明治幻想奇譚 異界篇 

藤巻舎人

夜見坂

第1話  神隠し

               明治幻想奇譚



                夜見坂



 界草平は、書斎で机の前に座り新聞を読んでいた。絨毯の上に置いたカップで、最近気に入っている紅茶を時折啜りながら。しかしなかなか集中出来ない。もう小一時間になるだろうか、台所の方から聞こえてくる声が、どうにも気になってしまう。書生の犬八けんぱちと、よく出入りしている俥夫の小十郎が話しているのだ。時々快活な笑いも起こり、いったいなにがそんなに可笑しいのやら。とうとう我慢出来ず、書斎の引き戸を開け、手を叩いて声を上げた。


「おい、犬八、犬八はいるかい?」

 すると談笑が止み、慌ただしい足音が近づいてきた。

「へい、先生、御用ですかい?」

 坊主頭の大きな体をした犬八が顔を出した。

「う、うん。実は、紅茶が切れてしまってね。代わりを持ってきてくれるかい?」

「へい、承知しました。しかし、いつもは好きだからと、ご自分で淹れるのが常でございましたのに」

「それは、今はちょっと新聞を読むのに専念したいんだ。だから、急ぎで頼むよ、急ぎで」

「へい、左様で」

 犬八は不思議そうな顔をして、書斎から出ていった。それに比べて草平の顔は真っ赤だった。なんで僕はこんな言い訳をしているんだろう。恥ずかしくもあり、少し腹立たしくもあった。ではなにに腹を立てているのか、草平は余り考えないことにした。


 しばらくして、紅茶の入ったカップを危なっかしく持った犬八が書斎に這入ってきた。

「それでは、飲み終わったカップは下げておきますね」

「うん、ありがとう」

 本当は小十郎とどんな話をしていたのか訊きたかったのだが、なんとなく憚られて、言い出せなかった。

「そういえば、ついさっきまで俥屋の小十郎が来てたんでげす」

 犬八は書斎を出る間際に振り返って言った。

「ああ、そうなのかい。気付かなかったよ」

 草平は心にもなくとぼけてしまった自分を恥じた。

「それがですね、アイツがいうには、最近噂になっているらしいんですよ」

「なにがだい?」


「神隠しが」



 神隠しと聞いて、草平の気持ちはいっぺんに惹かれていった。大学で郷土史などを教え、研究もしている身として、大いに興味が湧いてくるのだった。


「神隠しなんて、どこでだい?」

「なんでも麻布辺りらしいです」

「なんと、この東京でかい」

「如何にもです」


 神隠しなどとは、今でも田舎の方ではよく聞く話ではあるが、この東京でとなるとかなり珍しい。

「子供ばかり幾人もいなくなってるっていうことですぜ」

 特に子供と女は神隠しに遭いやすいという。ちょっと目を離した隙に姿を消した、ちょっとそこまでと出かけたまま帰ってこない。そして稀に、何日か、何か月か、何年か後にふらりと姿を現すこともある。しかしすぐにまたいなくなったり、あるいは狂人になっていたりと、余りいい話は聞かない。天狗に攫われた、狐に魅入られた、などなど。

「ふうむ」

 草平は懐手にして、深く考え込んだ。

「どうです、気になりますか?」

 期待の籠ったような声で、犬八は訊いた。

「ちょいと気晴らしに出かけてみるかい」


  

 市電を乗り継ぎ、六本木で降りた。

「さて、こうしてやってきたものの、どうしたものか」

「あれ、先生ぃ、なにかお考えでもあったんじゃないんですかぃ」

「い、いや。これといってなにも考えていないよ。とりあえず来てみただけだ。まぁ散歩だよ散歩」

 そういって草平は鼻歌混じりに通りを歩きだした。昨夜の雨で道は多少ぬかるんではいるものの、天気は快晴。人々に加えて馬車や人力俥に荷車が行きかい、なかなかの賑わいだ。遠く麹町の辺りの空に、飛行船が浮かんでいるのも見えた。

「ここが麻布なんですかい?」

 犬八はきょろきょろと周りを見ながら訊いた。

「そうだよ。初めてかい?」

「へい」

 犬八は昨年、土佐の田舎から東京に出てきて、草平の書生になった。土砂降りの中、玄関の前に佇み「書生にしてくれ」といわれたのを、昨日のことのように思い出された。


「この辺は実に景色が複雑でね、あちこちに坂があるんだ」


「へい、坂、ですか」


 草平は歩きながら坂について話し出した。

「坂というのはね、奇妙なもので、昔っから境を現しているんだ。上と下、高と低、この空間の移相を繋ぐもの、その境界、それら異なるものが交わる場所だと考えられてきた。そういったある意味不安定な場所はね、ふとしたきっかけで異界が顔を出すときがある。だから坂で妖と出会うっていう話が多いんだよ」


