第38話


「――ここが、俺の目的地だ」



 遠くで泳ぐ可愛らしい群れの近くに、リヴェルはかつての自分達を見つけた。



〝よーし、見てろよ、リヴェル! お父さん、張り切っちゃうからな!〟



 水槽の近くで、あの日の父の背中が映る。

 その隣には小さい自分がいて、二人を見守る様に母親が佇んでいた。

 父は無邪気に、自分は期待する様に、母は微笑ましく。

 三人が、みんなで幸せそうに笑っていた。


「……リヴェル?」

「――」


 名を囁かれて、リヴェルは我に返る。目を伏せながら首を振った。

 祭りは、特に金魚すくいの屋台は、どうしても昔を強く思い出してしまう。家族で過ごした最後の日だからだろうか。


「ああ、ごめんな」


 ステラの手を引いて、屋台に向かう。

 近付くにつれて、大きな水槽が存在感を増していく。その中を、自由にゆったり泳ぐ紅いひらひらした魚は、あの日と同じく優雅だった。


〝狙うは……あの金魚だ!〟


 リヴェルの目の前で、びしーっとあの日の父親が力強く狙いを定めている。

 それは、とても遠い日の姿のはずなのに、何故だろうか。つい昨日のことの様に、鮮やかに浮かび上がった。


「リ……」

「……、ちょっと待っててくれ。すくってくるな」


 そっと、何かを言いかけた彼女の手を離し、リヴェルは水槽の方へと歩み寄る。

 その際、今まで追いかける様に見かけた家族の方へ、ちらりと視線を向けてしまった。やめておけば良いのにと思いながらも、気になって仕方がない。

 視線の先では、想像通り三人が楽しそうに笑っていた。和気藹々わきあいあいと、揃って水槽を覗き込んでいる。


「おとうさん、いけー!」

「おお、任せろ! ……って、ああっ!」

「あはは、お父さん、下手くそね。私に任せなさい」

「……わあ! おかあさん、すごーい!」

「くっ、……父さんの威厳はいずこ……」


 どうやら父が無残に紙を破り、母が得意気に金魚を掬ったらしい。子供のきらきらした尊敬の眼差しに、母が照れ、父が落ち込んでしまっている。


 ――ああ、本当に温かい。


〝父さん、すごいね〟

〝そうだろう、そうだろう! 大切にするんだぞ。父だと思って!〟

〝え。金魚は金魚だろ〟

〝がーん!〟


 懐かしくて、苦しくて、――目の奥が熱くなった。


「おーい、にいちゃん! やんのかい?」

「――、あ」


 呼びかけられて、はっと息を鋭く吸い込んだ。

 呆けすぎた様だ。慌てて、ああ、と返事をしようとして――喉が引きつっていることに気付く。


「……っ」


 早く返事をしなければ。

 そう焦れば焦るほど、声が思う様に出てこない。それどころか喉元まで出かかっていた音が転がる様に、喉の奥へと沈んで行った。


 ――もう、ずっと昔のことだ。


 それなのに、痛い。

 胸が、痛いと泣いている。


〝ありがとう、父さん〟

〝……、リヴェル〟

〝大切に、そだてるね〟


 かつての自分達の声が、追い詰める様に耳の中で木霊する。

 あの日のお祭りの時間はとても大切で、掛け替えのない宝だった。近付くにつれてどんどん大きくなっていって、思い出すたびに胸が潰されて痛くなる。


 ――これから踏み出す足を、鈍らせるほどに。


「にいちゃん、どうした? やらないなら邪魔だよ」


 呆れた様に、店主がせっついてくる。無様な醜態に、リヴェルは心がはやるまま顔を上げた。


「あ、ああ、ごめん。えっと」

「――やる。一個、道具を貸して」

「――」


 ぐっと左手を引き寄せられた。すぐ傍で聞こえてきた声に、目の奥の熱が余計にじんわり染みる。


「……ステラ」

「私が、そのおわんを持つ。だから、リヴェル。やって」


