第50話


 あの日、金魚が死んだ。


 父だと思って大切に育ててくれと言われたのに、死なせてしまった。

 守れなかったことが悔しくて、悲しくて、けれど涙は出なくて薄情だな、と。幼いリヴェルは自分で自分を責めた。

 けれど、母は自分を責めたりはしなかった。

 ただ、忘れないで欲しいと。大切ならば、覚えていて欲しい、と。



 それが、一番の供養になるのだ、と。



 幼い頃は難しくてよく分からなかった。やはり金魚は、死んだ父は、恨んでいるのではないかと、己を責め立てる日は今の今まで続いていた。

 祖母に罵倒され、家の者達にもよそよそしくされ、世間では愛人の子だと影口を叩かれ。

 誰も、自分を見てくれない。認めてくれない。

 否。そうではない。



 見てくれないどころか、存在そのものを否定する。



 目障りだと、口を揃えて指を差す。後ろ指だけならまだ良いのに、祖母には直接罵られ、叩かれ、打ちのめされた。

 泣いても、叫んでも、うずくまっても、誰も近付いては来ない。

 誰も助けてはくれない。自分の身は、自分で守らなければならない。

 だが。



〝命を粗末にする子、愛する価値もないわ〟



 優しかった母でさえ、自分を見限った。



 そんな自分に、生きる意味はあるのだろうか。

 ずっと、――ずっと、疑問だった。



 誰も自分の存在を必要としない。

 むしろ、いるだけで毛嫌いされ、邪険にされる自分は、この世にいる意味が本当にあるのだろうか。

 それに。



 父も、母も。薄情な自分が死ぬことを、心の底から望んでいるのではないだろうか。



 そんなことはないと否定しながら、それでも何処かにその通りだと肯定する自分がいた。

 金魚を大切に出来なかった自分を、父は、死んでから知ったのではないだろうか。知ってしまって、もう自分に愛想を尽かしたのではないだろうか。

 見限り、住んでいた家を更地にまでして去っていった母は、こんな結末を招いた自分を憎んでいたのではないだろうか。

 ならば。



 自分は、どうして今も生きているのだろう。



 最後に行きつくのは、いつも同じ場所だった。

 だから。



〝あなた、――死ぬのは、恐い?〟



 エルスターから最初、ステラの『質問』を聞いた時。



 ――死んだら、父さんと母さんに、もう一度会えるかな。



 頭の中を一瞬で埋め尽くしたのは、そんな願いだった。

 あの頃の――何も無かった頃の父と母にもう一度会いたい。金魚が死ぬ前の、優しくて温かかった父と母に、会いたくて会いたくて仕方が無かった。

 死んだら、無かったことに出来るだろうか。



 死んだら、もう一度、あの時の様に。二人共、抱き締めてくれるだろうか。



 ――彼女が、俺を終わらせてくれるのだろうか。



 彼女がもう一度、父さんと母さんに会わせてくれるのだろうか。



 あの時、確かに。自分は、馬鹿みたいに、死んで願いを終わらせたいと思ってしまったのだ。

 きっと、いつもどこかで『終わり』を求めていた。彼女に最初に惹かれたのは、もしかしたらそこに、愚かでさもしい願いを見出したからかもしれない。

 だが。



〝よけなさい〟



 あの夜。彼女が、自分を生かした日。

 その時から、自分はずっと抱き続けていた願いを、少しずつ反転させていくことになったのだ。











 日も傾き、柔らかなオレンジ色が世界を優しく包み込む中。

 にゃあっと、リヴェルの膝で、猫がくつろぐ様に体を伸ばす。

 ごろごろと肩に乗ったり、足元で寝転んだりと、いつも通り裏庭の猫達は気ままにじゃれてきた。どんな心境でもお構いなしにくっついてくる彼らに、リヴェルは自然と頬が緩む。


