第12話


「どうして、猫を助けたの」

「……」

「自分の命よりも、大事?」


 ステラの真っ直ぐな問いに、リヴェルも今度こそ逸らさずに、真っ直ぐ彼女を見つめ返した。

 だが、その質問の内容に、リヴェルは少しだけ苦笑いを浮かべる。



 ――彼女の心理は、いつだって直線だ。



 猫と会話が出来ないのにするから、馬鹿。

 金魚を餌にする奴には気持ちが分からないと言われたから、飼う。

 猫が言うことを聞くから、会話が出来る。


 きっと、今回もそうだ。

 自分の命を投げ打ってまで猫を助けようとしたから、命よりも大事なのか。そう、考えたのだろう。

 理屈が通らないことは、意味が分からない。

 誰だってそうかもしれない。自分も、理由を知りたい事柄は多くある。

 けれど。



「んー、……その問いに頷くのは難しいな」



 理屈ばかりではない。

 それは、今のリヴェルが一番よく分かっていた。


「別に命より大事だから、猫を助けたんじゃないんだ」

「なら、どうして。死にたいの」

「……、……そういうわけじゃないよ」


 一拍置いて、リヴェルは「んー」と唸る。


「そうだな。……あえて言うなら、見捨てるのが嫌だったから、だな」


 抱いていた猫を離しながら、リヴェルは目を閉じる。

 ステラは無言だ。

 しかし、空気がかしいでいる。全く理解出来ないということだろう。


 彼女に、伝わるだろうか。


 だが、わずかすら届かなかったとしても、伝えてみたかった。あぐらをかいた足首をつかみながら、昔を望む。


「俺さ。昔、金魚飼ってたんだ」

「うん。聞いた」

「そうだったな。……お祭りで、父さんに取ってもらってさ。大切に育てようって思ったんだけど」


 ある日、ぷかっと金魚は浮いていた。

 その姿を見た時の衝撃は、筆舌に尽くしがたい。金魚鉢の中だけが、自分達の世界から切り離され、時が止まった様に凍っていた。


「餌のやり方とか、色々間違っちゃったみたいでさ。死んじゃったんだ」

「……、死んだ」

「生きてた命が、ある日突然目の前で死ぬってのは、やっぱり嫌なもんだよ」


 金魚だけではない。

 自分を撫でてくれた手が、抱き上げてくれた腕が、向けてくれた笑顔が。

 ある日、唐突に消え去ってしまう。

 命が失われるとは、そういうことだ。目を閉じれば思い起こせるけれど、もう二度と、直接触れ合えることはない。


「そういうことがあったから、どうしても、な。勝手に体が動いたんだ。もう目の前で、命が失われるのが嫌だってさ」

「……、そう」

「だから、ただの自己満足だよ。君の言う通り、馬鹿なんだ」


 間違っていない。

 彼女が馬鹿なのかと問いかけてきたのは、正しい思考だ。

 だが。


〝自分が死んだら、泣いて、悲しんでくれる人がいる。それって、とっても嬉しいことだから〟


 それでも。


「馬鹿なんだけどさ、一つお願いしてもいいか?」

「何?」


 どうしても、譲れない部分がある。

 だからこその、祈りだ。


「猫は、人じゃないけど。『たかが』って言葉で片付けないでくれるか」

「……」

「猫もさ、生きてるんだよ。れれば温かいし、痛ければ泣くし、嬉しければ笑う。人と同じ……とまでは言わなくても、やっぱり生きてるんだ。だから、……」



〝大切にするんだぞ。父だと思って!〟



 一瞬言葉に詰まった。脳裏に閃いた笑顔に、視線が自然と遠くに流れる。

 そうだ。

 生きている。――生きていた。


〝あんたの父は死んだよ〟


 金魚も、――父も。あの日まで、確かに。

 だから。



「だから、……たかがって、言わないで欲しいんだ」

「―――――」



 頼むよ、と笑ったら、何故か彼女は息を呑んだ様な驚き方をしていた。

 どうかしたのかと尋ねようとすると。