 言うが早いが、さっさとお金を渡してステラが道具の入った椀を受け取った。

 しゃがみ込みながら、彼女が手を引いてくる。一緒に座れと無言で命令され、リヴェルも促されるまま足を折る。

 そのまま、何とか震える手で、紙を張ったポイという道具をお椀の中から受け取った。

 だが。


「……、あ」


 すぐに、指から滑り落ちた。からん、と乾いた音が、自分を拒絶する様に木霊する。


 ステラが静かにリヴェルを見上げてくる。

 それに笑って答えようとして、笑顔が引きつった。心臓もばくばく暴れてうるさい。何故こんなに緊張しているのだろうと、更に焦燥しょうそうが募った。


〝よし、見たか、リヴェル! 取ったぞ!〟


 屈託なく笑って、あの日の父がこちらを振り向いてくる。

 それを見て、幼い自分は嬉しくて、楽しくて、父から金魚を受け取って。

 けれど。



〝あんたの父は死んだよ〟



 その金魚を、自分は――。



「あー! さっきのにいちゃん!」

「――、え?」


 いきなり子供の声が飛んできた。一緒に意識が引き戻される。

 見れば、先程の親子の内の子供が、リヴェルを見てぱあっと顔を輝かせていた。両親も気付いたのか「ああ」と合点がいった様に笑って、何故か近付いてくる。


「あの。さっきの、射撃の子ですよね」

「え? あ、はい、……っ」


 母親に笑顔で話しかけられる。その顔に、一瞬自分の母が重なって、どきっと心臓が跳ねた。

 だが、彼女達はそれに気付かない。むしろ、リヴェルの答えに弾けた様に空気が笑った。


「やっぱり! さっき、家族で一緒に見ていたんです」

「え」

「いやあ、凄かったですね! 父としての威厳がどこかに吹っ飛んじゃいましたが、あれは気持ち良かった。全弾命中、なかなか無いですよ」

「息子がさっき興奮してたんですよ。良ければ、見ていてもよろしいですか?」

「っ、……はい、俺で良ければ、いくらでも」


 いそいそと、仲良し家族が三人揃って自分の後ろに並ぶ。背後から、期待という名の熱量が物凄い速度で伝わってきて、さっきまでとは別の意味で居た堪れなくなった。

 ごほん、と一度咳払いをして、リヴェルは椀の中にあるポイに改めて触れた。今度は何とか掴めたが、緊張と恐怖で指が震える。

 上手く掬えなかったら、どうしようか。後ろの家族は肩を落とすだろうか。

 いや、それよりも何よりも。

 もし、金魚を掬えなかったら。



〝大切にするんだぞ。父だと思って!〟



 あの日の、やり直しも――。



「リヴェル」

「っ」


 ぎゅっと、左手を握り直された。痛いほどに強く握られて、彼女の気持ちが冴え渡る。


 ――大丈夫。


 そんな風に頭を撫でられた気がして、リヴェルは一度唇を噛み締めて俯く。

 そうだ。自分は何のためにここに来たのか。もう一度、踏み出すためではなかったのか。

 こんな体たらくでは、きっと父も笑っている。



〝……ほら〟



 そう。



〝――もう、行くんだろ? リヴェル〟



 ――隣で、父が静かに笑っている気がした。



 希望的観測も多分に混じっている。

 だが、父は、いつだって自分の心を抱き締めてくれる人だった。

 だから今も、もう自分が何をしようとしているのか理解してくれているだろう。しっかりしろと、泣きながら、笑いながら、応援してくれている気がした。


〝命を粗末にする子、愛する価値もないわ〟


 母の罵倒が、鼓膜を叩く。

 あの日の遠ざかっていく背中をかつての想い出と共に見つめながら、リヴェルは目を閉じた。

 自分はあの日から、――金魚を失った日から、過去にずっと縛られ続けてきた。

 今だって、己の罪を忘れたわけではない。これからも、ずっと抱えて生きていく。

 けれど。



