第8話  いったいなにが起こっているというのか

「帰ったよ」

 大学から帰宅した草平は、玄関の引き戸を開けて中に這入った。

 部屋で服を脱いでいると、犬八が直ぐに顔を出した。

「お帰りなさい。具合はどうでした?」

「ん、大丈夫だよ。多少は疲れたけどね、そんなこともいってられないよ」

「それじゃ、先に風呂にしますか?」

 シャツを脱ぐのを手伝いながら犬八は訊いた。

「もう風呂が沸いているかい?」

「へい」

「それじゃ、先に風呂にしようか」

 今日も暑い一日で、汗で濡れた体が不快だったのだ。

 脱衣場で浴衣を脱ぎ、裸になった。水を浴びた後、浴槽の蓋を外し、湯船に体を沈めた。

「ああ、いい湯だ」

 草平は熱いお湯で顔を拭い、縁に頭を載せて目を瞑った。正に極楽の気分だった。

「湯加減はどうですかい?」

 外から犬八の声が聞こえた。

「うん、丁度いいよ。そういえば、役所の方はどうだった?」

 犬八は役所での出来事のあらましを語った。

「後は風呂から上がったら話します。今はゆっくり浸かって下さい」

「うん、わかった」

 草平は顎までたっぷりとお湯に浸かり、はぁと大きく息を吐いた。

 今度はまた、犬八を湯屋に誘おう。

「いや、暑い暑い」

 草平は団扇で激しく扇ぎながら茶の間に這入った。夕餉は白飯、みそ汁、茄子の煮浸し、南瓜の煮物、冷奴、だった。

「やぁ、これは美味そうだ」

 早速膳の前に座って、いただきますと箸を持った。そこへお茶を持って犬八が這入ってきたので、話の続きをせがんだ。しかし犬八は食事が済んでからの方が、と渋った。

「いいじゃないか。話してくれよ」

「では」

 犬八は役所で熊友に出会って、上の人間に話を通してくれたことを語った。

「そうかい、熊さんは手広く商売をしているからね。その分顔も利くんだ」

 草平のなんだか嬉しそうな顔に、犬八は幾分不機嫌になりながらも話を続けた。

「それで、土木課の話が分かる人に直接伺ったんですが、あの橋の担当は一人しかおらず、そいつがここ最近仕事を無断で休んでいるそうなんです」

「なんと、それは随分と怪しいな」

「家に使いを出してもずっと留守らしいのです」

「ううん、ますます」

「しかもですね、そいつが係わっていた橋の建設、一か所だけではないということなんです」

 草平は最後の方の話を直ぐには理解できなかった。少しの間を置いて、一気に体温が下がっていくのを感じた。

「そういや熊さんが幽霊見物に誘いにきたとき、見物出来る場所が幾つかあるっていってたような」

「そうなんです。その場所すべてで、幽霊が出るってことは」


「その数だけ人が人柱にされたってことか」


 幽霊の数だけ人が生き埋めにされ、その数だけ壮絶な苦しみと怨念が生み出された。

 いったい、なにが起こっているというのか。草平の頭には、これはただ事ではないという思いがよぎると共に、あの石畳の隙間の暗がりから響く呪いの叫びと、そこに蠢く目玉の記憶が蘇った。



 それからというもの、大学で講義していても、論文を執筆していても、飯を食べていても、本を読んでいても、歩いていても、橋のことが気になって頭から離れなかった。あんな呪われた橋が幾つもあって、こうしている間にも恨みが蓄積されている。このままでは幽霊見物どころの騒ぎではなくなるのではないか。

「犬八」

「へい」

「明日にでも会いに行ってみようか」

 週末の晩、夕餉の席で草平は切り出した。

「といいますと?」

「人柱に係わりがあるお役人さんにさ」

「ようやくですね」

 犬八の待ちくたびれたといった物言いが腑に堕ちなかったが、どこか頼もしさもあった。

 次の日、草平たちは神田の辺りにある役人の下宿先を訪問した。名前は磐井忠男と云い、二十五歳の独り身で、木造二階建ての下宿屋に住んでいた。

 玄関で下宿屋の主人に話を通すと、数日前から帰っていないという。なんとも拍子抜けな結果に終わった。

「職場にも顔を出さず、家にも戻っていない。こりゃお手上げですな」

 犬八は腕を組んで鼻息を荒げた。

「友人知人、或いは恋人のところ、はたまた田舎にでも帰ったか」

「キリがありませんな。もう探偵でも雇いますか?」

「うーん」

 そうとう困った様子で、いろいろと思案しながら草平は歩き続けた。八方塞がりではあるが、なにもせずに手をこまねいている訳にもいかない。しばらく黙って歩き続けているといつの間にか、ここが幽霊を見た橋の近くだと気付いた。それでなにかのきっかけがあるかもしれない、とまたあの橋を見に行くことにした。

 途端に草平の頭に蘇ってくる怨霊の恐怖の記憶。草平はつと足を止めた。

 一見しただけではなんの変哲もない石橋なのに、あれは呪われた橋なのだ。少し離れた場所で橋を眺めていると、真ん中辺りで欄干から川面を見下ろしていた男が、不意に身を乗り出して今にも飛び降りようという姿勢を取り始めた。


「いけない!」


 草平がそう叫んだ瞬間、目にも留まらぬ速さで犬八が駆け出し、欄干の上によじ登った男を取り押さえた。

 後から走り寄ってみると、男は犬八の腕の中で半狂乱にもがきながら、許してくれ! と何度も叫んでいた。しばらくせん妄状態だったのをようやく落ち着かせ、近くにあった珈琲店に犬八と支えながら這入った。

 店の中には玉突き台もあって、昼間から煙草が煙りいい塩梅に騒々しかった。これで少々奇異な様子でも誰も気にしないだろう。珈琲を三つ注文して、奥まった席に落ち着いた。

「いったいどうしたっていうんだい、君」

 草平は人柱の怨念がとうとう被害を出し始めたのかと気が気ではなかった。

「もう耐えられなくなったんです」

「なんだ、仕事の話かい? それとも嫁さんかい?」


「仕事の成り行きではありますが、私は人を殺してしまいました」

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