第11話


「おかあさん」


 幼いリヴェルは金魚鉢を抱え、キッチンで食事の準備をする母の元へ向かった。


「あら、なあに? どうしたの」

「……金魚が」


 先を続けられなくて、口を噤む。

 手元を眺めて察したのか、母が料理を中断してしゃがみ込んできた。痛ましそうに金魚鉢の中に注がれる視線が、一層自分を追い詰める。


「金魚が、死んだ」

「……リヴェル」

「俺のせいで、死んじゃったんだ」


 餌をやり過ぎたのだろうか。水をこまめに換えなかったからだろうか。

 原因は色々思い当たるが、先程金魚の様子を見た時には、もうぷかりと水面に浮かんでしまっていた。ぱくぱくと可愛らしく動いていた口も、びくともしない。


〝大切にするんだぞ。父だと思って!〟


 せっかくプレゼントしてくれた父の金魚が、死んでしまった。


「……、ごめん、なさい」


 ぎゅっと、金魚鉢を抱く手に力がこもる。ぽたぽたと目尻から零れ落ちる滴が、次々と服を濡らして止まらなかった。

 どうして大切に出来なかったのだろう。父から託された、大切な金魚だったのに。

 一つの命が失われたショックで、これ以上何も言えなかった。ただひたすらに、浮かんでいる金魚を見つめる。


「リヴェル。ほら、顔を上げなさい」


 母が頭を撫で、優しく呼びかけてくる。

 うながされて顔を上げれば、母は愛しそうに自分を見つめてきた。次いで、金魚に視線を落とし、悲しそうに微笑む。


「大丈夫よ。金魚はきっと、あなたを恨んでなんかいないわ」

「……、どうして?」

「だって、あなたが泣いているから」


 死んでしまったことを、嘆いて、後悔しているから。


 あやす様に、子守唄を歌う様に、母が自分の背をぜる。

 よく意味が分からなくて首を傾げると、母は金魚鉢ごと抱き締めてきた。


「自分が死んだら、泣いて、悲しんでくれる人がいる。それって、とっても嬉しいことだから」

「……、そうなの?」

「ええ。……だから、忘れないであげて。この金魚を、本当に大切にしているのなら、覚えていてあげてちょうだい」



 それがきっと、一番の供養になるから。



 その時の母の言葉は、幼すぎた自分にはよく分からなかったけれど。

 今でも、祈る様に抱き締めてくれた温もりごと、胸の中で眠っている。






 太陽も大地へと沈み始め、穏やかな茜色が世界に広がり始める中。

 リヴェルは裏庭を目指して、ゆったりと歩いていた。早くしなければという焦りと、ステラがいなかったらどうしようという尻込みがい交ぜになって、結果的に足取りが重くなってしまう。

 無事に授業の道具を届けた後、エルスターとはそこで別れた。夕食までには帰るときつく約束をさせられたのには笑ってしまったが、ぽかんと頭をはたかれたのにも苦笑いしてしまった。