「お前たち、もう怪我は良さそうだな。良かったな、ステラに治してもらえて」


 一匹を抱き上げて、腹の具合を見る。

 痛々しかったあとは、もうすっかり消え去って、何の変哲もない可愛らしい腹をさらしていた。ふわふわと触り心地の良さそうな真っ白な腹に、すりっとリヴェルは頬を当てる。

 にゃん、とくすぐったそうに猫が声を上げたが、嫌がってはいない様だ。愛しさが込み上げてきて、軽く抱き締める。


「本当、良かった。金魚が死んでいるのを見た時は、かなりぞっとしたけど」


 猫を撫でながら、リヴェルは差し掛かる日の煌めきに目を細める。この時間帯は、世界がゆっくりと眠りに就く前の、揺りかごの様な優しさを感じて好きだった。

 朝の清冽せいれつで凛々しい空気も好きだし、昼間の生命に満ち溢れた活気も、夜の包み込む様な月夜も、どれも好きだ。



 けれど、少し前までは、昼間に気遅れを抱いていたのも事実だった。



 心の何処かで、いつか訪れる最期を夢想していた。父と母が時折目の前に現れて、己を責める様に黙って見つめてくる様な気がして、苦しかった。

 だが。



「……生きるって、決めたもんな」



 裏庭に来ると、凛とした黒い花が、いつしか隣にいてくれる様になった。

 彼女の存在を思い浮かべ、リヴェルはこつんと猫と額を合わせる。にゃっと小さく鳴き声が上がった。


「ある意味、お前たちがつないでくれたのかもな」


 ありがとな、と頭を撫でれば、不思議そうに猫が瞬く。しかし、すぐに目を細めて気持ち良さそうにしていたので、苦笑してしまった。

 彼らは、本当にこちらの言いたいことが分かっているのかもしれない。いつか彼女が尊敬の眼差しで見上げてきたことを思い出して、噴き出してしまった。


 彼女と、自分を繋いでくれた縁。


 それは、猫と、奇しくも幼き頃の苦い想い出でもある金魚だった。

 初めての彼女との夜の出来事を、夢だと思い込もうとした矢先、彼女が金魚を手に裏庭に凛然と現れた。

 猫の餌にしろと差し出され、腹を立て、金魚を引っ手繰たくる様に奪って。

 なのに、彼女は餌にすると言った金魚を飼うと言い出した。

 そこから本格的に始まった縁だ。感謝してもしきれない。


「……彼女との会話って、いっつもただの世間話で終わらなくてさ。物騒な会話が必ず挟まったり、襲われたりで、全然息つく暇なんてなかったけど」


 猫に語る様に、独り言を並べていく。

 彼女に会うのが、しんどい時もあった。

 命を「たかが」で片付けられ、こちらがいくら言葉を尽くしても、空気に拳を打つ様な虚しさを感じ、息苦しくなることも多かった。

 だが。

 それでも。



「俺、彼女と会える時間、楽しみにしてたんだよな」



 しんどくても、息苦しくても。

 彼女が、こちらに歩み寄ろうとしてくれる姿を見るたび、愛しさを感じた。いつでも真っ直ぐに顔を上げて、背筋を伸ばす凛とした姿に、惹かれていった。こちらの言葉を一生懸命噛み砕き、自分なりに解釈して実行しようとしてくれるその姿に胸を打たれた。

