第13話 中国でタイタニック?

 ワタシが住んでいた街は海に面していない。海に出るには高速を2時間ほど走らなくてはならない。もう一度言う。海はない。川くらいはあるが、海はない。


 ある日、夕方子供達を出迎えに中庭へと出る。日本人学校は子供だけでの通学を禁じている。大抵はマンションごとにバス会社と契約をしてスクールバスを運行している。運転手は中国人で、それに加えて当番制で母親数人がバスに乗り、学校へ行き、朝は子供達を降ろし、帰りは子供達を乗せて帰ってくる。子供達はマンションの敷地内でバスを降りる。あとは各々の家に帰るだけだが、ハハ達はバスの到着場所で出迎える。バス当番の引継ぎもあるし、なによりその時間にそこに行けば大勢のママ友に会える。貴重な情報交換の場である。そのまま子供達は中庭で遊び、ハハ達は世間話に花を咲かせるのも日本で見かける幼稚園バスの送迎や公園の風景となんら変わらない。


 その日は珍しく子供も中庭では遊ばず、私も井戸端会議に参加することもなく、自宅へと母子3人で帰ってきた。自宅のドアを開ける。ザーザーとものすごい水音がする。

「えっ? 雨? いや、晴れてたよねぇぇ?」

 家に入り、無意識に窓の外を見る。晴れている。じゃあなんだ? この音は。迎えに出る前はこんな音してなかったよ? 


 ワンフロアのマンションルーム。玄関の左側がリビング、右側がダイニング、そのダイニングの奥にキッチン。音はキッチンの方からする。


「えっ???」

「はっ???」

「あん???」

 人間有り得ない状況に出くわすと大したリアクションはとれないものである。母子3人でキッチンの入り口に立ち尽くす。ザーザーという家の中では聞こえてきてはいけない音を聞きながら、キッチンに入ろうとすると、足元が濡れた。いや足元が池である。くるぶしくらいまで水に浸かっている。キッチンに向かうダイニングもうっすら床が濡れていた。ラッキーなことにキッチンには少しだけ段差があった。


 ここでもう一度言う。この街に海はない。おまけにここは高層マンションの高層階だ。


「タッ! タイタニック!!」

 ワタシは思わず叫んだ。あの有名な映画である。氷山に激突した処女航海中の豪華客船が北大西洋に沈んでいくあの物語である。

 目の前のキッチンの吊戸棚から水が噴き出ているのである。目線より高い位置から噴き出した水はキッチンの天板にあたり、そこで弾け、また放物線を描いて床を叩きつける。

 見たことがあるシーンだった。そう、あの映画で。贅をつくした客船の内部に次々と水が襲ってくる。ダイニングやキッチンにも天井から滝のような水が降り注いでいた。今の我が家のキッチンがその状態だ。


 くどいようだが、ここは海でもなく、豪華客船の中でもなく、氷山にも激突していない。


 子供達に浸水していないリビングに避難するように言い、慌てて不動産会社に連絡する。幸いなことに事務所は敷地内の別棟にある。緊急事態だからすぐに来て! と叫ぶ。水がエライことだからと。


 ほどなくメンテナンス担当の中国人がやってくる。ここの不動産会社は日本人駐在員向けの会社で日本人のスタッフもいるし、営業担当の中国人もみな日本語が堪能だ。ただ、現場の職人さんには日本語のできない人ももちろんいる。今我が家に来てくれている彼はいつも我が家の不具合を直しにきてくれる人だが、日本語はできない。けれどいつも誠実に作業をしてくれ、穏やかな人柄なので、信頼している人だった。

 あまり緊張感を持たずやってきた彼は、キッチンの惨状を見ても大して慌てず、エレベーターホールにある水の元栓を閉めた。水は止まった。我が家のナイアガラの滝はなくなった。


好了ハオラ(よかった)」

 持ってきた工具を片付け帰ろうとする彼。は、は、


「はおらじゃないでしょ~!!!」

「ちょっと! このまま帰るのっ! どうすんのよ! このキッチン! なんでこんなことになったのよっ! 元栓閉めちゃったら水使えないでしょうが! どうすんのよっっっ!!!」

 日本語のわからない彼にワタシは日本語で文句を浴びせる。

 私の言っていることがわからない彼は首をひねりながら帰って行った。


 もちろんこのままでは済まされない。再度不動産会社に連絡をしてクレームを言う。日本語のできる我が家担当の女性営業職の彼女に。今度は彼女が家に来てくれた。事態が深刻だと判断したのか、普段は現場に姿を現さない日本人のボス(社長? 事務所長?)もやってきた。ふたりは電話で誰かと中国語で話してから、浸水した床の水を処理しはじめた。バケツやちりとりで水をすくい上げてはキッチンに流す。すくうほどの水がなくなると雑巾で水を吸っては流しでその雑巾をしぼる。ふたりが黙々と作業をしているので、ワタシも手伝った。なんとか水ははけた。


 先ほどのメンテナンスの彼が再登場。結局、タイタニックの原因は吊戸棚の中にある湯沸かし器の配管が割け、水が噴き出したのだという。その日のうちに配管と湯沸かし器を交換してくれた。そこら辺の対応は迅速だったと思う。恐らくあの日本人社長の直々の指示だろう。


「ま、ありがとうね」

 さっきは帰ってしまった彼に激怒したけれど、きっと彼にしてみればあれが彼の業務内容だ。そして正常に使えるように湯沸かし器と配管を直すのも彼の業務内容だからまた家に来てくれた。しかももう夜だ。残業をことのほか中国人は嫌がる。

好了ハオラ(よかった)」

 そう言って彼は帰って行った。


 日本に住んでいたらきっと有り得ないこと。中国ではあっても不思議でないこと。自分の仕事に忠実な中国人。自分の怒りを自国の言葉でぶちまけるこのワタシ。このうるさい顧客をなだめようと黙々と雑巾を絞ってくれた中国人の彼女と日本人の社長。


 ああもう。今となっては笑うしかない。数年のちに帰国後に映画タイタニックを見た娘がこう言った。

「中国に住んでたとき、こんなだったよね?」


 そう思うよね? 笑っちゃうよね。でもね、滅多にできない経験だったんだよ?


 タイタニックねぇ。どうせ再現するなら、あの有名な船の舳先のロマンティックなシーンの方がよかったなぁ。もちろんディカプリオご本人出演で。セリーヌ・ディオンの生歌付きで。すみません、妄想が過ぎました。



 中国でタイタニック?



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る