第35話


 祭りは、多くの人で盛大に賑わっていた。

 今日は突発的に作られた祭りなので、国特有の祝賀祭ではない。その場合、一番の友好国という理由で大体東の国の祭りを真似たものとなり、本日は様々な食べ物や遊戯の屋台が立ち並んでいた。


 ――昔行った祭りと同じだな。


 感傷に浸りそうになって、リヴェルは静かに目を伏せた。今は、別の大切な目的がある。

 だが。

 ぐうっと空気を読まず、胃が淋しそうに鳴り響く。


 ――やっぱり、無理にでもちゃんと食べておくんだった。


 後悔してももう遅い。楽しそうな笑い声に混じって、先程から美味しそうな匂いが鼻孔びこうをくすぐって堪らない。空腹の胃には毒である。

 リヴェルがふらふらと釣られて浮気しそうになるのを、エルスターが頭にチョップを叩き落として押し止めた。


「い、痛いな。何するんだよ」

「お前さん、目的を忘れていないかね。食い倒れツアーに来たのではないのだよ」


 呆れた様に溜息を吐かれ、ぐっと言葉に詰まる。少しだけ頬に熱が集まったが、ごほんと咳払いをして散らした。



 ――ステラと会える。



 祭りに彼女が来るとエルスターから告げられた後、リヴェルの頭はそれ一色に染まった。


 彼女と会ったら、何を話そうか。

 それより、まずはどう声をかけようか。

 そもそも、話をしてくれるだろうか。


 喜びと不安と恐怖がい交ぜになり、緊張のし過ぎで今日は朝から食事もろくに喉を通らなかった。情けないと思いながらも、時間が近付くにつれて挙動不審っぷりが酷くなり、エルスターに背中を何度も叩かれていたくらいだ。

 だからこそ、気を紛らわせないと頭が爆発しそうだったとは口が裂けても言えない。おまけに、ここに来て空腹がこたえて来たとは尚更言えなかった。


「わ、分かってるさ。……それで、どこで彼女と待ち合わせてるんだ?」

「待ち合わせてなんかいないのだよ」

「は?」

「ほら、とっとと行きたまえ」

「え」


 どん、と急に突き飛ばされ、リヴェルは人ごみの中に押し出される。いきなりの攻撃で踏み止まれないまま、為す術もなく倒れ、目の前の人物に突っ込んでしまった。

 同時に、ぼふんっと何か柔らかい感触が顔に当たる。わぷっ、とくぐもった悲鳴を上げ、どうにか踏ん張れた足で態勢を無理矢理立て直した。


「す、すみません! 怪我は」

「別に、無い」

「そうです、か、――」


 淡泊な返しをされる。リヴェルは安堵した直後、耳を疑った。

 いつの間にか、己を支えるために相手の体を掴んでいたらしい両手を離し、そろそろと視線を下に下げていく。



 そこには、澄み渡るほどに磨き抜かれた、漆黒の双眸が綺麗に煌めいていた。



 吸い込まれそうなほどに深い、黒水晶の瞳。

 出会った時からずっと変わらない。いつまでも見つめていたいと、焦がれに焦がれて願った色だ。


「……、ス、――」


 ――会いたい。


 そう望んだ人が今、目の前に静かに佇んでいる。

 ぱちぱちと瞬いて、瞬きの合間にも消えないことに心から震えた。


「……ステ、ラ?」


 呆けながら、もう一度離した手を相手の肩に触れる。ぴくり、と一瞬だけ相手が身じろいだが、前の時の様に逃げたりはしなかった。

 手の平から伝わる温もりは本物だ。どくどくと己の心臓が騒ぐ音が衣服越しに伝わりはしないかと心配になったが、それ以上に、今感じている熱が幻ではないと必死になって確かめる。

