第4話 あの世とこの世の間
激しい雨音に交じって、玄関の戸を叩く音がした。
こんな空模様に誰だろう、と草平が赴くと呼ぶ声がする。
「界草平先生はいらしゃいますか」
慌てて引き戸を開けてみると、坊主頭の逞しい体つきの青年が、傘も差さずにずぶ濡れで立っていた。青年は草平を見ると精悍な顔をたちまち破顔させた。
「ああ、先生だ。本当に界草平先生だ。やっと会えた」
「まぁまぁ、とりあえず中に入りたまえ」
草平は要件は不明だが、見た限り悪い男ではなさそうなので、むしろ初対面ながら好感が持てたので、家の中に通し、まずタオルで濡れた体を拭かせ、着替えを差し出した。
「やれやれ、僕の着物じゃちと小さいか」
青年は犬八だと名乗った。姓は無く、ただの犬八だと。この近代化に勤しむ明治の世に姓が無い者もまだまだいるんだなぁ、と呑気な草平は感慨深く思った。
更に青年は続けた。遥々土佐の田舎から出てきて、草平に会いに来たのだと。
「先生の、あの、なんていったか、書いた本にいたく感激したのです」
土佐出身という割には訛りがまったく無いのが不思議だったが、自分の本を褒められて、草平は悪い気はしなかった。
「それじゃ、『民属学序説』を読んでくれたのかい」
犬八は戸惑った素振りを見せ、慌ててそれですそれですと二つ返事をした。
はて、あの本は一部の奇特な愛好家向けに小数部だけ刷っただけだったような、とそこは草平のことだから特に気にしなかった。
「先生ぃ、実はこの犬八一生のお願いがあって参りました」
初対面の人間から一生のお願いとは奇異なことだが、余りの勢いに気圧されてしまった。
「はい、なんでしょう?」
「この犬八を、先生のお側に置いて欲しいのです。どんなことでもしますから、どうかお願いします!」
著書に感動したから側に置いてくれとは、これまた相当突拍子もないことだった。自分には学が無い、それでもあんな素晴らしい本を書く人のお側で勉学に励みたいのだ、と犬八はまくし立てた。いささか強引な事の運びだったが、それはこの草平のことである。独り暮らしで不便もしていたし、丁度書生でも置いてみるかと思っていたところであった。なによりも学びたいと訴える人間を、教師としても無下には出来ない。
「それじゃ、ウチの書生にでもなってみるかい」
そんな成り行きで、草平は犬八の身を引き受けた。
「それってぇと、ナニかい? 俺のお守りが効いたってぇのかい?」
見舞いに押しかけてきて、ずかずかと座敷に上がり込んだ熊友は、得意そうにニヤニヤしていた。
「うん。本当に助かったよ」
寝床に横になったまま草平は微笑んだ。
夜見坂の一件から二日、草平は体調が優れず寝込んでいた。しかしもう大分回復していたのに、書生の犬八が起き上がることを許さなかった。
「それにしても、酷い目にあったもんだなぁ、草ちゃん」
「まさかこんなことになるとはね」
酒屋の息子は助かったものの、それ以前に神隠しを隠れ蓑にして攫われた子供たちは行方知れず、人攫いの一味は全員消えてしまい、事件は迷宮入りになってしまった。
「警察に、人攫いは夜見坂に呑み込まれました、なんて言っても変人扱いされるだけだものなぁ」
熊友の言葉に、草平はあのときのことを思い出していた。坂を上っていたはずなのにいつの間にか逆転して下り坂になり、坂の下から這い上がってくる暗闇に人々が呑み込まれていった様を。
「熊さん、あの夜見坂は黄泉坂、異界の黄泉比良坂に繋がっていたのかもしれないね」
「そりゃまた随分恐ろしいものだなぁ」
「うん、だからあの桃の種が効いたのかな」
「神話に出てくるやつだな。黄泉の国から逃げ出すイザナギノミコトが、あの世とこの世の境にある黄泉比良坂で雷神と鬼の軍勢を桃の実を投げつけ退けたっちゅう話だったか」
またしても境目だな、と草平は思った。
境界、相反するものが混じりあい、不安定になり、時に反転し、流転し、変転する特異点。
ちょっと考え込んでいると、それを具合が悪いと取ったように、犬八が襖を開けて座敷に這入ってきた。
「熊友さん、先生はまだご気分が優れませぬ故、そろそろお引き取り願えますかい?」
気付け薬と水をお盆に乗せて運んできた犬八は、いささか高圧的なもの言いで熊友に迫った。
「ちっ、なんだ、また書生の犬っころの邪魔が入ったか」
犬八の態度など気にも留めない様子で、熊友はニヤニヤと笑った。
「犬っころではありません。犬八でござんす」
「せっかく草ちゃんとこれから一つ布団の中でいいことしようとしてたのに、なぁ?」
「く、熊さん、なにを言ってんだい」
