第6話 呼び声
庭に面した引き戸を開け放ち、濡れ縁から足を下ろして、草平は扇子で扇いでいた。厚手の葉っぱを茂らせた柿の木に留まっている油蝉が騒々しく鳴いて、今日も暑くなることを予感させていた。濃紺の朝顔も、辟易しているようだ。
「しかし、こう暑くちゃ堪ったものじゃないな」
浴衣の胸元を大きく開き、忙しく風を送り込む。裾は大胆にたくし上げ、両足は太腿まで露わだった。
そこに書生の犬八がやってきて、冷たい緑茶を淹れた切子細工の涼しげな器を側に置いた。
「こんなときは、先日熊さんが持ってきてくれたあいすくりぃむが食べたくなるなぁ」
「噂をすれば、ですね。熊友さんから手紙がきてますぜ」
む、と片眉を吊り上げた草平は、受け取った手紙を早速開けて読んだ。
「急な用事ですかね?」
気になって犬八は尋ねてみた。
「いや、先日の幽霊騒動から、物忌みで家に籠っているそうだ」
「だいぶ怖がってましたからねぇ」
犬八は苦笑した。
橋の上で幽霊に遭遇し、熊友が一目散に駆け出したので、草平と犬八も後を追って逃げ帰ってきてしまったのだった。
「物忌みなんて、随分雅な。しかし、あの幽霊は・・・」
「俥夫が言っていた通り、土木人夫らしき姿の男でござんしたね」
「うん、やっぱり橋の工事中にでも亡くなった人なのかなぁ」
草平は足を組んで、片手で扇子を扇ぎながら考え込んだ。
幽霊は、この世に未練を残して死んだ者がなるという。彼はいったいどんな心残りがあったというのか。なにを訴えたかったのか。
「あんな恨めしそうな姿みせられちゃぁ、どうも気になって仕方がない。ちょっと調べてみようか」
扇子をぴしゃりと畳んで、草平は言った。
「へい、流石は先生。そうこなくちゃ」
犬八は自慢気に笑った。
「まず犬八は、工事の請負先を当たってくれ。僕はあの橋の周辺で訊き込んでみるよ」
「承知しやした」
大学の講義が終わった午後、草平は再び日本橋付近に出向いてみた。
幽霊の出た例の橋まで辿り着くと、改めて周囲を見て回った。まだ夕暮れには早い。草平は以前の夜見坂のことを思い出して背筋が寒くなった。
コチラとアチラを繋ぐのは橋。だから橋はコチラでもアチラでもない、曖昧であやふやな空間になる。そういった場所ではこの世界の在り方が柔らかくなり、不意に外へすり抜けてしてしまう、あるいは外からなにかがやってきてしまうことがしばしば起こる。それは草平達が探求している学問、『民属学』の基礎だった。
昔から川はあの世とこの世を分かつものだった。それを繋ぐのが橋。そこは魂の往来を可能とし、逝った魂が戻り、また魂を送る場所にもなった。それを考慮に入れれば、橋に幽霊が出るのも至極当然といえた。
いろいろと考えを巡らしていると、どこからか良い匂いが漂ってくるのに気付いた。甘く香ばしいそれは、鰻に違いなかった。匂いのする方角に目をやれば、店の中からもくもくと煙を出している、鰻屋の看板が目に入った。
腹が切なそうに鳴いた。ごくりと生唾を呑み込んで、草平は鰻屋に歩を進めた。
店の中はなんとも脂っこく香ばしい匂いで充満していた。夕餉にはまだ早いが、たまの贅沢もいいだろう、暑い夏には精を付けなくては、と席に着いた。給仕の女中に鰻重の上を注文して、出されたお茶をすすった。そこで背後の入口の引き戸が開く音がして、客が這入ってきた。新たな客は下駄を大きく鳴らして草平の座っている卓の側に来た。
「先生ぃ、独りで随分と早い晩飯ですねぇ」
草平は思わずお茶を口から吹き出しそうになった。
「あわわ、犬八じゃないか! どうしてここに?」
「先生の匂いを辿ってきたんでげす」
「匂い?」
「そしたらこの美味そうな匂いのする店に消えたんで」
そういって犬八は恨めしそうな目で草平を見下ろした。
「そ、そうだ。犬八も座りなさい。鰻なんだが、犬八も食うかい?」
あたふたとする草平を尻目に、では遠慮なく、と椅子に座った犬八。やってきた女中に、鰻重の特上を頼んだ。
「と、特上?」
草平は素っ頓狂な声を上げた。
「あれ、先生も特上ですよね?」
「う、うん、そうだよ。特上ね、特上。いいんじゃないか?」
手拭いで吹き出す汗を拭う草平。ああ、痛い出費だ。
「まったく、先生はこんな美味いものを独りで食べようとしてたんですかい?」
運ばれてきた特上の鰻重をもりもり食べながら、犬八は不平の言葉を並べた。
草平も食べながらすまんすまんと何度も誤った。しかし確かにこの鰻は美味い。甘辛いタレと肉厚でコクのある身と爽やかな山椒が、白飯と相まってなんともいえぬ極上の味だ。これを独りで食べようとしていたんだから、犬八が怒るのも無理もない。草平はもう一度謝った。やはり僕は、犬八が美味そうに食べている姿を見るのが好きだ。
「ん? どうしたんです? にやにやして。もう要らないですかい?」
ハッと我に返った草平は赤い顔を隠すように、慌てて鰻と白飯を掻き込んだ。
後から食べたのに草平より早く食べ終わった犬八は、肝吸いを啜りながら、話を始めた。
「それで、あの橋の工事を請け負っていた会社に問い合わせてみたんですが」
「え、凄いね。もうそんなことしてきたの?」
犬八はそこで大きなため息をついた。
