第52話 長き歴史、遥かなる刺繍

 賃貸で借りていた中国の自宅。

 センスのいい大家さんのインテリアが好きでした。

 玄関スペースは言ってみれば「家の顔」

 玄関ドアと対峙する壁に一枚の額が掛かっていました。


 黒地に朱色の「福」の文字

 中国四千年の文化

 躍動感溢れるはらいやはねの跡

 すこしかすれている部分

フー」は幸福シンフーの「フー


 中国ではとても好まれる字です。

 今筆を離れたかのような生き生きとしたその文字からは力強い「福」が享受できるような気がしたものです。


 玄関に飾られているその「福」に見送られ出かけて、帰ってくるとその「福」に出迎えてもらう。

 中国らしいセンスの良い玄関でした。


 住んでから数ヶ月は「書」だと思っていました。


 これがなんと「刺繍」だったのです。

 黒の布地に朱色の刺繍糸で「福」の字をいたのです。


 至近距離に近づいてみる。

 筆の一画、一筋を縫い留めるおびただしい針目。照明に照らされる光沢ある糸の力強い一画。

 刺繍だとわかっていても未だ勢いのある筆跡に見える「福」の一筆一筆。


 朱色一色で

 無数の針目で


 どれだけの時間を要したのか

 どれだけの想いをこめたのか


「福」の一文字に感じられる無限の力



 中国で刺繍は2~3千年の歴史があるそうです。

 元々刺繍は地位の象徴で皇帝の衣装に龍の刺繍をしたんだとか。

 官吏の衣服にも麒麟や虎、鶴や吉祥文様などを刺繍したそうです。


 時代が下りると観賞用や実用品も増え、人々にも広まります。

 多くの地域で盛んになりました。三大刺繍や四大刺繍と言われる刺繍の産地があります。

 汕頭スワトウ刺繍という言葉を聞いたことはありませんか?

 汕頭とは中国南部の港町です。

 繊細なレースのような刺繍でハンカチやテーブルクロスなどがお土産屋さんで売られています。とても綺麗です。


 それから蘇州スゥジョウ刺繍。こちらも蘇州という街の刺繍です。

 髪の毛の6分の1という細い絹糸を使う美しい刺繍です。

 双面刺繍というのがあります。

 通常の刺繍は布地の表は刺繍を施してあり美しいですが、裏面は糸の始末などがしてありますよね。いわば舞台裏。それが双面ではどちらの面もキレイな刺繍の面なんです。おまけに表と裏では違う図案(絵)もあるのです。どこで色を替えているのか、どこで糸の始末をしているのかもうわけがわかりません。ただひたすらに見事な芸術品です。


 友達と刺繍博物館に行ったことがありました。光に反射したシャンパングラスなんて写真にしか見えない芸術品でした。刺繍で描く中身が空の透明なガラス。人生が刻まれた深いしわの老人など。どんなに近くで見ても針目がわかりませんでした。


 ワタシたち日本人ママたちの間で大人気の刺繍がありました。

「皇帝刺繍」と呼んでいました。空港のお土産屋さんでも売られています。

 中国皇帝の衣装が刺繍してあるものです。

 先ほどもお話しましたが権力の象徴である皇帝が纏う衣服の図案です。

 人は描かれていません。衣装だけが刺繍されています。

 中国では明黄(黄色)が禁色きんじきで皇帝のみが着ることを許されている色です。

 (ちなみに日本の禁色は天皇陛下のみが着用を許される黄櫨染こうろぜんと皇太子の黄丹おうにです。東洋では黄色系が重んじられたようですね)

 その黄色に金の昇龍のデザインの長衣です。

 映画ラストエンペラーをご覧になったことがある方なら想像できるでしょうか。


 禁色の黄色の衣

 天に昇る黄金の龍

 風に揺れているかのような五色の裾


 中国駐在の想い出に購入した「皇帝刺繍」は今も我が家に飾ってあります。


 暮らしていると日本感覚でアリエナイ連発の中国で喜怒笑楽に忙しいですが、ごく身近にこんなに素晴らしい文化も混在しています。それこそ息をするかのように自然に。


 何気なく座った家具屋さんの黒檀の長椅子は何千万円と聞いて飛び上がりました。


 有名キャラクターを無許可でコピーしたりして失笑を買ったりしているけれど。


 この国の文化の底力

 生きていくために不可欠ではないけれど

 生きていく心を豊かにするもの


 書道、茶芸しかり

 家具や陶磁器などの工芸品しかり

 三国志に代表される文学作品も

 京劇、拳法、太極拳も

 万里の長城ワンリーチャンジャン

 故宮グーゴン(紫禁城)

 ワタシが知らない多くの文化芸術


 今回ご紹介したのは伝統文化のほんのひとつ


 他の追随を許さない悠久の歴史の一端ですね。



 何千年と縫い継ぐは歴史の絹糸

 絹糸が縫い描くは数千年の人びとの想い





 長き歴史、遥かなる刺繍

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