第7話 晴れ時々人柱のち雨
当てられた。
草平はぼんやりとしながら、寝室で布団に横になっていた。襖障子とガラス戸は引き開けられ、庭にしとしとと降る雨の匂いが部屋に満ちていた。
あのときと同じ、瘴気に当てられた。
あのときとは、夜見坂の一件のことだった。草平はあの坂で異界に迷い込み、共に居た多くの人々は闇に呑まれ、草平と少年二人だけが命からがら逃げだすことが出来たのだ。そしてその後、二日ばかり寝込む羽目になった。
兄さんが居たら「またか」なんていわれるだろうな。
あまり覚えていないが、幼少の頃は結構頻繁に寝込んでいたそうだ。その度に兄が看病してくれた記憶が朧気ながらあった。大きくなれば平気になるさ、と言われ確かにもう忘れかけていたくらいなのに、最近は・・・。
「先生、気分はどうです?」
襖を開けて、犬八が盆にお粥の椀を載せ、這入ってきた。
草平は夢うつつの中、過去の看病してくれた兄の姿を、犬八に重ねた。
「あ・・・犬八か」
「大丈夫ですかい?」
どこか遠くを見るような目をした主人に、犬八は心配そうに声をかけた。
「もう昼も近いですが、粥を持ってきました。先生の好きな、玉子粥ですぜ」
「ありがとう、でも」
「先生。無理してでも食べて、精を付けないと」
犬八の真摯な物言いに、草平は微笑んだ。
「うん、そうだな。犬八のためにも、食べて元気にならないと」
照れているのか、顔を赤く染めた犬八から椀を受け取り、草平は上半身を起こした。
いい香りだ。
レンゲで黄色い玉子粥を掬い、口に運んだ。玉子の旨味と粥の甘み、少量の出汁醤油の塩気が、口の中に広がっていった。まるで体の中から陰鬱なものが洗い流されていくようだった。余り食欲が無かったのに、これなら食べられそうだった。
「ああ、こいつは美味いな。犬八が居てくれて、僕は幸せ者だ」
草平の口からは、そんな言葉が自然とこぼれ落ちた。
「あ、その、お茶もお持ちしますね」
犬八は盆で顔を隠し、慌てて台所へ戻っていった。
どうしたのだろうと思いながらも、草平は玉子粥に夢中になった。
しばらくして、犬八が湯呑を持ってきた。
「やあ、思わず全部食べてしまったよ」
草平は自慢気に空になった椀を見せた。
「そ、そうですか」
犬八はそのまま黙ってしまい、畳に膝を付いた。やがて大粒の涙が頬を伝い落ちた。
「どどどどうしたんだいったい? なにか気に障ったかい?」
「いえ、違うんです違うんです。先生が元気になって、嬉しくてつい。俺は、もう心配で仕方なくって、前回のこともあったし、先生がこのまま・・・」
最後の方は言葉にならない声を絞り出し、犬八は薄い布団が掛かる草平の膝の上に覆いかぶさり泣き崩れた。
いつもは力みなぎる屈強な男が、なりふり構わず自分の為に泣いてくれるなんて、草平はじんわりと胸を焦がす熱い思いを感じながら、犬八の震える大きな背中を撫でた。
雨は午後になっても止まなかった。日暮れにはまだ早いのに、随分と薄暗い。梅雨に戻ってしまったような鬱陶しい天気だ。
「しかし、先生が橋で見たのはいったいどういうことでしょうな」
犬八はそういってみたらし団子を口に運んだ。
犬八なにか食べたいものはありますか、と訊いてきたで草平は「みたらし団子が食べたい」と答えたら、上野にある評判の団子屋へ雨の中出かけ買い求めてきてくれたのだ。
「うん、先生、こりゃ美味い。さすが評判になるだけはありますぜ」
草平が一本食べる内に、犬八は既に五本も平らげていた。
そんな微笑ましい光景とは逆に、草平は橋の上でのことを思い出して、背筋を寒い物が走った。
橋の真ん中辺り、石畳の欠けた隙間、そこから届く怨嗟の叫び、暗い穴の中で蠢く目玉。
「声は、人柱にされたといっていた」
「では、あの幽霊は、事故ではなく、殺された人間の」
「そうかもしれないね」
しかしあの声の主は自分がまだ生きていると思っている節があった。ここから出してくれ、と。しかし常識からいって数か月もの間閉じ込められていて、生きている筈もなく。おそらく強烈な怨念が己の死の認識すら超越してしまったのだろう。
頭を割られ、半殺しのまま橋の石畳の下に埋められた男のことを思うと、草平は胃の辺りをギュウと絞られるような戦慄を覚えずにはいられなかった。
なんと恐ろしいことだ。
「では、下手人は府の役人ってことですかい?」