「――っ」



 彼女が、無造作に自分の頬に手を伸ばしてきた。



 何も言わないまま、彼女の指先が自分の頬に触れる。反射的に身を引いたが、彼女は構わずに指を滑らせてきた。

 滑らかな感触が頬越しに伝わって、電流を流しこまれた様な痺れが全身を駆け巡る。ぞわぞわと、変な感覚が奥の方から呼び覚まされて、たまらなくなった。


「す、ステラ?」

「私、また傷付けた?」

「え? ……っ」


 指先が、頬を伝って耳の裏に侵入する。柔らかく耳たぶを触れられた途端、ぞわりと背筋が粟立つ様な感覚が走った。


「す、すてら、やめ」

「泣いている様に見えた」

「―――――」


 思わず彼女の手を握って制止し、また固まる。



 泣いている。



 そう、彼女は言ったのか。

 確認のために頬に指をわせてみるが、特に濡れた感触には当たらない。見間違えたのかと、自己完結しようとしたが。


「昼間の時も、今も。泣いている様に見える」

「……それは」

「ごめんなさい」

「……、えっ」


 彼女は、頭を下げてきた。

 淡々とした声音だったのに、どこか濡れた様な響きに聞こえて、リヴェルの胸がひび割れながら落ちていく。

 どうして、謝るのだろう。彼女は、原因など分からないはずだ。

 だって、馬鹿と言われて傷付くことを知らなかった。

 たかが、と片付けられて、悲しくなることも想像出来なかった。

 なのに。


「私は、今までずっと、人とあまり関わらない様に生きてきた」


 たどたどしく、彼女が語りかけてくる。

 リヴェルが本当に傷付いたかどうかも分からないのに、迷子の目をしながら、それでも懸命に近付いてきた。


「一時期関わっていたこともあるけど。……でも、その時も、それからも、あんまり考えない様に生きてきた」


 だから、と。

 彼女は何かを見つめる様に視線を別の方向に向けて、一生懸命伝えてくる。


「だから、……私は、やっぱりよく人の心が分からない」

「……」

「リヴェルを傷付けた意味も、本当には分かっていない」


 分からないと、彼女は素直に白状してくる。

 リヴェルが話したから、納得はしても根本を理解しているわけではないと、伝えてくる。


「でも」


 それなのに。



「リヴェルが泣きそうな顔をしていると、胸の辺りが、変になる」

「―――――」



 それでも尚、胸に手を当てて彼女は必死に歩み寄ろうとしてくれている。

 己の今の精一杯の変化を、届けようとしてくれている。

 努力、してくれているのだ。

 自分の投げた言葉を受け止めようと、分からないなりに噛み砕こうとしてくれている。


〝あんたの意見なんか求めていないんだよ!〟


 届いた、わけではないけれど。

 それでも。


「……っ、そっか」


 伝えようと、届けようと、言葉にしたことが無駄では無かったのだと知った。

 初めて裏庭で言葉を交わした時と同じ。彼女は変わらず、向き合ってくれた。



 それだけで、今の自分には充分だ。



「――ありがとう」

「―――――」


 心のまま笑って、感謝を告げる。その際、彼女の目が微かに丸くなったが、どうしてだろうという疑問よりも、驚いた表情を見せたことに嬉しくなった。

 いつも無表情な彼女の顔が崩れると、何だか素の彼女を見た気分になるのだ。その瞬間に立ち会うのが、これ以上ない奇跡に思えてくる。

 しばらく、互いに見つめ合う。その沈黙は、もう気まずくはない。心地良い穏やかな静寂だった。


 ――ざっと、風が自分達を撫でる様に吹き抜けていく。


 合わせて、彼女の漆黒の髪も風に踊った。

 さらっと、空に流れる様に舞う黒い髪は、終わりに向かって沈みゆく日の光を艶やかに弾いている。夜に一筋の光が差した様な光景は幻想的で、リヴェルは惹き込まれる様に見惚れた。



