第21話


 ざっ、ざっ、と静かに土を踏みしめる音が二人分並ぶ。

 リヴェルは、猫の餌を買って店を出てから、ステラとそのまま裏庭に行く運びとなった。

 少し不機嫌そうだったエルスターとは、その場で別れた。

 どうして、と問うたら、「用事ができたのだよ」としか答えてはくれず、さっさと背を向けてしまった。


 ――やはり、ステラとの間には何かある。


 気付いてしまって、心が不可解なもやの中に沈んでいく。恐らく、マリアが知っている内容は真実ではない。

 なのに。



〝ならば、今はもう何も言わないのだよ〟



 彼は、ステラとの付き合いを止めろとは言わない。

 思うところは多々ありそうなのに、彼は自分の意思を尊重してくれる。大切にされているのが伝わってきて、どうしようもない無力感に苛まれた。

 いつか、話してくれるだろうか。



〝お前さんのそういう誠実さが、僕は好きなのだよ〟



 前に、魔法使いに絡めて質問をぶつけてきた時に、告げられた言葉。

 エルスターが魔法使いだったら、どうするか。何故、そんな問いを投げかけてきたのか。

 その真意を、知らないままなのは苦しい。


「――にゃあん」

「……、あ」


 いつの間にか、猫が複数足元にすり寄ってきていた。

 見渡してみると、既にリヴェルは裏庭に到達していたらしい。ぼんやりと考え事をしていても辿り着けるとは、随分ずいぶん歩き慣れたという証拠だ。

 その間、ステラは一言も喋らなかった。

 変に思わなかっただろうかと心配にもなったが、彼女も横顔が少し陰っている。自分と同じく、考え事をしていたのかもしれない。



〝彼が、君に教えてくれるじゃろう。焦らなくても良いからの〟



 ステラが投げかけた『恋』というお題の解答は、自分が持っている。



 店のおじいさんは、確かにそう断言した。確信しているらしいその自信に、身に覚えのない自分はかなり混乱して、その後どんな会話をしたかも記憶にない。

 何故、彼は自分が解答を持っていると断定したのだろう。

 自分は、恋をしたことが無い。女性と付き合ったことも無かった。祖母が厳しい人だったからだ。

 否。それだけではない。



 いずれ、祖母が決めた人と結婚し、跡継ぎを残し、それで終わる。



 それが、自分に与えられた人生だ。散々にぶたれ、怒鳴られ、身をもって教え込まれ、長い長い年月をかけて恐怖や服従を植え付けられた。逆らうことなんて、とうに諦めたのだ。

