第3話 夜見坂
「今日はここまでにしておいてやるかな。焦らして焦らして十分楽しんでから売り渡すとしよう」
好色な笑いが沸き起こる中、狸オヤジは若い連中に酒を買いに行かせた。ついでに蕎麦屋で稲荷寿司と天ぷらも、と付け加えた。
残った全員が土間の奥にある板敷の広間に上がり、囲炉裏の周りに座り込んだ。
草平は独り、土間の柱に後ろ手に括りつけられたまま、腰を下ろした。着物は乱れ、裸同然のままだった。恥辱の名残りで身も心も焦がしながら、これからどうしたものかと考えていると、今まで気付かなかったが、男たちの居る広間の隅に、男の子が一人、同じように手を縛られて床に横たわっているのが見えた。
そうか、あの子が神隠しと思わせて攫われた酒屋の息子か。坂道で聞こえた助けを呼ぶ声はあの少年のもので、そうなるとこの建物はあの坂の近く、もしかすると坂下にあった古ぼけた一軒家なのかもしれない。
しかしそれが正解であったとしても、この状況を変えることは叶わず、また振り出しに戻ってしまった。
歯痒い思いをしながらなにも出来ずにいると、勢いよく引き戸が開いて、先程酒を買い出しに行った若い衆が息を切らせながら入ってきた。
「大変です、お頭」
「どうしたってんだ」
狸オヤジが警戒した面持ちで立ち上がった。
「今、例の蕎麦屋に寄ったら、警官が俺たちのこと聞き込みしてるって」
「なぁにぃ? しかし蕎麦屋には金を渡してある。うまい具合にとぼけるだろ」
「いや、どこで聞いたのか、人集めてもう直ぐここに来るらしいですぜ」
「それを早く言え!」
舌打ちをしてしばらく思案気にした後、狸オヤジは心を決めたようだ。
「よし、ずらかるぞ! もう潮時だ!」
「お頭、こいつはどうしやす?」
男が草平を指して訊いた。
「折角の戦利品だ、連れてけ。だが手は縛っとけよ。あと袴はちゃんと履かせとけ。あんな格好だったら目立ってしゃぁねぇ。急げよ!」
人攫いの男たちが慌ただしく逃げる準備をする中、戒めを解かれた後に草平は立たされ、袴を履かされ、また直ぐに手首を縄で縛られた。
「おら、急げ、出るぞ!」
号令と共に皆建物の外へ駆け出した。一緒に酒屋の息子も連れ出されたので、草平は機会を見て一緒に逃げなくては、と思った。
外に出るとやはりそこは夜見坂の下の一軒家で、月明かりだけの暗い坂道を人攫い一党は急いで上がり始めた。
「もたもたすんな!」
後ろ手に縛られて走り辛いのに、後ろから小突かれて急かされ、草平は息を切らせて走った。こんななら犬八に付き合って運動でもしておけばよかった。しかも下り坂だから尚走り辛い。
え?
待てよ。僕たちは今、夜見坂を上っていたはずだ。
しかし現に草平たちは転ばないように坂道を駆け下っていた。
「ちょ、ちょっと待った。なにかおかしい!」
「バカ野郎、立ち止るな!」
後ろの男に押され、草平は思わず転んでしまった。手が縛られているので、思うように立ち上がることが出来ない。
「もういい、置いてけ!」
足手まといなら要らぬ、と前方から声が飛んできた。
このまま捨てていかれるなら助かる。草平は一瞬思ったが、それではいかん、あの男の子が助からない、と一生懸命立ち上がりながら叫んだ。
「待ってくれ! ここは上り坂のはずだ! なのに今は下り坂になってる。少し足を止めてくれ!」
草平の必死の訴えを聞いて、狸オヤジがちょっと立ち止まって振り返った。
その矢先、先頭を走っていた男が悲鳴を上げた。
「今度はなんだ!」
前方を見ると、坂道の途中から宵闇よりも濃い真黒な煙のようなモノが、男たちをその内に呑み込んでいく。
誰もが凍り付いたように動けない。呑み込まれた男たちは、まるで沼に沈むように姿が見えなくなった。いったいなにが起こっているのか、理解の範疇を超えていた。一瞬の静寂を破ったのは、少年の叫び声だった。
酒屋の息子は手を縛られたまま、恐怖に引きつった顔で坂道を駆け戻ってきた。我に返った草平は、早くこっちへ、と少年に呼びかける。
それに気付いた狸オヤジが、脇を通り過ぎる少年の襟首を捕まえて引き留めた。
「おまえに逃げられてたまるか!」
「バカ野郎! そんな場合じゃないだろ!」
草平は恐怖と怒りで怒鳴りつけ、少年を取り戻そうと二人に駆け寄った。
「手を離せ」
「ふざけんな」
「一緒に逃げるんだよ!」
そのとき、既に墨汁のような闇は、狸オヤジの背後に迫っていた。
「あっ」
狸オヤジが黒雲に気付き声を上げる。驚きの瞬間で、酒屋の息子から手が離れた。
すべてがゆっくりと動いて見え、狸オヤジの面持ちが驚愕と恐怖に染まって姿が蠢く闇に消えていく中、草平は無理矢理勇気を奮い起こし、叫んだ。
「逃げろ!」
少年の手を取り、坂道を駆け出した。しかし、闇は手を伸ばし絡め捕ろうとするかのように勢いを増して襲い掛かってきた。
呑まれる。
草平はせめて、と少年の体を引き寄せる。そのとき、既に乱れた着物の懐から、ぽろりとなにか丸いものがこぼれ落ちた。
それは、熊友がお守りにと寄越した、桃の種の入った小袋だった。宙を流れ、お守りが黒雲の触手に触れた刹那、眩い閃光が弾け、闇が怯んだ。
今が好機、と草平は少年を急かして坂道を駆け上がった。
恐怖と緊張で、息が苦しい。肺と心臓が張り裂けそうだ。足に力が入らず、もつれる。少年も限界がきたのか、地面に膝を付いた。
「頼む、あと少し・・・」
しゃがみ込んだ少年を引き起こそうと縛られた腕に力を込めたが、逆に平衡を失って草平も地面に膝を付きそうになった。
もう駄目だ。そう思ったとき、何故か犬八が頭に浮かんだ。くそぅ、主人の危機に書生の犬八はいったいなにしているんだ。犬八、何処にいるんだ。助けを乞えるのは僕には君しかいないというのに。
「犬八ぃぃ!」
少年と坂道の途中で崩れ落ちながら、草平はもう何処とは知れぬ天へ向かって叫んだ。
いきなり、地面から体が持ち上がるのを感じた。気が付けばなにか柔らかな毛に覆われたモノに密着していた。
顔を上げると、前方に獣の頭が見えた。これは、犬、いや、山犬か?
草平は大きな、それも牛程もある巨大な山犬の背に乗せられ、酒屋の息子を抱きかかえるようにして跨っていた。
山犬は二人を乗せると、疾風のように坂道を駆け上がった。我に返って背後を振り返れば、迫りくる不定形な暗黒の触手。しかしそれよりも速く、柔らかい毛の下にある逞しい筋肉を猛烈に躍動させ、山犬は走った。
少年はとうに気を失っていた。もう大丈夫かもしれない。まだまだどうなるかわからない状況なのに、不思議とそう思えた。草平も安心すると、気が抜けたのか意識が遠のいていった。何故だか親しみのある、頼もしい背にしがみつきながら。
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