「……綺麗だな」



 ――あの夜と同じだ。



 ぽつりと呟き、今度は手を伸ばす。それはもう、無意識だった。

 空に手を伸ばす様に、リヴェルは彼女の髪に触れる。反射的に彼女が少し目を丸くしたが、届く位置にある空を逃したくないと追いかけた。

 触れた髪は滑らかで、とても心地良い感触を伝えてくる。夜の様に綺麗な色は彼女の息吹を表している様で、凛とした空気を指越しに感じ取った。


 ――色だけでなく、感触まで綺麗だ。


 しばらく手に届いた夜を味わいながら、リヴェルは吹き抜けていく風を感じ、目を伏せた。



「……俺が来る前。どうして、猫に触れようと思ったんだ?」



 疑問に思ったことを、口にしてみる。

 やや間を置いてから、相も変わらず平坦に告げてきた。


「あなたが、猫に触れたら、猫のことが分かるかもしれないって言ったから」

「……っ」


 どこまでも、素直だ。心臓がひどく跳ねてしまった。

 今までの彼女の行動は、全て己の言葉が原理になっている。その事実が、どうしようもなく気恥ずかしい。

 だが同時に、むずがゆい喜びも湧き上がり――。


「リヴェル」

「うん? 何だ」

「そろそろ、動きたい」

「え、――」



 喜びが駆け上がりきる寸前に、我に返った。



 彼女に抗議されるまま、今の自分の格好を冷静に見つめる。一緒に、自分の犯した所業もさかのぼり。



 ざっと、血の気が引いた。



 驚く彼女を強引に追いかけ、間近で無遠慮に髪をつかんで眺めまくっているこの構図。

 抱き付いてこそいないが、もし第三者が通りかかって一部始終を目撃していたら、変態や痴漢と通報されてもおかしくない。



「……っ、ご、ごごごごめん!」



 ばっと急いで彼女から距離を取る。

 ぽかん、とした彼女の顔は真っ直ぐに自分を見つめてきた。その視線が強く非難している風に思えて、リヴェルは益々居た堪れなくなり、額を力の限り地面にこすり付けた。


「ごめん! いや、あー、恋人でもないのに、こんな! ごめん!」

「はあ」

「一発! いや、一発と言わず、気のすむまで殴ってくれ! 髪は、命! 俺は、女性に対して何てことを……!」

「はあ」


 慌てふためいて真っ青になっていくリヴェルとは対照的に、ステラの返事はひどく気が抜けていた。動く気配も無い。殴るつもりも無い様だ。

 恐らくセクハラの域に達していると思うのだが、彼女の反応は不安になる。これでは、痴漢を働かれても無抵抗なのではないかと、想像して更に青褪あおざめた。


「す、ステラ。あのな、こういう時は、もう少し殴るとか抵抗して」

「別に、いい」

「え! いや、ま、待ってくれ。やっぱり急に断りなく髪に触れるとか、変態というか、な? 俺、本当に何てことを」

「何となく、嬉しかったから」

「そう! 嬉しかったから、……、は?」


 彼女の発言を繰り返して、びしっと石になる。

 何となく、嬉しかったから。それは、自分が髪に触れた時のことを指しているのだろうか。

 そうか、嬉しかったのか。

 納得しかけて、安堵し――。



 ぼんっと、顔が真っ赤に爆発した。



「う、うれ、うれし、……えっ?」

「猫を撫でてる時のリヴェルの目って、そんな感じだったから」

「へ? あ、そ、そそそそう! 猫! 猫、あー、うん。……どうか、なあ」


 しどろもどろになりながら、リヴェルは明後日の方向を見上げる。

 猫と一緒。

 彼女の思考回路は独特だ。女性に対しての無礼な数々が、猫と同列に扱われるなど普通は無いだろう。おかげで救われたが、罰が悪すぎる。

 しかし、彼女の方はお構いなしに己の髪に触れていた。よほど嬉しかったのだろうか。指で触れた感触を図らずも思い起こし、リヴェルの顔が更に熱くなる。


「リヴェル、顔が真っ赤。風邪?」

「い、いや! あー、違う! そう、これは、俺が体温を勝手に上昇させた結果で!」

「そう」


 支離滅裂な説明に、彼女は特に疑問も抱かない様だ。素直すぎるのも問題だと、頭を抱えたい。

 彼女と話していると、本当に頭がこんがらがる。上手く伝わらなくてもどかしくなるし、腹も立つし、悲しくもなるし、恥ずかしくもなる。

 だが。


〝猫のことが分かるかもしれないって言ったから〟


 自分の言葉を切り捨てず、懸命に理解しようとしてくれる姿。

