幽霊橋

第5話  幽霊橋


「草ちゃん、幽霊見物に行こうや」

 いつもの如く大学時代からの親友の熊友は突然押しかけてきた。

「なんだい藪から棒に。幽霊って、いわゆるお化けのことかい?」

「そうだよ、他にあるかい」

「いやでも、いくら真夏だからって、肝試って」

「肝試しじゃねぇやい。本物の幽霊だぜ」

 座敷で向かい合わせに座りながら、草平と熊友はそんな話をしていた。大きな体に剃り上げた頭、口髭を生やした強面の熊友と、中肉中背のなで肩で、眼鏡をした恵比須顔の草平は、好対照の二人だった。

「失礼しやす」

 襖を開けて、書生の犬八が這入ってきた。

「あいすくりいむをお持ちしました」

 毬栗頭のいかつい男が、小さな器に載ったアイスクリームを細々と机に置いた。

「こんな物、いったいどうしたんだい?」

 草平は驚いて犬八に訊いた。

「はい、熊友さんから手土産に頂いたものです」

「そうそう、あいすくりいむなんて食ったことあるかい? 珍しいから持ってきたんだよ。草ちゃんに食わせたくってね」

 熊友は嬉しそうに草平に勧めた。

「うん、まぁ」

 草平が躊躇っているのを見て、熊友は苦々しく言った。

「安心しな。この小憎たらしい書生にも持ってきたよ」

「へい、ちゃんと頂いておりやす」

 犬八も不満気な顔で答えた。

 熊友と犬八はどうも仲が悪い。お互い嫌っている訳ではなさそうなのに。現に熊友は犬八の分まであいすくりいむを用意してくれていた。

 では遠慮なく、と草平はスプーンで淡黄色のアイスクリームを掬って食べた。爽快な冷たさと濃厚な甘さが口の中で融け広がった。

「うん、美味い!」

「だろう?」

 熊友は満面の笑顔だ。

「それに冷たい!」

 嬉々としている主人を見て、犬八も顔をほころばせた。



「しかし幽霊なんてどこに見にいくんだい?」

 そもそも幽霊なんて花火みたいに見物に行って見られるものなのだろうか、と草平は訝しんだ。

「幾つかあるらしいんだが、近場だと日本橋川に架かる橋に、よく出るってもっぱらの噂なんだよ」

 熊友は思わせ振りに声を潜めた。

 そんなものが幾つもあるのか、と草平は胡散臭く思った。それにしても橋にとは。

「橋・・・・ねぇ」

「なんだ、なにかあるのかい?」

「いやね、橋っていうのは、いろいろと曰くがあるからねぇ」

「また得意の民属学かい」

 熊友は呆れ顔で懐手にふんぞり返った。

「まぁ、難しいこと無しで、見に行こうや」

 なんだかんだと言いくるめられて、草平はようやく立ち上がった。

「おい、気の利かない書生やい、草ちゃんが出かけるぞ」

 そこにすぅっと襖を開けて、既に余所行きの浴衣に着替えた犬八が這入ってきた。

「先生、それでは先日買ったこの浴衣を着ていきましょう」

 犬八はこの間新調した白と藍の縞入り浴衣を手にしていた。

「なんでお前が浴衣に着替えてるんだ」

 熊友が苦言を呈した。

「幽霊見物なんざ物騒なことで、先生になにかあったら大変でやすからね 俺もご一緒させていただきます」

「まぁ、なんでもいいから早く準備をしてくれ。電車が無くなっちまう」

 熊友は不満気に立ち上がった。



 一行は市電に揺られ、とりあえず日本橋で降りて、そこから日本橋川沿いをぶらぶらと歩いた。

「しかし熊さん、幽霊が出るっていうのは、いったいどの橋なんだい?」

「そう焦りなさんな。もう一本向こうの橋さね」

 既に時刻は夜の七時。辺りは暗くなっていた。しかし流石は日本橋界隈、暗くなるにつれて人も多くなってきた。

「やっぱり蒸し暑いねぇ。団扇でも持ってくればよかった」

 草平は浴衣の衿を開き、歩きながら掌でぱたぱたと扇いだ。

「こういう蒸し暑い夜の方が、幽霊は出るもんなんだよ。それにしても・・・」

 そういって熊友は草平の露わになった胸元を眺めた。

「浴衣姿の草ちゃんは格別だねぇ」

「熊友さん、ウチの先生に色目を使わんで下さい」

 犬八は草平と熊友の間に割って入った。

「あぁ? なんだと犬ころ。さっきから草ちゃんの汗の匂い嗅いで悦に入ってるのはバレてんだぞ」

「え、犬八?」

 驚きの顔をする草平。

「い、いえ。決してそんなことは!」

「たく、鼻の孔ヒクつかせやがって」

「熊友さんこそ、先生の胸を覗き見てるではないですか」

「おう、さっきからずっと見てらぁ。見て悪いか」

 賑やかに歩いている間に、目当ての橋に到着した。



「あれ、なんだか・・・」

 橋を目の前にして、足を止めた草平は呟いた。

「うん、そうだな。どことなく雰囲気が」

 熊友の声も自然に小さくなった。

 それは一見どうってことのない石橋なのだった。

「誰も渡っている人がいない。それどころかこの辺り、随分静か過ぎやしないかい?」

 草平の言葉に、ほかの二人は納得した。

「先生ぃ、こいつは・・・」

 犬八がなにか言おうとした。