 結局、心配のかけ通しだ。


 もしかしたら、彼は自分をステラには会わせたくなかったのかもしれない。


 裏庭に迎えに来てくれた時、激しい怒気が吹き荒れていたのは知っていた。光の速さで逃げたはずの相手なのに、食ってかかる様に怒ってくれたことにも驚いた。

 それでも、彼は背中を押してくれたのだ。

 ――ならば、自分も覚悟と共に踏み出すしかない。

 ぎくしゃくした歩き方になりながらも、何とか裏庭に差し掛かった時。



「――っ」



 彼女の姿が見えて、立ち止まってしまった。さっと、思わず建物の陰に隠れてしまう。

 我ながら根性の無さに、呆れて物も言えない。


「……隠れる必要、ないだろ」


 何やってんだ、俺。


 呟きながら、そっと裏庭を覗く。

 そろそろとそそぐ視線の先で、彼女は何やらしゃがみ込んでいた。待ち過ぎてくたびれたのだろうかと不安になったが、彼女の足元の存在に気付いて瞠目どうもくする。



 彼女の視線の先。足元には、複数の猫が、どでんとふてぶてしく居座っていた。



 見覚えのある姿は、いつもリヴェルが餌をあげている子達である。あれだけ不遜ふそんな態度は見かけたことがなかったが、彼女は彼らと睨み合いをしている様だった。

 しかも、両者、微動だにすらしていない。猫に至っては、毎回上げていたはずの唸り声すら鳴らしていなかった。


 ――何をしているのだろう。


 自然と成り行きを見守る羽目になってしまい、リヴェルははらはらする。

 そのまま、五分ほど過ぎ去った頃だろうか。リヴェルの忍耐もだが、彼女達もよく沈黙に耐えられるものだ。

 しかし。


「……、……」


 彼女が唇をわずかに開いて、おもむろに手を伸ばした。唐突だった上に勢いが良かったため、かなり乱暴な手つきである。

 そして、当然。


「……しゃーっ!」


 一斉に猫達が飛び退いた。全身の毛という毛を逆立てて、彼女を懸命に威嚇する。

 彼女は、手を伸ばしたまま動かない。猫達が全員で協力して敵対行為をしているのをぼんやり眺め、尚も手を伸ばし続けるだけだ。

 そのまま、またも両者は睨み合った。

 何故、そこにいるだけなのに睨み合いになるのだろうか。出るに出れなくなってしまって、リヴェルが心配しながら見守っていると。



「……、触れない」

「――」



 ぽつりと、彼女がささやく。

 ぽろん、と淋しさの塊を落とした様な音に、胸を突かれた。


「私には、やっぱり分からない」


 引っ込めて、彼女は己の手の平をじっと見つめる。

 その視線は無防備で、感情を唯一さらしている部分の様に思えた。

 表情はまるで変わらない。声も平坦だ。

 なのに、とても淋しそうにリヴェルの目には映った。どこが、と問われると答えにきゅうするが、ひどく胸が潰される様な圧迫感を覚える。



 ――どうして、猫に触れようと思ったんだ。



 昼間は、全く触れる素振りなんて見せなかったのに。

 答えが知りたい。

 その強い想いが、最後の後押しとなった。


「ステラ」


 意を決して、足を踏み出す。

 思った以上に固い声になってしまったが、ステラには充分届いた様だ。手から視線を外し、こちらを見上げてくる。


「リヴェル」

「話しに来た。隣、いいか?」

「どうぞ」


 特にける仕草は無かったが、遠慮なく隣に腰を下ろした。

 途端、猫達がこちらへと歩み寄ってくる。中には胸の中に飛び込んでくるものまでいて、よしよしと背中を撫でた。

 そんな猫達の様子を、ステラは観察する様に凝視する。あまりにじっと視線で集中攻撃されるので、猫が居心地悪そうに身じろいだ。


「……、ステラ。どうしたんだ?」

「リヴェルのところには、猫が近寄る」

「ああ、……ステラは勢い良く手を伸ばしすぎだ。あれじゃあ、猫も驚くぞ」

「見てたの」

「……、ああ、うん」


 下手を踏み、罰が悪くなってうつむく。

 だが、ここで折れるわけにはいかない。綺麗なグレー色をした猫を一匹抱き寄せ、ステラの方へと近付けた。


「……、何?」

「ほら。触ってみてくれ」

「でも、さっき逃げられた」

「大丈夫だ」


 それは、彼女と猫の両方に呼びかけるものだった。猫の背を撫でて、落ち着かせる。

 猫も彼女も、じっと互いを凝視していた。何だか見合いを取り持つ仲人の様だと、変な気分になる。


 そうして、数分ほど無為に時間が流れた頃だろうか。


 そろっと、ステラが手を上げた。猫がびくっと体を震わせたが、安心しろとリヴェルが撫でる。

 猫の頭で彷徨さまよっていた彼女の手が、少しずつ猫の方へと降りてくる。

 何故、今度はそんなにおっかなびっくりなのかと面白くなってしまったが、笑いを噛み殺して静かに見守った。

 そして。



「……、ふわっ」



 奇妙な声と共に、彼女が猫の頭に触れる。