〝一緒に、最後まで生きて。リヴェル〟



 ――ごめん、父さん、母さん。



 心の中でささやいて、リヴェルは閉じていた目を開けた。

 目の前には依然として幼き日の彼らがいるが、先程とは違う。うっすらとかすみがかっていた。

 それは、きちんと過去にするという証。


 ――自分は、幼き過ちからずっとうずくまっていたけれど。


 自分のせいで、両親が引き離されたのかもしれないと思い続けてきたけれど。

 きっとこれからも、その思いは変わらないけれど。

 それでも、過去に縛られるのは、もう止めにする。

 二人を言い訳にするのは、もう止めにする。

 だから。



 自分は今から、――前に進むよ。



「……よし」



 お椀の中のポイを、改めてしっかり掴む。

 もう、手は震えていない。目測を誤ることは無さそうだ。


「やるか!」

「うん」


 気合を入れれば、ステラが頷く。その表情がどことなく安心した様に見えて、リヴェルは背中を叩かれた気がした。


「まずな、こうやって和紙を水にまんべんなくひたすんだ」

「浸すの? 破れない?」

「ああ。というより、こうしないと逆に掬えない」


 水に濡らしたところと乾いたところがあると、逆にその差で破れやすくなる。

 父も、そうやって水に浸していた。だから、間違いない。


「どの子にするの?」

「んー……じゃあ、……あの子を狙うかな」


 ふよふよと、マイペースに泳いでいる一匹の金魚に狙いを定める。何となくあの日の金魚と似ている気がして、知らず苦笑してしまった。



 だが、きっとあの金魚が一番相応しい。似ているのなら尚更だ。



 思って、リヴェルは水面と並行にポイを構えた。上手く寄ってきてくれるだろうかと緊張する。

 あの日の父も、こんな気持ちだったのだろうか。思いながら、ポイの近くまで泳いでくるのをひたすら待った。

 そうして、数分ほど経った頃だろうか。


 すいっと、呑気に泳いでくる金魚に好機を見出した。


「――来た。ステラ、椀を斜めに構えてくれるか」

「うん」


 金魚が通り過ぎようとするのを逃さず、ポイのふちに腹を乗せ。


「……よっ!」


 ぱしゃっと、金魚を転がす様に引き上げた。ステラが焦った様に椀を傾け、見事受け取ってくれる。

 ぴちっと一度跳ねてから、金魚は諦めた様に椀の中に収まった。何となく、あの日の様に「やっちまった」と金魚が呟いている気がして、喜びが更に膨れ上がる。


「よし、上手くいったぞ!」 

「――、うん」


 ステラに向かって、ポイを握り締めたまま笑いかける。

 すると、彼女は嬉しそうにはにかんだ。不意打ちの微笑に、リヴェルはぽろっとポイを落としてしまった。


「良かったね、リヴェル」

「お、おお! よ、良かった。成功したぞ!」

「にいちゃん、すごい! にいちゃん、射撃だけじゃなくて、金魚すくいも上手なんだね!」


 わっと、子供が感激の声を上げる。

 そういえば、あの家族が後ろで見ているのだったと今更ながらに思い出した。集中し過ぎていて忘れていたと恥ずかしくなる。


「本当。素敵でしたよ!」

「お父さん、ますます顔負けね」

「うぐっ! いや、素晴らしい腕前を見れたなら……っ」

「い、いえ。金魚すくいはそこまでじゃないとは思いますけど、……ありがとうございます」


 手放しに褒められて、リヴェルは頬を掻きながら目を細める。

 射撃も、金魚すくいも父から教わった。あれ以来お祭りには一度も来てはいなかったが、コツさえ教えられていれば何とかなるものだ。


「おめでとう、にいちゃん。ほいよ、金魚」


 袋に移して、店主が金魚を手渡してくる。

