第5話 招かれざる客
空腹も満たされ、ちょっとした日用品なんかも買い揃えていたらあっという間に時間が過ぎる。外へ出たついでと顔見知りの浮浪者たちに声を掛け、往診の真似事なんかをしているともう夕暮れの気配が九龍城に迫っていた。この街の影は一気に侵食するのだ。
違法建築物の集合体であるこの街にも、唯一の縛りがある。
それは高さだ。
九龍城一帯は近隣にある大規模空港の飛行区域にあった為、あまりにも無茶な高層建築は不可能なのだ。それでも地上五十メートルはあろうかというギリギリのラインを攻め続ける建築物が後を絶たず、毎日のように巨大な旅客機がビルの頭上スレスレを通過していくという有様である。
そんな巨大な建物に圧縮された街なので、すこし陽が陰ればとたんに周囲は闇と化す。
ハザマが自宅兼診療所のあるボロアパートに戻る頃には、辺りはすっかり暗かった。
いつものように切れかけの照明を横目に長い通路を奥まで進む。ハザマの気配に気づいた野良猫たちが、蜘蛛の子散らすように逃げてゆく。
すえた臭いの立ち込める空間が、徐々に消毒液の臭いに満たされる。ヤサに近づいている証拠だ。たとえ夜目がきかなくても鼻さえあれば辿りつけるとハザマはよく自虐する。
彼はいつものように、鍵の壊れたドアノブを手探りで握った。
油の切れた蝶番。不快な軋りを立てて扉は開く。すると誰もいないはずの診療室は、すでに明かりがついていた。
それもそのはず。すでにひとは居たのである。ハザマの見知らぬ闖入者――男は壁にかかる数枚の写真に見入っていた。
「診察の予約はなかったはずだが?」
ハザマの軽口に男はすぐさま反応した。
「おっとこれは失礼。ドアが開いてましたのでね。ちょっと上がらせていただきました」
銀髪に眼鏡。柔和な印象を受けるタレ気味の目元。グッと上がった口角が、常に笑ったような表情を生み出している。四十絡みの優男といった風体。そんな彼が三つ揃いのスーツの内側に、革手袋をした右手を差し入れた。
――銃か。
ハザマはとっさに警戒したが「いやいや」と男がそれを残った左手で制した。
「この街で銃声など響かせた日には、どこの幇に目をつけられるか分かったものではありませんからね。えっと、わたくしこういう者です」
男は一枚の名刺をハザマに手渡すと、緩んでいたネクタイを締め直した。
「連邦麻薬捜査官、ロバート・ハルフォード?」
「ロブと、お呼びください。お見知り置きを」
ハザマは受け取った名刺とロブの顔を交互に見つつ、やっとのことで部屋へと入った。
紙の買い物袋を机の上に置くと、丸椅子に腰をおろしてもう一度名刺に目を通す。
高品質の台紙に箔押しされた連邦政府のエンブレム。三色刷りのインクには滲みもなくて、どうやら本物のようだった。
「で、そのハルフォード捜査官がウチになんの用事かな? ずいぶんと色白だが別に顔色は悪くないようだ」
するとロブは「ハハハ」と乾いた笑いをもらした。
「ご心配なくドクター・ハザマ。健康管理も仕事の内でして、朝食のシリアルを欠かしたことはありません。おかげさまでここ数年、医者の類にかかっていないのが自慢です」
「だったら尚更分からないな、ハルフォード捜査官。暗くなる前に帰った方がいい。と言っても、もう外は真っ暗だがね」
「ロブで結構ですよ、ドクター。それにあなたのご専門は『メメント・システム』のはずでしょう。ならばわたくしの要件にもお気づきのはずだ」
「……DDか」
「ご明察です。ドリーミングドラッグ。魔法使いの呪いとは、かくも人類に悪しき嗜好をもたらした。『ああなりたい、こうしたい』は、もはや叶えるものではなく他人の経験値から奪うもの。ここ数年では記憶盗難の被害が急増中でしてね。我々としても諸悪の根源を叩かねば、危険薬物の取り締まりもナニもないわけで」
「記憶洗浄の専門医である俺が、廃棄すべき患者の記憶を闇市に流しているとでも?」
さして動じた様子もなくハザマがそう答えると、
「まあまあドクター。焦らずに行きましょうよ」
苦笑いをしたロブはオーバーアクションで話をさえぎり、もう一度壁にかかる写真たちに目を向けた。
写真には軍服姿の男たちが写っていた。銘々違うポーズをとってファインダーに笑顔を向けている。戦闘の合間のスナップ写真といったところか。気取りがなく、誰もが皆優しい表情だった。
その中にひとり東洋系の兵士がいた。ハザマである。小銃を肩に預け、立膝で座っていた。髪型はいまと違ってかなり短い。丸刈りと言っても差し支えないだろう。