「妖、ですか・・・」

 隣で歩きながら犬八がごくりと唾を吞んだ。

「そう、坂で妖に食われたとか、攫われたとか、あるいは異界に迷い込んでしまったってなことはいろんなところで聞くね」

「それが、先生が最近入れ込んでいる『民属学』っちゅうやつですか」

「うん。民が属する世界を探求する学問さ。といってもアマチュアの同好の同志が集まって、勝手に提唱しているだけだけどね」

「しかし、それってぇと、今度の神隠しと坂の多いこの土地、繋がってきますな」


 そんな話をしながら、二人は幾つもの坂を上ったり下ったりして歩いた。広くなだらかで人通りの多い坂もあったが、大半は急で、細く、鬱蒼と木々が生い茂る、昼間でも薄暗いものだった。

「うーん、これは確かに妖が出てもおかしくないですね」

 犬八は暗い坂を上りながら幾分緊張した様子だった。

「坂の上は庭の広い大きなお屋敷が多いから、自然と森や林の中のようになってしまうのかな」

 高台には権力者や金持ちが、谷底には庶民が住むのは昔ながらの世の常で、この差も境界を生む一因なのかもしれない、と草平は思った。

「こう歩き回っていても、なんだか埒が明かないなぁ」

「そうですなぁ」

 荷を満載した大八車や身なりの良い紳士を乗せた人力俥に追い越されながら、二人はぼんやりと道の真ん中で立ち止まった。

「よし、まずは腹ごしらえをしよう。昼飯まだだったな」

 そういってすたすたと坂を下りていく草平に、名案ですねと嬉しそうに犬八はついていった。



 坂の下のすり鉢状の土地には、小さい家や商店がひしめき合うように建っていた。草平は適当に見つけた蕎麦屋へと這入っていった。

 店の中は薄暗く古ぼけてはいたが、案外清潔に保たれていた。客は奥に少し居るだけだった。二人掛けの卓に着くと、草平は天ぷら蕎麦にした。犬八は散々迷った挙句、同じものに決めた。


「蕎麦屋じゃ好物の肉はなかったね」

「別に、そんなではないです」


 犬八は顔を逸らして顔を赤らめた。

 近いうちに牛鍋屋にでも連れて行ってやろう、と草平は思った。犬八が美味そうに肉を食べる姿を想像すると、なんだか嬉しい気持ちになった。

 しばらくして蕎麦が運ばれてきたとき、草平は給仕の女性に話しかけた。


「女将さん、この辺で神隠しが流行ってるって、本当かい?」


「あらやだ、あんた刑事さん?」


 一瞬草平の顔をまじまじと見た後、そんな風には見えないけれど、と蕎麦屋の女将は驚いた。

「いやいや、違うんだよ。ちょいと噂を小耳に挟んだものでね」

「そんなに噂が広まってるのかい? 困ったもんだねぇ」

「やっぱり、坂でいなくなるのかい?」

「そんな話まで? まぁここら辺りじゃぁ、狸も出るしねぇ。みんな狸にばかされたんじゃないかっていってますよ」

「しかし、狸が子供を攫うかねぇ」

「あいつらはなんだってやりますよ」

 そういって、女将は厨房へ下がっていった。


「先生はどうお考えなんですか?」

 蕎麦を啜った後、犬八は訊いた。

「んん、狸や狐は、人を迷わせたりするけど、攫ったりはあまりしないんだがなぁ」

 草平は答えて、さくさくの玉葱と人参とごぼうのかき揚げに噛り付いた。

「それじゃあ、原因は他にあるってことですかい?」

「まぁ、なんともいえないねぇ」

 残りのかき揚げをつゆに浸して、熱々の蕎麦を啜った。思っていた以上に美味しかった。これは良い発見をした、と草平は思った。


 そこへふと、卓上に影を落とす者があった。顔を上げると、どうやら店の奥に居た二人組の客だった。髪は無造作に、だらしなく着崩した着流し姿で、体つきだけは屈強そうな男たち。一人は若く、もう一人は中年で恰幅が良く、口に爪楊枝を咥えていた。

「あんたら、神隠しのこと調べてるって? 探偵かなにかかい?」

 中年の方に声をかけられると、途端に犬八が身構えるのがわかった。まるで牙を剝き出しにして唸り声を上げているかのようだ。

「いやなに、調べてるなんて大層なものではなくて、単に噂を耳にしまして、散歩がてらにぶらついていただけですよ」

 草平は笑顔で、ついでに美味いと評判の蕎麦屋にでもってね、と答えた。

「そうですな、ここの蕎麦は美味い。ついでにお稲荷さんも食ってくといいですぜ、旦那」

 にやりと笑みを浮かべ、おう女将ごっそうさん、と二人組は店を出ていった。

「どうかしたかい?」

 警戒心丸出しだった犬八に、草平は訊いた。

「いえね、いけ好かない臭いがしたもんで」

 犬八はたいそう鼻が利くのだった。犬八だけに本当に犬みたいだな、と草平は思った。

「お稲荷さんとは、はてさて狐のたぐいか」

「どちらかといえば、狸でしょう、あのオヤジは」

 うんそうだな、と二人で笑い合った。

「それはそうと、折角の勧めだ、お稲荷さんも食っていこうか」

 犬八はそれこそ尻尾を振るように喜んで同意した。



「なに、麻布の方まで出張ってったって? それで昨日は留守だったのかい」


 座敷から男の大きな声が聞こえてきた。

「それにしても神隠しなんて初耳だね、このワシを出し抜くたぁ、なかなかの通だねぇ」

 それは草平の大学時代からの友人で、谷口熊友のものだった。多くの土地持ちで、手広く商売も行っているというお気楽者だ。時々こうして訪れては、草平と酒を酌み交わして、他愛のない話を興じていくのだった。