 それを礼と共に受け取って、子供の尊敬の眼差しに見送られながら店を後にした。ぶんぶんと手を千切れんばかりに振ってくるので、こちらも笑って振り返す。

 しばらく歩いて行くと、人の輪から自然と外れていった。遠くの喧騒が別世界の様に、ふたりの周囲が清らかな静寂に包まれていく。


「……、ステラ」

「何?」


 聞き返してくる彼女の表情は柔らかい。

 一見すると、あまり表情は変わっていない様に映るだろう。

 だが、少しずつ変化を見て取れる様になってきたリヴェルには何となく伝わってくる。彼女は今、とても優しい顔をしていた。

 金魚すくいの背を押してくれて、感謝している。彼女のおかげで目的を果たせた。

 だから。



 やはり、この決意と覚悟には、彼女がいないと始まらない。



「これ、受け取ってくれないか」



 すっと金魚を彼女に差し出した。

 ぱちぱちと、ステラが大きく瞬きをする。意味が分からないと言いたげに、首を小さく傾げた。


「リヴェルが取った。どうして私に?」

「ステラの飼ってる金魚の水槽、大きいだろ? だから、一匹だとちょっと淋しいかなって思ってさ。それと」


 一旦言葉を切って、金魚に眼差しを注ぐ。

 ぷかぷかと、のんびり泳ぐ金魚は可愛らしい。大切にしたいと、改めて誓いを立てるほどに大事な命だった。


「俺さ。昔、金魚を死なせた日から、一歩も動けてなかったんだ」


 金魚が死んで、父が死んで、母が消えて。

 罪の意識に苛まれ、あの日からずっと未来へ進むことを諦めていた。

 今だって、じくじくと罪悪感がむ様に刺さってくる。きっと一生癒えることはないだろう。

 けれど。


「俺は、ステラと一緒に生きていくって決めたからさ。ちゃんと、ケリを付けたいって思ったんだ」

「……、うん」

「この金魚は、その証だ。もう一度やり直したいっていう、決意の証」


 結果的に、この金魚がどれくらいの期間生きてくれるかは分からない。お祭りの金魚は死にやすいと、後から誰かに教えてもらった。

 だが、期間は関係ない。この命を、大切に育てていきたい。

 共に生きたいと願った、彼女と一緒に。


「俺と一緒に、育ててくれないか、ステラ」

「……」

「未来に歩いていくっていう俺の覚悟、一緒に背負ってくれないか」


 重いだろうか。鬱陶しいだろうか。


 正直不安で堪らない。彼女には、ただでさえカッコ悪い部分ばかり見せてきた。その上、こんな重苦しい決意、嫌気が差したっておかしくはない。

 金魚を持つ手が震えそうになるのを、懸命に抑える。ここで揺れたら、自分の覚悟が嘘になってしまう。それだけは嫌だった。

 どれだけの沈黙が流れただろうか。数秒だったかもしれないが、何時間も経過したかの様に息苦しい待ち時間だった。

 彼女は、しばらく金魚に視線を落とし。

 そして。


「……分かった」


 ふわりと、リヴェルの手を包み込む様に両手で触れてくる。何だか、その手も雰囲気も笑っている気がして、ぐらりと心が乱される様に揺れた。



「一緒に育てよう、リヴェル」

「……っ」

「私も、過去を乗り越えたいから。……私の分も、一緒に背負って欲しい」



 間近で真っ直ぐに視線が絡み合う。

 澄み渡るほどに真っ黒な瞳。吸い込まれそうなその深さを、いつまでも見ていたいと切に願った。

 自分の覚悟と、彼女の覚悟。

 共に背負えるその未来に、抱えきれないほどの幸せを感じた。


「……っ、ありがとう」


 やっとの思いで、それだけを告げる。

 それで、彼女には充分だった様だ。

 先程の温もりと同じく、ふわりと彼女の顔が花開く。



 それは、これまで見たどの表情よりも、優しくて綺麗な笑顔だった。


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