第28話 受難のピアノ
恐らく日本でポピュラーな習い事、ピアノ。向こうでも習うことができた。しかも日本人の先生に。日本人のピアノの先生はワタシの住む街にも数人いらしたのだが、常にキャンセル待ちだった。習いたい子供の数が多すぎる。ワタシの娘も習いたいというので、キャンセル待ちの列に並ばせてもらった。キャンセル待ちとはいうけれど、正確にはキャンセルではなく、習っているお子さんが帰国でレッスンを辞めるのを待つのである。日本人学校という性格柄、児童生徒のほとんど全員が転校生である。大体2、3年でこの街を離れる。
ウチは1年待った。ようやく順番が回ってきた。というか、待っていた先生の枠は空かなかったが、お知り合いの同業の先生がこの街にいらっしゃるのでそちらの先生を紹介してくださったのである。もちろん、お願いすることにした。家まで来てくださってレッスンしてくださるという。こちらも送迎の手間がないし、有難いことこの上ない。
そして、ピアノである。その時点ではピアノが我が家にはなかった。こちらにももちろんピアノは売っている。が当然のことながら高価である。駐在員用に年数単位でレンタルしてくれる制度もあると聞いた。ピアノは購入できないから電子キーボードのお家もあった。
けれども幸いなことに我が家は帰国が決まった娘のお友達の家のピアノを譲っていただけることになった。聞けばそのお宅も以前のお友達から譲ってもらったピアノだと言う。お礼にお金を払わせてと申し出たが、彼女も無償で譲ってもらっているのでお金はいらないと言う。ただ運搬だけはそちらでしてくれるかな? とだけ言われた。
彼女の家は同じ敷地内の別棟のマンションだった。とりあえずワタシのよろず相談先の不動産会社の担当営業の彼女に聞いてみる。ピアノを運ぶんだけど、どうしたらいい? 彼女は大人の男の人が何人かいれば運べなくもないですけれど、大切なピアノだから運送会社を手配しましょうか? と言ってくれた。
そうだよね。それがいいよね。ピアノって繊細だもんね。お友達のご主人に何人かお願いしてお手伝いいだだくのも少し考えたけど、ま、ピアノの運搬に関してはみんなシロウトだし、ご迷惑でもあるもんね。だったらプロに頼んだ方がいいよね。日本だったらピアノを専門に運ぶ業者があるくらいだもんね。もちろん多少のお金はかかるがワタシはそれを了承して運搬業者と連絡をとってもらった。
さて、運搬当日。ピアノをいただく彼女のマンションの棟の前で運搬屋さんと待ち合わせ。男の人が4人。うん、頼りになりそう。日本語は通じないけれど、ワタシと彼らで友達の家に向かう。このころになると、ワタシの意思疎通も中国語の単語の羅列とジェスチャーで相手とはかれるようになっていた。
友達の家に到着。この友達はものすごく中国語が上手だった。ワタシのような片言の単語をつなげているようなのとはレベルが違う。流れるようなセンテンスで中国語を操る。その流麗な中国語でピアノはリビングだから、取り扱いには気を付けるように、といろいろと指示を出してくれている。
ありがとうね。またお礼はゆっくりね、と友達に挨拶をしてワタシは運搬屋とともに自宅へ向かうことに。
……って! なにっ!!
4人のうちのふたりでピアノをリビングから押してくるではないか。そりゃピアノには車がついているけれど……。残りのふたりは椅子を持っている……。
……え? えええっ???
友達も「ま、こんなもんよ」と苦笑交じりにワタシに日本語で伝えてくれる。そのままゴロゴロゴロとエレベータの中へとピアノと我らが乗り込む。
あの、
まさか。
まさかとは思うのですけれど……。
いいようのない不安がワタシを襲う。それを口にしたくない。エレベータを降りると外に出る。ワタシの家は別棟なので中庭を通っていくことになる。
「やっぱりそうなのぉぉぉ!!!」
誰かお笑い芸人のリアクションのようだが、そう発するしかない。彼らはまたゴロゴロとピアノを押していく。石畳の小径を。ときおりガタン、ガタンと効果音も入れながら。そのピアノの後ろを残りのふたりが椅子を持って続く。
よっぽど椅子の方が大事に扱われているじゃん! っていうか椅子くらいワタシだって持てるわっ! 4人でピアノ持ってよぉぉぉ。地面につかないように大事に持ち上げてよぉぉぉ。目の前で繰り広げられるピアノへのひどい扱いにただただ茫然である。ヒィーッと吸い込んだ空気を吐き出せない。音楽に造詣が深い日本人の方が見たらきっと卒倒するくらいの惨劇が目の前で繰り広げられている。
ほどなくワタシの家の棟に着き、エレベータに乗り、我が家へ。玄関で靴を脱ぐこともなく土足で所定の位置までピアノをゴロゴロ。
「
不動産屋さんと約束していたお金を受け取ると、彼らは帰って行った。
ちっともOKじゃあない! あれにお金を払う必要はあったのだろうか? あれならシロウトでも日本人パパたちにお願いした方がよかったんじゃあなかろうか。
土足で上がり込んだ彼らの靴跡を雑巾で拭いてから、ワタシはピアノをさすった。
……かわいそうに。
……びっくりしたねぇ。大丈夫?
……ウチでは大事にするからね。
もちろん調律してもらった。この方は日本人だった。可哀想なピアノの災難を語った。もちろんそうした悲劇もご存知だった。国が変わると仕方がないんですかねぇぇぇとふたりでため息をついて苦笑するしかなかった。
このピアノちゃんはずっと日本人の家を巡っている。恐らくどこの家でも大事にされている。気の毒なのは移住のときだ。我が家が帰国するときも別のお友達にそのピアノちゃんを譲った。
ピアノちゃんはまた石畳をゴロゴロと押されて旅立っていった。
受難のピアノ。
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