「いやいや、僕だって俥夫の小十郎が話してたってぇのを、書生の犬八から聞いただけだよ」

「なるほど、俥夫なら納得だぁ。あいつらは東京中を走り回ってるからね」

「確かに」

「しかし草ちゃんも物好きだねぇ。そんな噂で麻布まで」


 主人である草平のことを「草ちゃん」と呼ぶこの谷口熊友を、犬八は好きではなかった。余りに馴れ馴れし過ぎる。しかもそう呼ばれるのを、当の草平がまんざらでもないと思っているらしいのが、更に犬八を不満にさせた。

「まぁ、坂道で神隠しと聞いて、どうにも興味をそそられてね」

「坂に神サンとくりゃ、ヤマトタケルノミコトが、坂道で山の神を追い払ったとか、服従させたとか、惑わされたとか、有名な話じゃないかい?」

「流石は熊さん、よく知ってるね。そうそう、坂の下で山神が変化した白鹿に出会ったり、坂の神を服従させたり、峠、いわゆる坂だよね、そこで・・・」

 酒も回って草平の気分が盛り上がってきたところで、熊友は言葉を遮った。


「おうおう、熱くなってきたじゃないか、ええ? 草ちゃん。体も火照って赤くなってるぜ? そんなに胸元はだけさせて、色っぽいねぇ」

「また冗談を」

 狼狽える草平に熊友は畳みかける。

「冗談なんかじゃねぇやい。いつもいってるだろ? 学生時代からずっと草ちゃんのこと思っていたんだぜ? 今だって草ちゃんのこと・・・」


「おほん、おほん!」


 絶妙な機会に、犬八は襖を開け、咳払いをしながら座敷に這入っていった。

「失礼いたします。お茶をお持ちしました」

 そこにはお互い今にも顔が付きそうなくらいに這い寄っている熊友と、着物がずり落ち肩をはだけた赤い顔の草平がいた。大きな体の熊友が、正に襲いかかろうといわんばかりの様子。


「なんだい、いいところだったのに。だいたい酒じゃなくてお茶たぁ、気が利かねぇやい」

「お二人とも、大分酔っているみたいですし、もう夜も遅いですよ」

 丁度良い間で、振り子時計が夜の十時を打った。

「そうだそうだ、熊さん、明日は朝から用事があるっていってたじゃないか」

 慌てて衿元を正して、草平はいい出した。

「うん、まぁそうだな。この辺で、お暇するかね」

 熊友は扇子と中折れ帽を持ち、不満そうに立ち上がった。

「じゃ、草ちゃん、今度は寄席にでも誘いに来るよ」

 扇子を広げ、挨拶代わりに振りながら、熊友は玄関から出ていった。


 ふう、と溜息をついて肩を落とす草平の背後から、犬八は話しかけた。

「申し訳なかったですね、良い雰囲気だったのに」

「な、なにをいってるんだ。僕は、下心なんてこれっぽっちも」

 跳び上がって振り返り、真っ赤な顔をして草平は弁解した。

「いえいえ、折角のお二人の酔いを覚まさせてしまったからですよ」

 犬八はあからさまに冷えた目をした。

「な、なんだいその目は。なにかいいたいことでもあるのか?」

 とはいえ、額に汗して必死で言い訳をする草平がとても可愛らしく、仕方のない主人だ、と可笑しくなった。


「あれ、その手に持っているのはなんです?」


 しどろもどろな草平をみて不憫に思えて、犬八は話題を変えた。

 話が逸れて渡りに船とばかりに草平は喜んで答えた。


「これは、熊さんがくれたものだよ。なんでもお守りになるとか」


 玄関での別れ際「最近なにかと物騒だからな。大陸の方では争いが絶えず、列強どもはこの皇国をも虎視眈々と狙ってる。市井には各国のスパイが暗躍し、海千山千や有象無象な奴らが跋扈してる。英国の外交官なんざぁ吸血鬼だって噂だぜ? そこで神隠しときちゃぁ、なにが起こるかわかったもんじゃないし、なにが起きてもおかしくない。ま、十分気を付けてくれたまえ」と熊友が渡してくれたのだ。

 草平は何気なく錦繍の小さな手提げ袋を開けてみた。


「なんですかい? それは」

「ううん、これは多分、桃の種だな」

 犬八は怪訝な顔をした。

「桃の実は不老不死、桃の種は魔除けになるっていわれているからね。ありがたく頂戴しておこう」




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