 祖母の喜ぶ顔が見たいと、本当に初期の頃は思っていたが、すぐに願いはついえた。

 それに。



〝――おかあさん〟



 それに――。



「リヴェル」

「っ」


 近くで名を呼ばれ、顔を上げる。また思考に沈んでしまったと、額に手を当てて反省した。


「ごめん、何だ?」

「猫。さっきから訴えまくってる」

「え、……あ」


 にゃあにゃあと、忙しなく猫達が足元を這い登ろうとしている。

 恐らく、手元にある餌を嗅ぎつけているのだろう。彼らは、食に対する欲求が強い。


「あー、ごめんな。今やるから、ほら、慌てるなよ」


 しゃがみ込んで、早速袋を開ける。

 猫達はというと、その動作を見ても大人しく行儀よくお座りをしていた。日頃のリヴェルの言い聞かせを、きちんと守っているらしい。良い子達で、頬が緩む。最高の子達だ。


「みんな、仲良くな。……今日は、エサ入れ忘れたからな。手からで、いいか」


 癖になるといけないのであまりやらないが、器が無いのだから仕方がない。

 餌を左の手の平に乗せ、猫の口元へ持っていくと、すぐにがっつき始めた。瞬く間に無くなっていくので、量を加減しなければと慎重になる。


「ほら、順番は守れよ。次は君だからな。よーしよし」


 一匹ずつ与えていく合間にも、彼らは順番待ちをしている。かなり行儀が良いなと感心しながら、リヴェルは次々と与えていく。

 それを、隣のステラもじっと見守っていた。金魚の水槽は脇に置いているが、猫達はもちろん見向きもしない。心配は無さそうだ。


「リヴェル、すごい。みんな、食べてく」

「はは、まあ慣れてるからだろうな。ステラもやってみるか?」

「……いいの?」

「ああ。ほら、手を出して」

「ん」


 素直に右手を差し出される。

 綺麗で細い指だなと一瞬だけ見惚みとれて、ふるふると小さく頭を振った。何故ここで見惚れるのだと、己の頭を岩で殴り付けたくなる。

 零れない様に彼女の手の平に乗せてやると、彼女はそろそろとおっかなびっくりに、順番待ちをしていた猫の前へ手を伸ばした。

 始め、リヴェルからではないので猫は警戒した様だ。ふんふんと、しばらく餌を嗅いでいたが。

 やがて。


「……、あ」


 ばくっと、躊躇いなく食べ始めた。

 瞬間、ステラの顔が華やいだ気がする。いつも無に近い表情に変化があったことに、自然と目が留まった。


「食べた」

「ああ。良かったな」

「うん」


 やはり嬉しそうに、じっと彼女は手の平の猫を見つめる。

 あまり表情に変わりは無い。

 だが、確実に彼女の横顔は明るくなっていた。

 最近は、よく顔を合わせていたからだろうか。その変化に気付けたことに、喜びを覚える。

 そうして、餌をやりながら、ゆったりと過ごしていると。


「……っ、ひゃっ!」

「えっ!」


 いきなり高い悲鳴を上げられて、どきっと体ごと跳ねた。初めて聞く可愛らしい声に、リヴェルの心臓が早鐘を打つ。


「ど、どうした?」

「く、くすぐったい……」

「っ、あ、ああ。そうか。猫、舌を使うからな!」


 無理矢理声を大きくして、むずむずする羞恥を追い払う。

 別に、彼女の声は常も低くはないが、高いわけでもない。

 だから、急に声が高くなったことに驚いた。それだけだ。何も不思議なことではない。

 しかし。



 ――可愛い、声だったな。



 男性では、ああは出ない。女性特有の可愛らしさに、まだ心臓がばくばくと暴れ回っていた。


「……っ」


 ちらっと、彼女の横顔を垣間見る。餌やりに必死な彼女が、自分の視線に気付かないのを良いことにしばらく眺め続けた。

 彼女は、いつも無表情で分かりにくいし、纏う空気に綺麗な迫力があってそちらにばかり目がいってしまう。


 だが、彼女はとても可愛い顔立ちをしていると思う。


 恐らく、単純な綺麗さではマリアの方が。可愛さで言えばクラリスの方が、世間一般では評価されるかもしれない。確か、モデルに誘われたことが一度や二度ではない、と言っていた。気がする。