「おいおい、なに怖気づいてんだい? せっかくここまで来たんだから、とりあえず橋の真ん中にまで行ってみようじゃないか」

 熊友は威勢よく橋を渡りだした。

「熊さん、ちょっと!」

 引きずられるように草平も後に続き、心配そうに犬八も付いていった。

「なんだいほら、ただの石橋じゃないか。幽霊なんかいやしないさ」

 大きな声でいう熊友に、そもそも幽霊を見にきたのでは? と心の中で突っ込みを入れる草平であった。



 ざらついた石の欄干から身を乗り出して、川を見下ろしてみたが、水の気配はすれど、不気味なくらい真っ暗で川面は見えなかった。

 そんな三人の背後を、小走りで駆けていく人影があった。幽霊か、と驚いて振り返れば、幌の付いた俥を曳く俥夫だった。

「おい、ちょいと」

 熊友が声をかけた。

「へ、へい。旦那」

 慌てた様子で俥夫は止まり、舵棒を下ろした。若くたくましい男だが、どこか落ち着きのなかった。

「さぁ、何処まで行きやす?」

「いや、乗りはしない。だいたい三人も乗れんだろ」

「なんだって? こちとら急いでるんだ。冷やかしなら家帰って寝てろい」

「いやいや、ちと訊きたいことがあってな。もちろんタダとはいわんぜ」

「なんだ、最初からそういってくれよ、旦那ぁ」

 熊友は懐から小銭を出した。

「で? 旦那。訊きたいことって? なるべく手短に。俺ぁ急いでるんだ」

「なんだい、客待たせてんのかい」

「違ぇよ。知らねぇのか? この橋は幽霊が出んだよ。だから急いで渡りてぇのさ」

 自分の言葉に、三人が妙な顔つきになったので、俥夫は太い眉をぴくりと動かした。

「なんでぃ、幽霊のことが訊きたかったのかい?」

「その怯えようじゃ、幽霊の噂は本当みたいだな」

「ああ? 俺のどこが怯えてるってんだ」

 俥夫は日に焼けた顔を、暗がりでもわかるくらい真っ赤にして、憤慨してみせた。

「その様子だと、ここに幽霊が出るっていうのは本当らしいな」

 俥夫は不機嫌そうに舵棒を持ち上げ、急いで俥を出そうとした。

「ちょっと待った。いったいどんな幽霊なんだい?」

 慌てて草平が声をかけた。

「男の幽霊だって。格好からして橋を造ってた労働者じゃねぇかってさ」

 素っ気なく言い終えると、俥夫は一目散に駆けていってしまった。



「大の男が幽霊なんざ怖がってら」

 走り去る俥夫を見ながら、熊友はからかうように笑った。しかし内心では、あんな屈強な俥夫が怯えてるなんてこれはえらいこっちゃ、と早くこの橋から立ち去りたい気持ちで一杯だった。

「俥夫の話が本当なら、この橋梁の建設に携わった人間の幽霊ってことになるなぁ」

 顎に手を当てて、草平は俯き加減に呟いた。

「おい、もういいだろ。とっとと帰って麦酒でも飲もうや」

 熊友はもうお開きだといわんばかりだった。

「するってぃと、橋の建設のときに、事故でも?」

 犬八は草平に倣う。

「そうだ、途中でビヤホールにでも寄っていこうぜ」

 熊友は更に大きな声で急き立てる。

「そうか、事故という線もありだな」

 空元気な熊友に構わず、相槌を打つ草平。

「工事の間、なにか事故がなかったかどうか、この近所に訊いてみましょうか」

「うん、そうだね。工事を請け負った会社にも当たってみようか」

 すっかりのめり込んでいる草平と犬八を他所に、さっきまで騒いでいた熊友は急にだんまりしてしまった。



「橋は彼岸と此岸を繋ぐもの、それらの中間にあってどちらでもあり、どちらでもない境界を成すものなんだ」

「坂のときと一緒ですね。そういった曖昧な場所では、異界が顔を出す。今回は幽霊ですかい?」

 犬八は草平の言を受けて答えた。

「なかなかわかってきたじゃないか。橋と云えば新宿の駅から西に行くと淀橋ってところがあってね。そこの神田川に架かる橋が通称『姿見ずの橋』と呼ばれているんだ。昔欲深な長者が自分の財産を、橋を渡った先にある神社の境内に埋め隠すのに何度も往復した。しかし財産を運ぶ人夫の姿は行きにはあっても帰りには見られなかった。なんと長者は隠し場所をばらされないように毎回財産を運んだ人夫を殺して橋から捨てていたんだ。行きは見えたが帰りには姿が見えない。だから『姿見ずの橋』ってねぇ、熊さん。聞いてるかい?」

「あ、お・・・」

 草平が話を向けると、熊友は目を見開き、震える口元でなにかを伝えようとしていた。

「ん、どうしたんだい熊さん。ハトが豆鉄砲食らったみたいな顔して」

「う、う、後ろ・・・」

 熊友は、なにかに気付かれるのを恐れるようにゆっくりと腕を上げ、草平の背後を指さした。

「後ろって、後ろは川・・・」

 訳がわからず振り返ってみると、真新しい石の欄干の直ぐ向こうに、ぼんやりと青白い姿の男が立っていた。

 いや、浮いていた。

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