第2話 上と下、昼と夜の境界
次の日曜日、草平はどうにも気になって、再び麻布辺りを訪れた。出かける時、犬八は留守だったので、置手紙だけしてきた。
市電を降り、歩いてぶらぶらと坂道を上ったり下ったりしたが、特になにも気を引くものはなかった。その内腹が減ってきたので、また先日の蕎麦屋に這入った。
「いらっしゃいまし」
あの女将さんの声が出迎えてくれた。しかし先日のような威勢がない。店にも客は一人もいない。
「天ぷら蕎麦一つ」
「あれ、あんたこの前神隠しのこと訊いてた人だよね」
「はぁ、そうですが」
「実は、昨日あったんだよ、神隠しが」
詰め寄ってくる女将に対して、厨房の奥からこの店の主人らしい男が、おいそんなことわざわざいうんじゃねぇよ、と声をかけてきた。
「いいじゃないのさ。変な噂が広まって、お客の足が途絶えたら、商売上がったりだよ」
「それで、詳しく教えてください」
草平は先を促した。
「近所にね、夜見坂って坂があるんだけど、その上のお屋敷に酒屋の息子がお酒を届けに行ったまま、帰ってきてないんだって。もうこんな話六人目くらいかしら」
「そんなに? いつもその場所なんですか?」
「いつもあそこって訳じゃないけど、大抵薄暗い坂の辺りらしいわ。昔っから狸が化かすって有名なのよ。鬼火を見たとか、坂を上っていると子供の泣き声が聞こえるとか、変な話は尽きないね、ここは」
とりあえず天ぷら蕎麦を平らげると、日が暮れる頃にその坂に行くことを決心した。それまでの時間潰しに銀座まで出て、本屋やミルクホールをぶらぶらとした。
頻発する子供の失踪。六人やそこらいなくなっているのに、新聞が騒ぎ立てる様子もない。警察は動いているのだろうか。果たして狐狸の仕業なのだろうか。
やはり坂というのが草平には気がかりだった。位相の変化する場所では、時空間どころか物質の状態さえ不安定になる。坂道や峠を越える時、急に具合が悪くなる、背負った荷物が重くなる、呼び声や話し声が聞こえてくる等々、或いは山や坂の神や物の怪に出会うということが多々ある。高から低、低から高。その境界は曖昧で不確かで両義的で、全ての事象に、反転し流転し変転する可能性が与えられる。
ようやく草平が夜見坂へやってきたのは逢魔が時。昼と夜の境目、人の誰それも判別出来ず、人かどうかも見分けがつかない、黄昏時。つまり高と低、昼と夜、空間と時間二つの境界が重なるのだ。
草平は今、坂の下からその先を見上げていた。
上り口の左手には二階建ての木造家屋があって、無人なのか明かりがついていない。右手は急な斜面になっていて鬱蒼と木々が生い茂り、夕闇を更に濃いものにしていた。坂道は細く、途中でうねって上までは見通せなかった。
足が微かに震えていた。空気も肌に冷たく、湿っていた。ええい、ここまで来て気後れしてどうする、と草平は自分に気合を入れ、眼鏡を正し、袴の上から褌を引き締め、周りを威圧するように下駄を踏み鳴らして坂を上り始めた。
いったいなにが起ころうと、僕はこの目で見定めてやる、と草平は心の中で繰り返す。そこで突然頭上の葉叢が大きくざわめいた。
「うわっ」
思わず声を漏らして身を屈めると、なんてことはない数羽の烏が鳴きながら飛び立った音だった。
「な、なんだ。脅かすな」
ふうと胸を撫で下ろした。
「誰かっ! 助けて!」
安心したのも束の間、どこからか子供の叫び声が聞こえた。
これは! とハッとして周囲を窺おうとした瞬間、後頭部への強い衝撃と共に、地面が歪み、暗闇がすべてを覆った。
なにか騒めきが聞こえる。
あれ、朝だろうか。僕はいつの間にか眠ってしまったのかな。どうやら座っているようだ。こんな格好で眠るなんて、ここはどこだろう。