 しかし。



 ――彼女は、誰よりも綺麗だと思う。



 初めて見た時から思っていた。

 凛と鳴り響くほどに涼やかな空気を纏い、堂々たる佇まい。黒いコートを翼の様にはためかせ、空から降り注ぐ陽光を弾きながら歩く姿は、芯の通った一本の大輪を思わせた。

 彼女の生き方が、そのまま反映されているその姿に自分は目を奪われた。



 彼女をまとうその空気ごと、美しいと心から感じたのだ。



 そんな印象を抱いたのは初めてのことで、だからこそずっと彼女が気になっていた。

 色々衝突したり、自分の方から勝手に落ち込んだりしたが、それでも彼女との縁を断ち切りたくは無かった。

 そして、時間を経るごとに、新しい彼女を知っていく。


 相手の言葉にとても素直なところ。

 自分の感情に非常に真っ直ぐなところ。

 傷付けたら、悪いと思って謝るところ。

 誰かが危険だと思えば、助ける優しいところ。


 猫に触れる時に、おっかなびっくりだったところ。

 触れたら、嬉しそうに目を輝かせたところ。

 パイを食べさせた時に、笑ったところ。

 飼っていた金魚を、可愛いと思い始めたところ。

 猫が手ずから餌を食べて、嬉しそうに華やいだところ。



 彼女は、魔法使いだ。



 命のやり取りをしてきた、戦乱を生き抜いた人。

 元同士でも、無表情で危険なら始末をする人。

 人の心の機微には鈍感で、常識がかなりずれている人。

 だが。



 ――リヴェルの目には、今の彼女は普通の女の子に映った。



 嬉しければ笑い、くすぐったければ悲鳴を上げる。

 猫に触れて喜んで、可愛らしく触れ合う。

 本当に、普通の女の子だ。


「リヴェル」

「……、ああ、何だ?」

「餌」

「え。……ああ、ごめんな」


 猫が物言いたげに見上げているのを認識して、慌てて自分と彼女の手に餌を乗せる。

 そのまま、猫達に一通り餌を与え、触れ合いの時間に突入した。ごろごろと肩に登ってくる子や、あぐらをいた膝に乗ってくる子に笑いながら、のんびり堪能する。

 遠くでは、ゆっくりと空の色が濃く染まっていく。ちらちらと星が瞬き始め、夜の訪れを告げ始める。

 夕方と夜が混じるこの時間帯は、本来は混じり合わないはずの陽光と星の輝きの共演が見える。とても幻想的で、リヴェルはこの景色が好きだった。


「リヴェル」


 夜の気配を感じていると、名を呼ばれた。

 何だ、と声なく振り向けば、ステラは真っ直ぐに見つめてくる。

 彼女は、いつだって真っ向から向き合ってくる。その姿勢はリヴェルには無いもので、敬意を抱く一面だった。


「リヴェルは、恋をしたことがないの」

「……っ、ぐ」


 痛いところを突かれて、頬を掻く。適当に誤魔化したかったが、彼女に通用はしないだろう。


「ま、まあ、な」

「どうして?」


 そこを聞くのか。


 まあ、彼女なら聞くだろうなとリヴェルの目が一本の線になる。悟りを開いた者は、こんな穏やかな心境になるのだろうか。

 致命的な急所ではあるが、答えないわけにはいくまい。

 どうしようかと迷い――結局、素直になることにした。嘘を交えるわけには、いかない。


「俺、愛人の息子なんだ」

「あいじん。そういえば、あのひどい男たちが言っていた」

「ん、んー。まあ、そうだな」


 いつかの中庭での出来事だ。

 彼女は、きちんと覚えている。何となく嬉しくなって、ぱたぱたと気持ちを散らす様に右手をばたつかせた。


「今の法律ではさ、奥さんは一人って決まってるだろ」

「うん」

「俺も賛成だ。相手に対して失礼だもんな」


 王族は例外的に許されているが、それは跡継ぎを残すという意味合いが強い。

 昔の貴族もそうだし、同じ意味を持っていただろうが、内情は定かではない。知りたくもなかった。


「だから、俺の両親は、悪いことをしたんだ」

「……リヴェル」

「ただ、悪いことをしたんだけど。……元々は、母さんが、俺の父さんと結婚するはずだったんだってさ」


 しかし、母の家柄は低かった様だ。

 対するライフェルス家は、政界でも多大な影響力を持つ大貴族。特に、祖母の反対が強く、無理矢理父の結婚相手を決め、別れさせたと聞いていた。


「父が結婚した頃には、既に俺が母の中にいて。長子なんだ」

「本妻? の子は?」

「いない。本妻は結婚してすぐに大病を患って、そのまま亡くなったって聞いてる」


 その後、祖母はもう一度父を有力な娘と結婚させようとしたが、父が猛烈に反対したらしい。制止を振り切って、週に三度、母と自分に会いに来る様になった。

 初めは祖父も、祖母の意思を尊重しようとしていたが、息子である父の熱意に負けたらしい。そこまで大事に思っているならと、協力的になった様だ。


「それでさ。もうすぐ、一緒に住めるかもしれないって。楽しみにしてたんだけど」


 これからは愛人の子としてではなく、きちんとライフェルス家の子として生きていける。