「ええ、先生が鰻屋で油売っている間にですね」
「う・・・すまん」
しょげ返ってしまった草平を見て、そんな姿も可愛いなぁと思う犬八。しかし少しやり過ぎてしまったと反省もした。
「いいんです。これからはちゃんと誘ってください」
「うん、わかった」
「話の続きなんですけど、結論からいうと、橋梁の建設中に事故は一切なかったということでした。まぁ正直に答えていればの話ですが」
「ふむ、そうかぁ」
「橋とは関係ない幽霊なのかもしれませんぜ?」
「ううん」
草平は唸った。
「ねぇ、お嬢さん」
草平は厨房の板前と話し込んでいた女中に声をかけた。
「へい、なんでしょう」
新たな注文かと、にこにこしながら女中は近寄ってきた。
「ちょっと訊きたいんだが、そこの前にある橋、あれは最近出来たんだろ?」
草平は持ち前の人当たりの良い笑顔を向けた。
「へい、そうです。ほんの三か月前辺りに」
「幽霊がでるっていうのも、その頃からなのかい?」
「えっと、それは・・・」
途端に表情が曇って、口ごもってしまった。
「おいおい、あんたら、いったいなんの話でぃ」
抜け目なく聞き耳を立てていた板前が、大声で厨房から出てきた。
「いえ、ちょっと幽霊の・・・」
「てめぇらみてぇな奇天烈な奴らが変な噂流すから、この辺はすっかり客足が遠のいちまって頭きてんだ」
板前は物凄い剣幕で怒り出した。
草平たちは謝りながら飯代を置いて逃げるように店を出た。背後で塩撒かれ、二度と来るな、と怒鳴られた。
日もすっかり傾いた橋の上、欄干に寄りかかりながら、息を整えた。
「ああ、驚いた」
「随分な剣幕でしたねぇ」
「まぁ、仕方ないさ。客商売だからね。夜見坂のときの蕎麦屋も、悪い噂を気にしてただろ?」
「そうでしたな」
「今日のところは帰ろう」
橋の上にはいつの間にか人の気配が絶えていた。そうか、皆幽霊を恐れているのだな。草平も自然と歩調が速くなっていた。
橋を渡り切ろうとしたそのとき、ふと誰かに呼び止められたような気がした。しかし振り返ってみても誰もいない。
「どうしたんで?」
「いや、ちょっと」
犬八の声にも上の空で、草平は橋の上を戻っていった。
あ、まただ。
今度は確かに人の声が聞こえた。しかしなにを言っているのかはわからない。
どこだ? いったいどこから?
草平は引き寄せられるように橋の真ん中辺りまできて、立ち止った。この辺りで声がする。しかし周囲を見回しても誰もいない。
『ここだ』
「え?」
そこではっきりと聞こえた。それなのにどこか遠くから聞こえてくるような、奇異な響きがあった。
はっ、まさか。
草平は咄嗟に足元に目を向けると、石畳が少しだけ欠けて、穴が出来ていた。
『そうだ、ここだ』
まさか、と思ったが草平はしゃがみ込んで小さな穴を覗き込んでみた。
『あんた、俺の声が聞こえるんだな』
声は確かにこの石畳の穴から聞こえてきた。
「うん・・・聞こえるが、いったいどういう訳だい?」
草平は驚きと不安を抱きながら、この足元に空洞でもあるのかしら、と訝った。
『ここに閉じ込められているんだ』
閉じ込められているだって⁉
なにか言おうとする前に、穴の中の声は話を続けた。
『俺ぁはこの橋を架ける工事に日雇いで働いてた。だがあるとき土木課の役人に呼び出された。特別な仕事を頼みたい、他には内密にとかなんとか言われ、まんまと騙されて生きたままこの橋に閉じ込められたんだ! 俺は人柱にされたんだよ!』
え、ちょっと待ってくれ。
『まだ未完成のこの橋の上で、後ろから頭かち割られた。そして埋められたんだ。俺ぁまだ生きてたんだよ。それなのにあの野郎、畜生、絶対に許さねぇ、絶対に!』
草平は余りにも常軌を逸した話に圧倒されてしまった。だがしかし、真っ先に頭に浮かんだのは、声の主は生きているのか? だった。この橋が出来たのは三か月前程だ。その間ずっとこの橋の中に閉じ込められていたというのか? 飲まず食わずで、三か月も? それはもう・・・。背筋をぞわぞわとしたものが這い上がり、全身が総毛立った。
「し、しかし、君は既に・・・」
体の震えを抑えられない。息は荒く、冷たい汗が噴き出してきた。目眩がしそうな中、それでも震える手を石畳に付いて、顔を穴へ近づけるのを止められなかった。
怖い、怖い、逃げ出したい、でも、いったいどうなっているのか知りたい!
その刹那、真っ暗な穴の奥で、人の目玉がギョロリと動いて草平と視線がかち合った。
『ここから出してくれ!』
「うわぁぁぁぁぁ!」
草平は悲鳴を上げて後ろへ飛び退き、石畳に尻餅をついた。
なにか居る、なにか居る、石畳の下、穴の中になにかが居る!
「先生!」
意識が遠のきそうな恐怖の中、自分を呼ぶ声が聞こえた。
はっ、犬八、犬八⁉
「先生、立てますか?」
力強い腕と体に抱き留められ、草平はすがるように立ち上がった。
「先生、ここから逃げますよ。走って」
まだ膝ががくがくとして力が入らなかったが、無理にでも踏ん張って、肩を担がれながら一刻でも早くここから立ち去りたく、草平は必死で足を動かした。
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