慌てて否定する草平を見て、犬八は機嫌を悪くしたようだった。
「またまた熊友さん、お戯れを。先生はもうお休みになりますから、後はこの犬八にすべてお任せください」
犬八は挑むように笑いかけた。
「さて、犬ころに床の世話が出来るかいな?」
「ちょ、熊さん」
「ええ、先生については隅から隅まで熟知しておりますんで」
「あれ? 犬八もいい加減止さないか」
熊友と犬八がふてぶてしい笑顔で向かい合う狭間で、草平はおろおろとするばかりだった。
「ま、こうして困り果てている草ちゃんを眺めているのも楽しいんだが」
草平は敵わないとばかりに顔を赤くして、頭の後ろを掻いた。
犬八は不満顔ではあるが、熊友の意見に賛成のようだった。
「流石に体調も心配だしな、今日のところは帰るとするかね」
草平も立ち上がろうとすると、病人に見送りさせる訳にはいかん、と熊友は断って、座敷を出ていった。
「病人なんて、そんな大袈裟なものでもないのに」
布団の中で草平は呟いた。ただちょっと異界の空気を吸い、異界に呑み込まれそうになっただけだ。いやしかし、イザナミノミコトは黄泉の国の食べ物を食べて、もう地上に戻れなくなったのではなかったか? そう考える草平の背中を怖気が走った。
熊友を見送って戻ってきた犬八は、布団の中にもぐっている草平を見て驚いた。
「先生ぃ、やっぱり具合が悪いんで?」
「い、いや、ちょっとね」
「無理なすってはいかんですよ」
犬八は枕元に正座し、布団から頭だけ出している草平を見つめた。
「しかし、本当によかった。坂の下で倒れている先生を見つけたときは、気が気ではなかったですよ」
草平が人攫い集団に拉致されている間、帰りが遅い草平を心配し、勘を頼りに麻布まで来てみると、蕎麦屋の女将が坂を見に行ったというので周辺を探して、偶然あの一軒家を見つけたということだった。
「土間の柱に縛られている先生を見つけて、どうしたら助け出せるかと機会を伺っていたら、酒を買い出しにいくといいだしたので、これは好機だと、酒屋と蕎麦屋に先回りして、警察が捜査していると噂を流したんです。それに引っ掛かったあいつ等が慌てて逃げ出すのを見送って、後を付けて追おうとしたら、いきなり倒れている先生と少年を見つけたんです」
布団の中で犬八の話を聞きながら、あのアジトを出て坂での出来事を、犬八にはほとんど一瞬に感じられていたのが不思議に思われた。異界では時間の流れが異なるのだろうか。
「・・・ん? あれ?」
突然の素っ頓狂な草平の声に、犬八は驚いた。
「どうしたんです?」
「土間に縛られていた僕を見つけたといったが、それはいつ頃のことだい?」
布団から飛び出した草平は、怖いような顔だった。
犬八はちょっと躊躇った後、ニヤリと悪そうに笑った。
「もちろん、先生が着物を乱して、土間に座らされているところです」
「本当か?」
「本当ですよ。それ以前になにかあったんですかい?」
「う、嘘だ。犬八、正直にいえ。君はいつから覗き見していたんだ?」
「覗き見だなんて人聞きの悪い」
草平は顔を真っ赤にして、今にも沸騰しそうだった。
「僕があんなのことされていたのを、見ていたんだろ?」
「あんなこととは、どんなことですか?」
「そ、それは、ぐぅ・・・」
怒っているような恥ずかしがっているような、自分でもどうしたらよいかわからないような顔で、草平は歯ぎしりをして唸っている。
「もういい、寝る!」
草平は頭から布団を被ってしまった。
「先生ぃ、どうか機嫌を直して下さいよぉ」
犬八は正座したまま、穏やかな笑顔で布団を見下ろしている。
「僕は腹が減った。なにか美味い物を食わしてくれ!」
布団の中からくぐもった声が聞こえてきた。
犬八は愛しい者を見るような顔のままだった。
しばらくして、布団が静かに上下し、小さくい寝息が聞こえてきた。どうやら草平は眠ってしまったらしい。
「先生ぃ、俺は土佐で一度先生に会ってるんです。恐らく覚えておいでではないと思いますが、そこで命を助けられたんですよ。だからその御恩に報いようと、頂いた命を先生の為に使おうと、ここに参った次第です。俺は先生の為ならなんでもしますよ。だからなにかあれば遠慮なくいって下さいね。俺は先生のこと、大好きですから」
いい終えると、犬八は静かに立ち上がり、座敷を出ていった。
「美味しい物をお作りしますね」
布団の中で夢うつつのまま、草平は思った。
そういえば、あの山犬はなんだったんだろう・・・。
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