 そんな風に喜び合ったのも、つかの間。


「金魚が、死んだんだ」

「……? 前に、聞いた」

「ああ。父さんが、大切にしろって、父さんだと思って育ててくれって。そう託された金魚、殺しちゃったんだよな」


 そうしたら。


「その直後に、父さんとおじいさまが死んだ」

「……」

「俺は、子供心に思ったよ。金魚を殺しちゃったから、大切にできなかったから、父さんもおじいさまも死んだんだってな」


 子供の理屈だ。しかも、滅茶苦茶な理論である。

 実際はそんなはずがない。

 だが、分かっていても、刻み付けられた傷跡は決して消えなかった。


「父さんの死を告げにきたおばあさまが、その日に俺をライフェルス家に連れて行った」

「……、お母さんは?」

「母さんは、……それを聞いた瞬間、俺を、捨てた」

「え?」

「憎みながら、捨てた」



〝命を粗末にする子、愛する価値もないわ〟



 金魚が死んだから、罰が当たった。

 怒涛どとうの如く自分に罵声を浴びせ、突き飛ばした。


「俺、最初信じられなくてさ。母さん、母さんって、みっともなく服を掴んで。そしたら、思い切り振り払われた」

「……、」

「尻餅何度もついてさ。それでも追いすがったら」



 ばしんっ、と頬を強く叩かれた。



 じんじんと、遅れて熱が頬に広がっていって、呆然と手で押さえる自分を見下ろし、母は言い捨てた。



〝出ていけ〟



「――今すぐ、ここから出ていけ」

「――」

「物凄い形相で睨み付けて、俺を捨てた」



 まだすがる様に居座る自分に、母は足を振り下ろした。

 その足は、自分のすぐ横を踏み付けたが、鋭い風が自分の肌を切り裂く様な悲鳴を上げて、痛くてたまらなかった。


「今度は踏み付ける。気が変わらない内に、早く出て行け」

「……、リヴェル」

「俺はもう、抵抗できなかった」


 祖母に掴まれるまま、車に乗り、家へ連れて行かれた。

 その時だけは、泣き通しの自分を責めるでもなく、祖母も黙ってくれていたのは懐かしい。


「三ヶ月経っても、慣れなくて。おばあさまは恐いし、失敗したらご飯抜きにするし、倉庫に閉じ込めるし、髪は引っ張るし。家の者たちはおばあさまの言いなりで、必要最低限の会話しかしてくれないし。ほんと、辛くてさ」

「……」

「だから、家出したんだ」

「家出」

「もう一度、母さんに会いに行ったんだ」


 おぼろげに覚えている道筋を辿って、懸命に探した。

 そうして、見慣れた街並みに到着し、必死に家へと走った。

 母さん、母さん。

 呪文の様に唱えて、辿り着いて。

 けれど、そこに在ったのは。



「空き地だった」

「―――――」

「家が、綺麗に更地になって。無くなってたんだ」



 だだっ広い大地だけが、ぽっかりとその空間を埋めていた。

 素朴だが、真っ白で清潔な家だった。小さいけれど、あったかい空気と優しさに溢れた、幸せな箱庭だった。

 なのに。



 全部、夢だったのだと。



 そう嘲笑うかの様に、在ったはずの幸せは一欠片ひとかけらも残されてはいなかった。


「母さんが、消えていた」

「……」

「今も、どこに行ったか知らない。生きてるのか、死んでるのかも」


 その後、すぐに探しに来た家の者に見つかり、祖母にはこっ酷く叱られた。ご飯は当然抜きだった。

 空腹と悲しみでごちゃ混ぜになって、熱まで出してしまって。悪態を吐かれながら祖母に看病されるという、最悪の事態にまで陥ったのはなかなか苦い想い出だ。


「……リヴェルは、どう思ってるの」

「ん?」

「お母さんが、言ったことや、いなくなったこと」


 踏み込んでくる。自分の奥に。

 彼女なら予想出来たことだ。疑問に思ったことは、素直に口にする。そういう人だ。かなり痛い部分にまで土足で踏み入ってくるから、息苦しい。

 ただ、きっと。上辺だけの言葉で取り繕われるより余程良い。

 だから、今も話した。



 ――そして、これから話すことも。恐らく、そういう彼女だから話すのだ。



「……俺さ、今はこう思ってるんだ。……母さんは、わざと俺に嫌われようとしてたのかなって」


 未練なく、自分がライフェルス家に行ける様に。

 これは、空想だ。希望的観測が多分に含まれている。

 だが。


「……、どうして」

「俺が、不自由なく暮らしていけるようにさ」


 自分達は、父の援助で暮らしている部分があった。それは、母が自分に、父のしていることを教える意味もあって、言い聞かされていたから知っていた。

 父がいなくなって、母と二人になる。そのままいけば、暮らしはそれまでよりも悪くなっていただろう。容易に想像が出来た。


「ライフェルス家に行けば、少なくとも衣食住には困らない。身分も保証される。愛人の子って馬鹿にはされるだろうけど、母と暮らしていくよりは風当たりは強くないって思ったんじゃないかな」