 自分を、見捨てず助けてくれる優しさ。

 自分の過ちに、真っ向から向かい合って謝れる素直さ。

 自分も。



 そんな風に、在りたい。



 今まで諦めてばかりいた理想を、もう一度拾い上げたい。

 彼女といたら、目指す姿に追い付けるだろうか。


〝あんたは、このライフェルス家の跡取り。それ以上でも以下でもない〟



 ――目指す、姿に、――。



「……なあ、ステラ」



 腹の底に力を入れて、リヴェルは彼女に向き合う。彼女も、真正面からあの澄み切った黒い瞳を向けてきた。

 初めて、彼女を自分の意思で真っ直ぐに見た気がした。

 逃げてばかりの人生だったからだろうか。誰かの視線を改めて真っ向から受け入れるのは、存外胆力が必要だった。

 だが、それでも。

 自分は、この瞳に向き合ってみたい。



「俺と、友達になってくれないか?」

「―――――」



 ばくばくと、心臓が暴れ回る。血が皮膚を突き破って、空の彼方にまで飛んで行きそうなほど緊張した。

 友達になって欲しいと口にするとは、子供か。そんな糾弾をしたくなったが、彼女には、はっきり言わないと伝わらない。これしか方法が思い付かなかった。


「……、友達」

「あ、いや! 嫌だったらな、いいんだ! ああ、でも、なってくれたら嬉しいなって」

「分かった」

「そうか、分かったか。……、は?」


 あっさりしすぎた了承に、リヴェルは頷きかけて目と口を丸くする。

 先程、失礼無礼千万なことをした上に、今までも勝手に腹を立てて怒鳴ったり、落ち込んだり、彼女からすれば意味不明の塊みたいな人間だ。

 それなのに、こんな簡単に良いのだろうか。不安になる。


「いや、自分から切り出しておいて何だが、もっと躊躇ためらってもいいんだぞ?」

「何故」

「いや、何故って」

「リヴェルこそ、恐くないの」

「え?」

「私は、魔法使い。人殺し。あなたは、人が死ぬのは恐いと言っていた」

「……」


 指摘されて、押し黙る。

 その通りだ。彼女の言う通り、自分は恐らく彼女が恐い。

 あの夜見たうごめく塊も、瞼の裏に貼り付いた様に忘れられない。一生、あの光景が薄れることはないだろう。

 魔法使いが、救国の英雄だと褒め称えられていても、助けられていても、恐いものは恐い。

 青年に襲われた時の真っ暗な恐怖も、己の心にいつまでも住み着いて、がせはしないはずだ。

 しかし。


「……恐いさ。……でもな」


 恐いと同時に、救われもした。


 物事に表裏が絶えず背中合わせの如く付き纏う様に、魔法もきっとそうだ。

 そして、その魔法を扱うステラという女性に、自分は恐怖を覚えると同時に、感謝と尊敬の念も抱いた。

 だから。


「俺、君ともっと話してみたいんだ」

「……、話す」

「そう。だから、教えてくれないか。魔法使いのこととか、昔のこととか、思ってることとか、何でもいい。君のこと、色々」


 恐怖以上に、彼女を知りたいと欲した。


 猫と会話が出来ると、目を輝かせた彼女も。

 猫に触れて、ふわふわとささやく可愛らしい彼女も。

 傷付けたと、悲しむ彼女も。

 自分には、とても身近に感じられた。もっと見たいと、願った。

 その気持ちを潰して、恐いという理由で彼女との関係を終わりにしたくはない。


「駄目か?」

「……ううん。構わない」

「本当か? ――良かった」


 完全な自己満足だ。身勝手な願いだ。自身を滅ぼす道かもしれない。

 しかし、それでも構わない。もう、決めた。



「じゃあ、改めて。俺はリヴェルだ。よろしく、ステラ」

「うん。――よろしく」



 手を伸ばせば、彼女は少し考えた後、同じく手を伸ばしてきた。

 その手を握って、リヴェルは無邪気に笑う。彼女と少しでもつながれた気がして、彼女ではないが、ふわふわと宙に浮く様な心地になった。

 そうだ。構わない。

 例え。



〝本当に大切にしているのなら、覚えていてあげてちょうだい〟



 ――その先で、自分の命が尽き果てたとしても。



 自分の知らない彼女を、もっと知れるのならば、覚えていられるのならば、構わない。

 心から願って、リヴェルは繋いだ手を強く握り締めた。


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