 幼い頃から、誰も自分の言葉なんて聞いてくれようともしなかったのに。彼女は、懸命に近付こうとしてくれた。

 そのことにどれだけ胸を打たれ、救われたか。感謝してもしきれない。

 けれど。



「……本当は、それは彼女だけじゃなかったな」



 ずっと、気付かなかった。いや、気付かないフリをしていた。

 彼女だけではない。


 エルスター達も、出会った時から同じだった。


 入学式の時から、特にエルスターはリヴェルを迷うことなく信じてくれた。

 ただ、自分は目を逸らしていただけで。稀な出来事があっても、友人になっても、道筋は変わらないと諦めて。見ないフリをしていただけで。

 本当は、この大学院に来た時から、理解者には出会えていたのだ。

 それにはっきりと気付かせてくれたのが、彼女だ。


「……遅いかな」


 ステラには、伝わっているだろうか。

 エルスターには、信じてもらえるだろうか。

 乾き切って、荒れ果てた人生しか歩めなかった自分に、どれだけ潤いをもたらしてくれたか。

 マリアも、クラリスも、自分の傍で日常をくれた。

 感謝している。本当に。


 ――けれど。



「……クラリス」



 一抹の不安が、先程から消えて無くならない。

 正確には、エルスターが女子寮に消えてからだ。じわじわと這い寄る様に、背中から、闇に染まり切った見えない手が自分を捕えようとうごめいている気がしてならない。


〝彼らは毎回必ず同じ顔ぶれで行動しているわけでもない。噂話で聞いたにしても、正確には伝わらないだろうよ〟


 不意にエルスターが、あの夜の爆破事件の犯人について漏らしていた言葉を思い出す。

 事件が起こった当初はそれどころではなくて深く考えなかったが、おかしな話だ。

 つまり、彼の話した通りだとすれば、リヴェルやステラを狙った犯人は、あの被害者が自分に絡んできた当時に同じ空間にいたことになる。

 魔法使いに、ステラ以外に知り合いはいないと自分は思っていたけれど。



 あの時、本当に自分の知り合いはいなかっただろうか。



 自分の知り合いで、魔法使いは本当にいないのだろうか。

 何故なら。



〝遠くから声が聞こえて、片方がリヴェル君っぽかったから。何かあったのかと思って……あの、逃げた人たち?〟



 自分の知り合いは、エルスターの他にも、あの時確かにあの場所にいた。



〝魔法使いは、例え知り合いに会っても知らんぷりをするのだよ〟



 エルスターが断言していた。

 もし魔法使い同士が仲良く話していて、例えば何も知らない一般人に素性を聞かれたら誤魔化すのが面倒だと。

 なら、ステラの知り合いはそこかしこにいるのかもしれない。

 それに。


〝知人が、投げてよこしてきたから〟


〝でも、飼う自信が無かったから。たまたま通りがかった知り合いに、『あげる』って渡しちゃったの〟


 ステラに会った最初の頃、金魚を投げて寄越してきた知人がいると彼女は話していた。

 時を同じくして、クラリスが祭りで取った金魚を知人に渡したと言っていた。

 あの時はすごい偶然だと片付けたが、果たして偶然だったのだろうか。


「……っ」


 考えれば考えるほど恐ろしくなる。友人を疑うなんてと、ぶるっと己の薄情さに身震いした。

 だが。


〝だって、たかが金魚だよ? いくらでも代わりはいるもん〟


 数日前にクラリスから飛び出した暴言は、耐えがたいものがあった。

 何故、と頭がぐちゃぐちゃになって怒鳴り付けてしまったのは記憶に新しい。


〝きっとね、一生懸命育てようとする人も、たくさんいるよ。大丈夫〟


 以前は金魚を大切に思ってくれていたのに、何故彼女はいきなりあんなことを言い出したのだろう。突然の異変に、正直理解が追い付かない。

 それに。


〝もしもの時は、覚悟しておくのだよ〟


 エルスターが忠告してきた意味。彼は、無闇に不安を煽る様なことは言わない。何か確信があるからこそ、注意を促してきたのだ。



 夕方。



 エルスターが託してきたキーワードがずっと引っかかって、結局裏庭に来たのに、一向に音沙汰がない。

 だが、自分の中で『夕方』と言えば、裏庭での猫への餌やりだ。それ以外は思いつかない。日課なのだから、他に思い浮かばないのは明白だった。それは、彼も知っているだろう。



 ――何か、あったのだろうか。



「……っ、いや、彼は強いしな! 俺のことも助けてくれたし、……」



 ぞわぞわと、心の中を這い回る影に震えが走る。振り払おうとしているのに、後から後から虫が湧く様にうごめく感触が、気持ち悪くて堪らなかった。

 それに。


「……何があっても、か」


 エルスターは、一体何を予期していたのだろう。誰が相手でも秘術を使えとは、穏やかではない。

 ステラも、この時間帯なら高確率で裏庭に現れるのに、今日に限っては気配すら嗅ぎ取れない。元々彼女は唐突に出現することも多いが、それでも音沙汰が無さ過ぎる。



 ひゅっと、隙間風の様に体の中を冷たいものが通り抜ける。



「……っ」



 がたっと、大きく身震いてしてしまった。自身を抱き締める様に腕を回し、思わず懐の時計の存在を衣服の上から確認してしまう。


「……、何だ?」


 気のせいだろうか。


 周囲の気温が、いつの間にか段違いで下がっている。辺りはすっかりと暗闇に染まっており、周りにいたはずの猫達の姿も見えない。

 何故。

 時間としては、まだ日が落ちるまでには間があるはずだ。なのに、どうして夜の様に真っ暗なのか。

 いや。夜ではない。



「……何にも、見えない」



 夜よりも底知れぬ深い闇に、リヴェルは弾かれた様に立ち上がった。急いで周囲を見渡すが、無の境地の如く何もない。

 足の裏では、短く生い茂る草が瑞々しく伝わってくるはずなのに、かさりとも音がしなかった。手を伸ばして、あるはずの大木に近付いても、手の平にはかすりもしない。ただ、浮浪者の様に宙を彷徨さまようだけだ。


 ――ここは、何だ。


 異常事態だと、馬鹿でも気付ける。そして、非日常に半分片足を突っ込んでいる以上、これが魔法だとは嫌でも感付いた。


「……誰だ!」


 ぎゅっと、胸元辺りで拳を握り締め、リヴェルは気配を探る。

 相手が魔法使いならば、気取らせることなど万が一にもありはしないだろうが、それでも五感を鋭く尖らせた。針の先ほどの揺らぎも見逃したくはない。

 そうして、数秒か、数分か。

 己の息遣いだけがたゆたう空間が、唐突に揺れた。目の前で陽炎の如く、暗闇がはっきりとぐにゃぐにゃ波打つ。


「……っ」


 息を殺して、眼前に集中する。いつでも対処できる様に、リヴェルが念じる構えを取っていると。


「――、え」


 陽炎はやがて人の形を象って、揺らぎが収まっていった。

 そうして、暗闇の中なのに視認出来るのが不思議なほど、明確に形作られたのは。



「……、え、エルスター?」



 数時間前まで一緒にいた、大切な親友だった。


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