 そのまま、またも硬直してしまった。猫の目は細まっている。互いに緊張のし過ぎだと、猛烈に突っ込みたくなった。


「ステラ、それじゃあ猫も困るぞ」

「どうすればいい?」

「手を動かせば良いさ。撫でてあげな。喜ぶぞ」


 ほら、と声だけで指し示せば、ステラは少しだけ目を細め。



 ごしごしっ、と、手を横に強くスライドさせた。



 当然、に゛ゃん、と濁った様な鳴き声で猫が頭を引っ込める。


「す、ステラ、強すぎだ! もっと優しく」

「こ、こう?」

「そうだ。そう、もう、綿毛を潰さない様に、包み込む様な弱々しい手つきで」


 誘導すれば、彼女はこてんと首を傾げて口を結び。


「……、むん」


 あろうことか、猫の頭を鷲掴わしづかみにした。にゃあっ! と悲鳴が裏庭に響き渡る。


「ち、違う! つかんでどうするんだ!」

「だって包み込む様にって」

「物の例えだよ! あー、もう、ほら! 俺の撫で方を見てろよ」


 ふわふわと、すっかり気が荒くなってしまった猫の背を撫でる。

 さらさらと流れゆく様な毛並みが心地良くて、リヴェルの気分が浮上した。喉をく様に撫でれば、ごろごろと機嫌良さそうに鳴らされる。


「……よし」


 しばし撫で続けて骨抜きにしてから、再度猫をステラに近付ける。

 すると、一瞬だけ彼女が全身を固くさせた様な気がして、ぱちぱちと瞬いてしまった。


「ステラ?」

「……、撫でていいの」

「もちろん。俺がした様にな」


 猫を抱いたまま、彼の背中を見せる。猫はすっかり自分に甘えてしまったので、この方がやりやすいだろう。

 ステラはじっと石の様に指一本動かさなかった。徐々に空気も凝り固まってきて、リヴェルも緊張してしまう。

 そのまま、またも数分という時間が無意味に経過した。

 そろそろ日も暮れそうだなと、リヴェルの思考が散り始めた時。


 そっと。彼女の手が、猫の背中に伸ばされた。



「……、ふわっ」



 またも変な声を上げて、固まる。猫も固まった。

 だが、そこで今度は終わらせなかった。そろそろと、毛先を滑らせる様に彼女の手は背中を撫でていく。

 そろそろ、そろそろ。

 擬音語でも聞こえてきそうな撫で方はおっかなびっくりだったが、猫は満足した様だ。尻尾が、ゆらゆらと嬉しそうに揺れている。


「どうだ、ステラ?」

「……、ふわっふわ」

「……、ああ。なるほど」


 先程の声は、ふわっふわという感嘆だったのか。納得して、リヴェルは彼女の手を見つめる。

 ほっそりと程よく白い指。滑らかな陶器の様な肌は、触れたらとても気持ち良さそうだ。爪の色も桜の様に綺麗で、思わず見惚れてしまった。

 夢中になってしまったのだろう。唐突に、はっと我に返った様に彼女の動きが止まった。そろそろと、またおっかなびっくりに、彼女の手が宙に浮いていく。


「触りすぎた」

「気持ち良かったか?」

「うん。……ふわっふわ」


 よほどお気に召した様だ。何度もふわふわ言う彼女が、少し可愛らしかった。

 手を離しても猫から外さない視線は熱っぽく、触り心地は抜群だったらしい。じっと見つめる姿は熱心で、許可があればまた触りに行ってしまいそうだ。

 表情はあまり動いていない。

 けれど、横顔は少しだけ緩んでいる様に映った。瞳も微かに嬉しそうにとろけていて、いつもと違う彼女の空気に、リヴェルもつられて微笑ってしまう。

 だが。



「……、……なあ、ステラ」



 夢の様な時間で終われれば良かったが、そうはいかない。

 リヴェルは、えて自ら終わりを告げ、本題に移った。


「昼間。助けてくれて、ありがとな」

「……」

「あの時、助けてくれなかったらさ。俺、死んでたんだろ」


 昼間の、裏庭の話を切り出す。

 猫を庇って倒れた時、ステラが魔法で青年を倒してくれなければ、自分は左肩以上の一撃を受けていただろう。今振り返っても、無謀な行動だった。


「怪我も治してくれて、ありがとう」

「……」

「ちゃんと、お礼を言えてなかったからさ。どうしても、伝えたくて」


 彼女ともう一度話そうと決心した時、最初に告げたかった。

 猫の話から突入してしまったが、ようやく目的を果たせて胸を撫で下ろす。


「ありがとう。おかげで、助かった」

「……」

「あ、それでさ。ステラの話って」

「どうして」


 話をさえぎって、彼女がリヴェルを見据みすえる。

 淡泊なのに真剣な光を帯びた黒い瞳は、いつ見ても吸い込まれそうなほどに澄み切っていた。

 気を抜けば、すぐにでも彼女に落ちていきそうな感覚を懸命に振り払い、顎を引く。



「どうして、猫を助けたの」

「……」

「自分の命よりも、大事?」



 ステラの、真っ直ぐな――本当に真っ直ぐ過ぎる問いに。

 リヴェルも今度こそ逸らさずに、正面から彼女を見つめ返した。


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