を無理矢理縫い止めて、心を凍らせて生きてきたのに。
それなのに、また傷を開いたらどうなる。今度こそ、壊れてしまうのではないか。
生きるために塞いだのに。
〝父さん、母さん。俺も、……――――――――――?〟
せっかく、――のをやめたのに。
「……、嫌だ」
やめてくれ。
「リヴェルよ」
「――っ、やめてくれ……っ、……やめろ……」
頼むから。これ以上。
「お前さん。一人になるのが、恐いかね」
「――やめろっ!」
――俺の心に、入ってくるなっ!
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