 当時、父が通っていることを知っていた近所の連中は、ひそひそと陰口を叩いていた。子供の耳にまで入ってくるのだから、母は相当精神的に追い詰められていただろう。

 父が、死んだ。これからの未来の保障は無い。

 だから、自分の子だけは。

 そう思って、わざと突き放したのだとすれば、あれだけ母の態度が様変わりしたのも頷ける。


「まあ、全部俺の希望だけどさ。……心の中では、本当はやっぱり俺のこと、憎かったんじゃないかって思ってもいる。俺も……やっぱり時々、恨んでしまうこと、あったしな」


 どちらが本当か。

 そんなのは、本人以外知る由もない。聞く機会ももう、永久に失われてしまった。

 けれど。


「でも、そうじゃなきゃ、あんな短期間で家ごと全部失くしていったりしないかなって思ったんだ。だから、……希望だけど、そう思うことにした」

「……」

「せめて、生きてくれていればなって。今は、それだけ願ってるよ」


 ――本当は、もう一度会えたら。


 そんな祈りを抱えていても、世の中はままならないことだらけだ。

 母の消息を追うのは難しい。祖母も、決して許しはしないだろう。



 もう、きっと一生会えない。



 予感はあって、氾濫はんらんしそうな願いには蓋をした。


「まあ、そんなことがあってな。それに、今は結構無くなってきてるけど、やっぱり陰口は叩かれるし。何か、恋しようって気にもなれなかったんだよ」


 恋をしても、両親の様に引き離されるのだろうか。

 そもそも、祖母が認めてくれないだろう。自分は、祖母の所有物なのだから。

 そう考えると、どうしても二の足を踏んでしまった。


「だから、――」


 力いっぱい笑顔を作って振り返り――言葉が引っ込む。頭に、温かな感触を覚えたからだ。



 彼女の手が、いつの間にか自分の頭の上に伸びていた。



 そのまま、よしよしと聞こえてきそうな仕草で、リヴェルの頭を撫でている。

 呆然としながらも、そろそろと、どこか恐々とした撫で方に、急激に胸の内が熱く込み上げてきた。


「な、何だ? ステラ、どうし」

「何となく、こうしたかった」

「……」

「リヴェル、気持ち良い?」

「―――――」


 次第に、そろそろとした感触が、優しいものに変わっていく。

 恐らく、猫にするのと同じ様な感覚なのだろう。彼女自身が、自分に撫でられて気持ち良かったと言っていた。故に、それを真似しただけなのだろう。

 彼女に、特に他意は無い。ただ、撫でたかったから撫でた。それだけだ。

 けれど。



「……っ」



 胸の内に込み上げてきたものが、目の奥にまで一気に駆け上がった。熱くなって、ぼろっと、何かが心から零れ落ちる。


「……っ、ごめん」

「……」

「貸して、くれないか」


 何に断っていたのだろうか。

 分からないまま、リヴェルは彼女に腕を伸ばす。抱き付く様に引き寄せ、肩に顔を埋めた。

 彼女は突然の行為に一瞬だけ戸惑った様に揺れたが、恐る恐る背中に腕を回してきた。

 ぽんぽんと、頭と背中を優しく撫でられる。そのリズムが心地良くて、溢れる熱が止まらない。


 最後に、頭を撫でられたのはいつの頃だっただろうか。


 父が、死ぬ直前だったか。それとも、もっと前だっただろうか。

 あの頃は、父も母もしょっちゅう自分を抱き締め、頭を撫でてくれていた。それが恥ずかしかったけれど、同時に嬉しくもあって、二人にねだったこともあった。

 だが、あの別れの日から、ぱったりと無くなった。誰かと触れ合うことも、まるで無かった。

 だから。



 こんな風に、誰かに撫でてもらう温もりが。ここまで優しいことを、今の今まで忘れていた。



 ――なあ、母さん。



 頭に触れる温もりを通して、問いかける。



 本当は、自分のこと、やっぱり憎んでいたのだろうか。

 それとも、希望通り、わざと突き放したのだろうか。


 どうして、自分を置き去りにしたんだ。

 どうして、姿を消したんだ。

 どうして、会いに来てくれないんだ。

 どうして、――。



 呼びかけても、答えは返ってこない。かつての温もりは、ずっと昔に置き去りにされたままだ。

 だが、今ここには同じ様に――いや、それ以上に、優しくて温かな熱が在る。



 自分が求めていたものは、この温もりだったのだろうか。



〝いつか、きっと。『ああ、こういうことか』と悟る日がくるよ〟



 分からないまま、けれど求めるまま。

 リヴェルはしばらく、彼女から与えられる手の温かさに、身を委ねていた。


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