第39話 うっとりマダム、酔いしれる。

 こちらの名前を知らない人がワタシに呼びかける場合、さまざまな呼び方がある。

 お客様。サービス業ならたいていコレ。

 お母様。子供の保護者としてならコレ。

 お嬢様。もう呼ばれることなくなったなぁ……。

 奥様。家族と一緒にいるときはこうなる。


 中国で一番多く呼ばれたのが「太太タイタイ(奥さん)」だった。

 前にも書いたのだが、ワタシはこの中国語は好きである。

 発音が可愛らしい。

 勝手に可愛らしい奥さん像を想像して、その理想に自分を埋め込み喜んでいる。

 ただ「奥さん」と呼ばれただけでも

奥さん」と呼びかけられる気分になれるのである。

 誰にも迷惑はかけていないので、これくらいの妄想は許してほしい。


 フィリピンのセブ島では" mom "だった。

 フィリピンの公用語は英語である。

 ホテルやレストランでオーダーするときや何かをリクエストするときに" excuse me. "と呼びかけるとにこやかな笑顔でこう返事してくれる。" yes,mom. "

「マム」ねぇ。なんだかあなたのお母さんになった気分。

 ホテルでもこの返答だったからそんなにくだけた口調ではないはずなのだ。

 おそらく「はい、奥様」と言ってくれているんだと思う。

「ん? 何? かあちゃん」ではないハズ。

 それでも受ける印象は旅行中変わらなかった。

 まぁ、数日だったし、コトバの問題だし、こちらがどうこう文句をいうものでもない。それに決して悪い印象を受けたわけではない。

 若干カジュアルな感じをワタシ個人が受けただけ。

 誰にも抗議をするつもりもないので、ワタシひとりのつぶやきだと思ってスルーほしい。


 これがタイ(プーケット)だと……。

「マダム」なのである。

 タイの公用語はもちろんタイ語だが話せない。

「こんにちは」や「ありがとう」くらいは現地語を覚えるが現地の人に話しかけるのは英語になる。(中学英語ですが……)

 そこで" excuse me. "と声をかけると返ってくるのが、

 " yes,madam. "

 日本語的に表現すると「イエス、マダーン?」と語尾を上げて聞いてきてくれる。

 それはそれは恭しく。いかがいたしましたか、奥方様。

 まるで公爵夫人にでもなったかの気分である。

「コーヒーのおかわりいただけるかしら?」

 なんとなく口調も優美になる。使っている英文センテンスは変わらないのがミソ。あくまでも気分だけである。

 ちなみに男性へは" Sir "

 やっぱり高貴な香りがする。


 英語をきちんと理解していないからこそ感じる印象なのだと思う。

 あちらはただ「奥様」と言ってくれているだけ。

 こちらが勝手に高貴な気分に浸って喜んでいるだけ。

 そんなことはわかっているけれど。


「イエス、マダーン?」

 言われるたびに頬を緩めるワタシ。

「そんなことで何喜んでるんだ」

 家族にも呆れられる始末。

 いいじゃない。別に誰にも迷惑はかけていないんだからこれくらい楽しませてもらっても。


「イエス、マダーン?」


 んふふふふ。





 うっとりマダム、酔いしれる。


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