 艶やかな黒い髪が、波打ちながら背に伸びていた。彼女のトレードマークと言える黒いコートも、羽を休める様に流れている。

 彼女だ。


 ――彼女が、目の前にいる。


 嘘ではない。幻でもない。

 実感したら、もう止まらない。



「――っ! ステラ……っ!」

「―――――」



 無我夢中で彼女を引き寄せ、柔らかな体を腕の中に閉じ込めた。


 最初に何を話そうか。

 その前に、何と声をかけようか。

 そもそも話をしてくれるだろうか。


 そんな不安も恐怖も、全てどこかに吹き飛んだ。目の前の現実が崩れてしまわない様に、ぐっと力を込める。

 腕の中で一瞬だけ驚いた様な気配がしたが、構ってなどいられない。周りのざわめきも気にしていられないほど、今は彼女に集中したかった。

 頭に添えた手の平には、艶やかな黒い感触が心地良く伝わってくる。腕の中からは温かな熱が届いて、これは確かな現実だと教えてくれた。

 ほのかに香る清潔な甘さは、香水か、石鹸か。分からないが、控えめにまとうその香りに、心から緩んでしまった。



「ステラ、ステラなんだな? 幻じゃないよな? 本当に、……っ」



 身を離し、今度は顔を覗き込む。無性に彼女の顔が見たくて堪らなかった。

 何故か彼女の瞳がひるんだ様に揺れたが、更に現実なのだと強く伝えてきてくれて、喉の奥が感情を爆発させる様に震える。

 今、目の前にいるのは彼女だ。



 ずっと焦がれに焦がれて、待ち望んだ大切な人だ。



「……、会いた、かった……っ」

「リ、ヴェル」

「裏庭にも全然来ないし、学院内でもすれ違わない。おじいさんの店に行っても見かけないし、あの夜からずっと、全然、会えなくて」

「……」

「俺が拒絶したからだとか、傷付けたからだとか、色々考えたら、もう、……このまま会えないのかって、俺、……っ」

「……、ごめんなさい」



 そろそろと、彼女の手が自分の腕に伸ばされ、きゅっと控えめに掴まれた。

 まるでしがみ付く様な力加減に、何だかおかしくなってしまう。普段は彼女の方が力も強いし頼もしいのに、今は逆転しているな、とくすぐったくなった。

 彼女の吐息が、すぐ近くで聞こえてくる。何となく、腕を掴む手も震えている様に思えた。

 彼女も少しは緊張してくれていたのだろうか。こんな時なのに、都合の良い解釈をしてしまう。


「ステラが謝ることじゃない。俺が、――」

「あ、ごめんなさいっ」


 彼女の言葉を否定しようとした途端。

 どん、と背中にぶつかった衝撃と謝罪で、はっとリヴェルは我に返った。冷や水を頭から大量に浴びせられた様な冷静さが、自分の高まった熱を冷ましていく。

 そろっと周囲を見渡せば、「なんだなんだ」と好奇心に満ちた不躾ぶしつけな視線と、迷惑そうに自分達を避けていく人々で大量に溢れ返っていた。

 それはそうだろう。何せ、ここは祭りの中心部。歩くのも大変なほどに人の波で埋まった場所だ。先程の衝撃も、自分達を避けきれなかったせいに違いない。

 何という傍迷惑はためいわくな。

 思い至って、今度は別の意味で頬が熱くなった。


「……、ば、場所、移そうか」

「分かった」


 急に気恥ずかしくなって、そのまま彼女の手を取って歩き出す。

 抵抗することもないまま彼女は素直に手を引かれ、おまけにそろそろと握り返してきた。その反応にリヴェルの顔が、がっと猛烈に熱くなったが根性で振り払う。


 ――今は話が先。今は話が先。今は話が先っ。


 壊れた人形の様に唱えながら、リヴェルは必死に冷静さを保つ。

 冷静に冷静にと熱を冷ましていく内に、今度はステラに出会ってからの己の行為を振り返った。――振り返ってしまった。

 先程、自分は一体何をしただろうか。

 ステラが急に目の前に現れて、呆然として、けれど確かめたくて、逃したくなくて。



 恋人でもないのに、いきなり女性に抱き付き、あまつさえ間近で顔まで覗き込んだ。様な。



「―――――っ!」



 唐突に現実が甦り、リヴェルはざっと血の気を足の下から激流の如く流していった。

 喜びのあまりとはいえ、酷過ぎる破廉恥はれんちな行動の数々。

 リヴェルは人の輪から外れたところで、猛烈な勢いで土下座した。


「――すまない、ステラっ! 大変、申し訳ない!」

「……、何が?」

「いきなり抱き付いて、力づくで抱き締めて、しかも顔まで間近で覗き込むとか……! もう、俺、何てお詫びしたらいいか……!」

「はあ」

「殴るなり蹴るなり踏み付けるなり、君の心のままに好きにしてくれっ!!」


 きょとんとした彼女の反応に、だが己のあまりな破廉恥行為に顔が上げられない。このまま頭から踏み潰されたっておかしくない大罪だ。

 普通なら、「きゃー! 痴漢! 変態!」などとあらゆる罵倒を浴びせて平手打ちして急所を蹴り上げて背中を踏み倒した挙句、軍人に突き出す所業だろう。立派な犯罪だと泣きたくなった。