ぼんやりと視界に自分の袴と足が見えた。やけに頭の後ろがズキズキと痛んだ。それに手が動かない。随分と窮屈だ・・・。
「お、こいつ目が覚めたようですぜ」
野太い男の声が聞こえた。
「おい、顔を上げろ」
頭を掴まれ、無理矢理顔を上げさせられた。草平の間近に、三十超えた位の肉付きいい強欲そうな男の四角い顔があった。ランプの明かりだけの薄暗い建物の中、周囲には数人の男たちの影があった。
「俺はちゃんと言ったよなぁ、お稲荷さんでも食って、とっとと帰れって」
ああ。そこで草平は思い出す。この男は先日蕎麦屋で話しかけてきた二人連れの男の一人だ。あの狸オヤジ。しかしそれがどうしてここに。
「まだなんにも分からねぇって顔してんなぁ」
草平の頭を押さえつけていた手を放し、狸オヤジは立ち上がった。
ここはどこかの民家の土間のようなところだ。そして草平は太い柱に後ろ手に縛られ、固められた地面に座らされていた。先程から後頭部が痛むのはおそらく。
「あんたを坂の途中で後ろから殴って、ここに連れてきたんだよ」
「しかし、どうして・・・」
頭の痛みに顔をしかめながら、草平はようやく声を出した。
「あんた子供の神隠しの件を嗅ぎ回ってたろ。仕事の邪魔なんだよ。あそこの蕎麦屋のおやじには金渡して、臭ぇ奴が来たら知らせてくれって言ってあってな。そこであんたがまた登場したって訳よ」
狸オヤジは厭らしく笑った。
「それでは、君たちが子供を? 神隠しではなく?」
「神隠しなんて隠れ蓑さ。この辺じゃ狸だとか狐に化かされたって話が多かったしな。それでも噂が広まって、あんたみてぇのが寄ってきちまった。そろそろ潮時かもなぁ。最後にえれぇデカイのが釣れちまったけどなぁ」
それを聞いて周りの屈強そうな男たちは笑い出した。
「け、警察が黙ってはいないぞ」
草平は精一杯の強がりをぶつけてみた。
「おうおう、威勢のいいあんちゃんだぜ。そういうのが好きってお客もいるし、この体は高く売れそうだ」
狸オヤジは値踏みするように草平の体を眺めた。
お客? 売れる?
「ようやく合点がいったか? 攫った子供は売るんだよ。それも、身分の高い高いお偉いさん方にな」
「だから、地位のある人たちが、警察や新聞に話付けてくれてるって寸法よ」
周りの若い男の一人が嬉しそうに言った。
「地位も名誉もある旦那方ほど、夜の方はお盛んときたもんだ。それもありきたりのものじゃ飽きちまったんだろうな。生きのいい子供をご所望なんだ。しかし中には昔っからの硬派なお方もいらっしゃってな、あんたみたいな大人の男を欲しがる人もいるんだよ」
草平の前に腕を組んで仁王立ちする狸オヤジは、下世話な笑いを浮かべた。
「おい、こいつを立たせろ」
それを聞いて男たちは、柱に括りつけられたままの草平を立たせた。
「俺もどっちかっていうと、硬派の方でな」
草平の衿元を野太い指で掴み両手で乱暴に開いて、男らしい胸を露わにさせた。
「いい体をしてやがる。正に俺好みだぜ。客に渡す前に、ちょいと味見させてもらってもいいだろ」
それを見計らって男たちが、暴れてもいいように草平の足を押さえ付けた。
「な、なにを」
「可愛い顔したあんちゃんが、泣いて喜ぶ顔がみたいんだよ。蕎麦屋で一緒にいた、書生風の坊主頭。あいつに毎晩可愛がってもらってるんだろ?」
狸オヤジは草平の首筋に指を這わせながら嗤った。
「違う! そんなんじゃ」
草平は語気を強めて否定した。
「へへへ、娘みたいにムキになって、ますます可愛いねぇ」
色欲を帯びた狸オヤジの目は、草平の素肌を上から下までねめつけた。
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