第31話  己の不甲斐なさ

 草平はお菊の手を曳いて必死で走った。ようやく上野廣小路に出て、そこを左に曲がって少し行けば、犬八と待ち合わせをした上野公園だった。


「お菊ちゃん、もう少しだ」


 ずっと走り詰めだったので、少し歩調を緩めた。

 お菊は疲れたのか、生気のない顔で頷いた。


 無理もない、教団からの追ってがやってきて、しかも目の前で人が殺されたんだ。むしろ気丈なほどだ。僕なんか怖くて仕方がないのに。

 草平はそんなことを考え、お菊を見つめた。


「ここで休もうか」

 草平が言い終わらない内に、お菊は足を止めた。


「ようやく追いついたぜ」


 通りの真ん中に敷かれた市電のレールの向こう側に、人影が二つ。

 まさか巡査たちを殺した追手か? では犬八はどうなった?

 焦る草平だったが、近づいてきたのはさっきの追手とは別人物だった。

 良かった。しかし更に新手がいるなんて。


「さっさと小娘を渡しておけばいいものを」


 小柄な体格で寝ぐせのような頭髪をした目つきの悪い男が言った。隣には袴に羽織姿の陰気な顔をした青年。


「念のため、眼鏡の坊ちゃんにはどいてもらおうか」


「おじさん、下がって!」


 お菊が叫んで草平を後ろに引っ張った。

 気が付くと暗闇の中、地面を細長いものが蛇のようにうねって、さっきまで草平の足があった辺りまで伸びてきて止まった。


「うわっ、なんだ?」


 一瞬だけ見えたのは縄だった。しかしまるで生きているかのようにのたうちながら、小男の方に戻っていった。


「おい娘ぇ! あとでたっぷり可愛がってやるから、邪魔するな!」

 人相の悪い小男が怒鳴った。

「私がやろうか?」

 隣の青年が呟いた。

「いや、俺に楽しませてくれ」


 小男は両手をクイと動かす。

 すると今度は二本の縄が暗闇から突如現れて、お菊の方へ迫ってきた。


「お菊ちゃん!」

 草平は咄嗟にお菊の前に庇うように出た。

「ダメ!」


 お菊の叫びも虚しく、縄は草平の両手首にしっかりと絡まった。

 縄はおのずからきつく結ばれ、まるで意思があるようだ。


「こっちへ来い!」


 小男が両腕を大きく振ると、草平は縄に両腕を引っ張られ、思わず前のめりに倒れると、そのまま追手たちの方へ地面を擦りながら、勢い良く引き寄せられていった。


「おじさん!」

 お菊が悲痛な叫び声を上げる。

「お菊ちゃん、逃げろ!」


 草平が地面に伏したまま叫ぶと、頭に強い衝撃を受け、顔面を土に埋めた。


「小娘を頼んだ」

 小男は草平の頭を足で踏みつけたまま、隣の青年に囁いた。


「おじさんの頭から足をどかせて! でないと私、舌噛んで死んでやるから!」


 そう叫ぶお菊の前に、いつの間にか羽織袴の青年が立って、額に呪符を貼ってなにやら呟いた。

 すると途端にお菊は金縛りにあったように、体どころか口も動かせなくなったしまった。


「娘の体は確保した」

 青年は小男に向かって声をかけた。

「ようし、これで粗方仕事は完了だな」


「おまえら、お菊ちゃんに、いったいなにを・・・・」


 草平は頭を踏みつけている足ごと立ち上がろうと、必死で力む。


「ああ? 非力な坊ちゃんには関係ねぇ、だろ!」

 小男は笑いながら足に力を入れ、立ち上がろうとしている草平の頭を地面に押し戻し、草履の裏をぐりぐりと擦り付けた。


「こ、この足を、ぐぐぐ、どかせぇ・・・」

「嫌なこった。出来るもんならやってみな。ホレホレ」

 最早草平の頭を踏み潰さんとばかりだ。


 糞ぉ、僕は非力だ。お菊ちゃんを助けるどころか、こんな無様な状況から抜け出すことすら出来ない。


 糞ぉ、糞ぉ、糞ぉ、クソぉおお。


 草平は頭を踏みつけられながら、己の不甲斐なさを悔いた。そしてそんな自分が腹立たしく、怒りさえ覚えた。

 沸々と腹の底で煮えたぎる感情。しかし、踏ん張っても踏ん張っても、ここから抜け出すことは出来ない。


「もう少し遊んでいたいが、時間切れだ。とっととこの坊ちゃんを殺して、小娘を連れて帰るぜ」

 小男はひとっ風呂浴びて帰るか、といった感じで言った。

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