 それに、さっきぶつかった時。「ぼふんっ」と何か柔らかいものに顔がぶつかった。気がした。結構気持ち良かった。気がする。



 ごつっ、でも、どんっ、でもない。ぼふんっ、だ。

 彼女の体でそんなに柔らかい箇所というと、一つしか思いつかない。いや、むしろその一択しかないはずだ。

 彼女が何も責め立ててこないことが、また一層己の恥知らずを際立たせていた。何と言う役得、いや、無礼。――気持ち良かったと思ってしまったのは不可抗力だ。


「――って、馬鹿! 俺、馬鹿っ!」


 こんな時にまであの感触を思い出して、気持ち良いなどとは何事か。

 男として心の底から情けない。軽蔑する。いっそ頭から踏み付けて欲しかった。


「……もう、ほんっと、殴ってくれ……」

「リヴェル、殴られたいの?」

「痛いのは嫌だ。……でも、俺のしたことは本当に君に対して失礼過ぎて、訴えられてもおかしくなくてだな」

「どうして」



 そこで聞いてくるのか。



 何故、こんな小っ恥ずかしいことを一から十まで説明しなければならないのか。いや、そもそも彼女が己に起きた無礼を理解していないことの方が問題だ。

 これは、他の男性から同じ仕打ちを受けたら、何も対策しないまま、あるがままに受け入れてしまう可能性がある。


 ――それは、断じて、許すまじ。


 その男は極刑に処されるべきである。


「……あのな? いいか、ステラ。普通、男性が、……つまり俺が、いきなり抱き付いてきたらな、抵抗するだろ」

「どうして」



 何でそこで疑問形なんだ。



 本格的に彼女の構え方に危機感を覚え、リヴェルは息を整えて彼女に向かい合った。

 教える側なのに、まるで膝詰ひざづめで説教をされる側の感覚なのは、山の様に積もりに積もった罪悪感故だろう。本当に人生をやり直してくるべきだ。男の風上にも置けない。


「あのな! 男性がいきなり! 女性に抱き付くとか、嫌だろ! しかも、む、むむむむむむ、む!」

「むむむ? リヴェル、何をうなっているの」

「唸ってない! 胸だよ! 胸! 俺、さっき君の胸に顔突っ込んだだろ!」

「うん」



 ――俺の馬鹿―――――――ッッッ!!!



 自ずから罪を確定させてしまい、地面に勢い良く突っ伏す。

 文句なく、絶対的に自分が招いた悪事なのだが、こうも軽く肯定されてしまうと益々ますます居た堪れなくなる。穴を掘って、埋まって、その上から土を大量にかけて沈めて欲しくなった。

 何故自分の罪を自分で白状するだけではなく、あまつさえ相手に認めさせなければならないのか。

 それこそが罰か、と心中で滂沱ぼうだと涙を流しながら、リヴェルは突っ伏したまま続ける。


「抱き付いた上に、胸に顔突っ込むとか。もう、殺されても文句は言えない……」

「殺さない。安心して」

「……いや。その反応、おかしいぞ。駄目だろ、恋人でも無い奴に抱き付かれたり胸触られて怒らないとか、反撃しないとか。そんなんじゃ、いつか他の男に――」

「リヴェルだから。殺さない」

「襲われたら……って」


 もう説教なのか言い訳なのかよく分からない口上が、彼女の言葉で遮られる。思わず耳を疑った。

 反射的に地面から顔を上げれば、いつの間にか自分に合わせて彼女は座っていた。真っ直ぐに、無表情でこちらを見つめている。


 否。無表情ではない。


 見据えてくる瞳は、どことなしか揺れていた。

 口はきゅっと強く結ばれているが、わずかにわなないている。膝の上で、拳は頑なに握り締められていた。


「……ステラ?」

「リヴェル。……あなたは、死ぬのが、……」


 言いかけて、ステラは口をつぐむ。

 そして小さく首を振り、向き直った。



「あなたは。――私のことが、恐い?」

「――」



 真っ直ぐに、あの夜とは別の質問をぶつけられる。

 見上げてくる瞳の奥に、彼女の決意と恐怖が見えた。


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