第22話  憧れの銀座

 朝から飛び起きたお菊は、朝飯も上の空で、気持ちを昂らせたまま、熊友が来るのを待ちわびていた。


「おはよう!」


 玄関を開けて景気良く挨拶をして這入ってきた熊友を、お菊は駆けて行って出迎えた。

「熊のおじさん、ねぇねぇ早く行こうよ、銀座!」

 お菊は熊友の手を取ってぶんぶん振り回した。

「もうおじさんも、犬のお兄ちゃんも支度済んでるよ」

「なぬ? 草ちゃんたちもそんなに楽しみにしてたのか」

 二人とも確かに出かける準備は出来ていたが、それはお菊に早々に起こされて急かされてやったことだった。

「よし、では銀座に出発だ!」

 熊友の威勢の良い掛け声と共に、四人は出かけて行った。


「なんだ、お菊は市電が初めてか」

「うん。汽車は乗ったことあるけど」

 お菊は窓の外の流れる風景に夢中になりながら、熊友の問いに答えた。

 休日とあって市電も街も人で混み合っていたが、それすらもお菊には楽しく感じられているようだった。


「無邪気なものだねぇ」


 草平は思わず呟いた。

「やっぱり、あの浮かれ様は幼過ぎると思ってますか?」

 犬八に訊かれ、草平は昨夜の話を思い出した。

「うん。だからこそ、今までさせてもらえなかった分、思いっきり楽しんでもらおうじゃないか」

「そうですね」

「それに、見ていて純粋に楽しいしね」


 急に犬八が黙り込んだので、草平は「ん? どうした?」と声をかけた。

「え、いや、あの、もしかして、先生は、あのような、少女が・・・お好きなのかと・・・」

 うん嫌いではないし好きだよ、と答えようとした草平はハッと言葉を止めた。

「あ、犬八、それは、好きというのは、どういった・・・」

 赤面して口ごもる草平となんだか不安な面持ちの犬八の間に、目ざとくお菊が飛び込んできた。


「あれあれ、おじさんと犬のお兄ちゃん、なんの話してるの?」

「どうせ盛りの付いた犬ころが、わんわん鳴いてるじゃねぇのか?」

 熊友も一緒に盛り上げる。

「ちょ、熊さん、そんな話みっともないよ」

 汗をかきながら慌てる草平。

 もしかして「みっともない」とは俺のことなのか? と頭の中がぐるぐる回る犬八。


「おい、もう着くぜ」


 その熊友の一言に、救われた草平と犬八だった。

 ぞろぞろと降りる乗客に皆も続いた。


「すごい! ここが銀座? お店がいっぱい!」


 真ん中に市電が行き交う大通りの両脇に、大きな看板を掲げた二階建て三階建ての建物が長々と続いている。建物の多くは商店で、通りは買い物客で賑わっていた。


「よおし、ずーと見物して回ろうじゃねえか」


 唐物雑貨屋、本屋、洋服仕立て屋、帽子屋、靴屋、呉服屋に甘味処に牛鍋屋、喫茶店、酒場、その他いろいろずらりと建ち並ぶ。人々も老若男女、和服に洋服に軍服に、下駄に草履に革靴に様々で、人力車、馬車、大八車に、時々自動車まで往来している。店の呼び入れの声も高々に、空気も土の匂い、甘い匂い、香水に油に入り乱れていた。

 そんな中をお菊は小走りで、人の隙間を縫うように見て回った。


「おいおい、そんなに急いで、迷子になるぜ」

 熊友はにこにこしながら声をかけた。


「すごい綺麗、熊のおじちゃんあれなに? わぁ可愛い。あんなの欲しいなぁ。あ、あれなんかおじさんに似合うかも。あはは! 犬のお兄ちゃんが好きそう!」

 はしゃぎまがら嬉々とした声を上げるお菊。


「随分ご機嫌じゃねぇか。あれなら連れてきてやった甲斐もあったってもんだ。なぁ、草ちゃん」

「うん」草平は熊友の言葉に頷いた「あ、そういえば昨日大学の女学生に訊いたのだけれど、女性は散髪より髪結いだそうだよ?」


「むむ、そうか。なら髪結い処だな。ちょうどいい場所知ってるから、そこに連れて行こう」

 熊友は知り合いの店だという髪結い処に、お菊を任せた。

「飛び切り可愛くしてやってくれ。終わったら似合いのカンザシでも買いに行こうな」


 半時ほどかかるそうなので、他の三人は近くのカフェーで待つことにした。

「ふう、こういう銀座歩きも悪くねぇや」

 席に座るなり、熊友は煙草をふかした。

「いろいろ世話になるね」

 草平の言葉に熊友は「今更何言ってんだ」と笑って答えた。

 注文した三つの珈琲が運ばれてきたところで、犬八が急に立ち上がった。


「先生、ちと野暮用を思い出したので、行ってきます」


「なんだ、腹痛か?」

 熊友の問いに「違います」と溜息混じりに答える。

「大事な用事なのかい?」

「へい」

「なら、いいけど」

 こういうことは稀ではないとはいえ、折角皆で出かけていたのに、と少し残念な気持ちは隠せない草平だった。


「本当にすみません。髪結いが終わっても戻らなかったら、先にお出かけになっててください。お菊には伝えてあります」


「そうなんだ?」

 はて、お菊に係わる用事なのだろうか、草平は不思議に思った。

「では、また」

 言い残して犬八は店を出て行った。

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