「彼の言う通りなら、そうなるね」
草平は布団の上に胡坐をかき、懐手にして黙った。
しかし何故、人柱なんて。
人柱とは、より堅牢にするために橋や城壁に人を生きたまま埋めてしまう非常に非人道的な呪術だ。過去にはよく行われたが、今では呪いの類はれっきとした犯罪だし、既に殺人罪でもある。いったいどんな理由があるのだろうか。
「とにかく、俺は役所を当たってみます」
眉間に皺を寄せ、深刻に考え込む草平を見兼ねたように犬八は立ち上がった。
「先生は、もうしばらく休んでいてくだせぇ」
「そうはいかないよ。仕事だってあるんだ。しょっちゅう休んでいたら大学の講師だってクビになってしまう」
「わかりました先生」
慌てて犬八は起き出そうとする草平を止めた。
「調べるのは明日からにします。だから先生、どうか今日は休んでいてください」
犬八は、ようやく体力が回復した草平に白飯、豆腐と葱のみそ汁、きゅうりの浅漬け、鯵の干物という簡素な朝食を出して、それから出勤を見送った。
食器を片付け、雑巾がけと箒だしをし、洗濯物を干した。ようやく晴れた空には、ぎらぎらとした夏の太陽が高くなり始めていた。暑くなる前に、出かけなくては。
袴姿に着替え夏用の鳥打帽を被り下駄を履いて、犬八は有楽町にある東京府庁舎へと赴いた。建物の中は人で込み合い、掻き分けながら土木課の窓口に辿り着いた。既に蒸し暑い屋内で長い時間を待って、ようやく順番が回ってきた。
「ちょいと訊きたいことがあるんだが」
そうやって日本橋川に架かる例の幽霊橋のことについて尋ねた。
「え? あの橋建設の現場に係わっている役人? どうして?」
口髭を生やした中年男の窓口係は、胡散臭そうに犬八を見上げた。
「現場の役人に、なにか妙なところはなかったかい?」
「だからなんなの、妙なところって。いったいなにが訊きたいの?」
犬八は説明に困ってしまった。流石に人柱にされた人間がいるかもしれない、などと言えたものではなかった。
額に流れる汗を手拭いで拭きながら、必死で日雇い人夫を襲ったであろう土木課の役人のことを訊き出そうとした。
「駄目だ駄目だ、そう軽々と人の名前なんて教えられんよ。あんた、もしかして探偵かい? だったら尚更教えられん。さぁ、次の人が待ってるんだ。どいたどいた」
犬八は無理矢理窓口からどかされ、怒ったように順番待ちをしていた女性が窓口に代わって立った。
どうしたものかと辟易していると、後ろから知った声がした。
「おい、そこに居るのは草ちゃんとこの犬ころじゃねぇの」
振り返ると、人波の向こうから、扇子で扇ぎ着流し姿にパナマ帽を被った熊友の姿が見えた。犬八よりも大きな図体は、ここでも目立っていた。
「なんでぃなんでぃ、そう露骨に迷惑そうな顔すんじゃないよ」
「もう物忌みはよろしいんですかい?」
「当たり前ぇよ。そんなことより草ちゃんのほうが具合悪いんだって?」
この男は相変わらず耳が早い、いったいどうやって知るのだろうと犬八は不思議に思った。
「それで代わりに使いに来たのかい」
「そんなものです。もう用事は済みましたので」
犬八は早々と話を切り上げて離れようとした。
「おいおい焦るなよ。どう見ても用事が済んだようには見えなかったぜ?」
「あなたには関係無いことです」
「バカ野郎!」
熊友はいきなり扇いでいた扇子で、犬八の頭をパシリと打ち付けた。
「そんな中途半端なことで書生の仕事が務まるかよ。で? おまえはどういう用事で来たんだ?」
「それは・・・」
口ごもる犬八の頭を帽子の上から、今度は大きな手でくしゃくしゃと乱暴に撫でた。
「だからバカって言ってんだ。草ちゃんの為にやってんだろ? だったら素直に俺を頼りやがれ」
やっぱりこの人は苦手だ。犬八は顔を赤らめながら思った。
「おまえの為やないぞ、いいな。俺は草ちゃんの為を想って言ってんだ。ちょっとそこの柱の下で待っとけ」
犬八から用件を聞いた熊友は、ぶつくさ漏らしながら人込みの中に紛れていった。
認めたくはないが、先生を想う気持ちは同じなのだ。犬八は益々負けてはいられないと対抗意識を燃え上がらせる一方、やはり先生は愛されるに値する人なんだと感激していた。
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