「クロウ・ハザマ准尉。三年前まで南米紛争に軍医として参加。戦場でPTSD(心的外傷後ストレス障害)に悩まされる兵士たちに記憶洗浄を施すかたわら、自らも銃を手に前線を駆け巡っていらっしゃったとか」
「よくご存知で」
「お会いする相手のことを調べるのも仕事でしてね。お気に障りましたか?」
「いんや。仕事熱心なこった」
声を荒げることなくそう言うと、ハザマはタバコに火をつけた。『ブラック・サバス』で二箱買ったが、すでに一箱を消費している。
ロブはズレた眼鏡を指で押し上げると、渋い表情を見せた。
「まあ我ながら因果な商売を選んだものです。お互いこの呪いには振り回されますな」
「呪いねぇ……お役人がそう言ってんなら間違いないんだろうが、説明のつかないものを魔法の一言でくくっちまうのはどうも好かねぇな」
「おや? 魔法否定派の方でしたか。お珍しい」
ロブの糸目がカッと見開いた。まるで宇宙人にでも出くわしたような反応だ。
「しかし十二世紀から始まる教会の異端審問で、『魔法使い』と呼ばれた技能者たちが居たのはどうやら間違いないらしいですよ。時代を経て次第に彼らへの糾弾が強まるなか、魔法使いたちは大西洋上に逃げ場を作った。よりにもよってかの伝説になぞらえたかのような場所をね」
「アトランティスか」
「その通り。きっかけは十五世紀に活性化した魔女狩りです。教会だけではなく、善良な一般市民までもが彼らを火にかけた。誰もが隣人を疑った時代です。当時嫌疑をかけられ犠牲になったのは数百万人とも言われています」
「無知ゆえの愚かな過ちだな。もっと話し合いは持てなかったのだろうか」
「それは無理な話でしょう。詳しくは分かりませんが、彼らと教会とでは考え方が真っ向から対立していたそうですから。ま、もっとも愚かしい過ちを犯してしまったのは、結局のところ魔法使いたちの方でしたがね」
ロブは両手を挙げ、首をすくめるポーズをとった。
ハザマは間を置かずに相づちを打つ。
「アトランティスの爆発事故」
「まさしく現代に蘇った原罪です」
「原罪か――」
タバコの灰がポトリと床へ落ちた。火種はすでにフィルター近くまで来ている。
「おりしも世界大戦が終息に向かわんとする頃、連邦政府とロマノフ王朝が平和協定に調印しようかというタイミングでした。一九四五年の八月六日。真夜中の大西洋で人類史上最悪の爆発事故が発生しました。島の内部から立ち上る巨大なきのこ雲と閃光。当夜、周辺海域を哨戒していた偵察機が撮影に成功しています」
「教科書で見たな」
「ええ。連邦政府の発表した公式見解では、世界協定が樹立すれば数世紀にわたって続いてきた彼らの平穏が脅かされると考えたすえの集団自決となっております」
「自決か。それにしても規模がデカイ」
「まったくです。さらに呪いというオマケ付きときていますからねぇ」
「呪いか……一体なんだってんだろうな」
昨日の夜まで酔さんが横たわっていた診察台。そしてヒビだらけの壁を見つめてハザマはため息をついた。
「一説によりますとあの爆発。どうやら核が使用されたそうですよ。いまだ我々が実用段階に至っていないというあの核エネルギーを」
「なんだって? そりゃ初耳だ。だとしたらこの脳機能不全の原因がもしかすると――」
長々と続いた与太話に、ようやくハザマが食いついた時だった。
「話を本題に戻しましょうかドクター」
ロブの表情がにわかに変わる。
口元は相変わらずニヤけていたが、どこか全身より不穏な気を放っているようだった。
革手袋をはめたままの右手で再びスーツの内側からなにかを取り出した。それは一枚の写真。ごく最近プリントアウトされたようで、見た目にも色あせがない。「実は……」と枕を付けて、
「この少女の記憶を買い戻したい」
ロブは不自然なほど高圧的な口調でそう言った。
そこに写っていたのはひとりの少女だった。歳の頃ならまだ一二、三といったところ。腰まで伸びるブロンドはやや桜色を帯び、美しいウェーブがかかっていた。身体にストレスのかからないローブのような服を身にまとい、静かに椅子に座っていた。
ハザマはその顔に見覚えがあった。右目の下にあるホクロが印象的で。
「こ――」
反射的に「この娘は」と口走りそうになり、言葉を飲み込む。どうしてそうしなければならなかったのか自分でも理由は分からなかったが、このロバート・ハルフォードという男の前で例の夢のことを話すのは得策ではないと直感したからだ。
ハザマは二本目のタバコをふかしながら、素っ気ない態度で写真を返す。
「こんな娘は知らないな。それに買い戻すと言われてもね。洗浄を依頼された記憶の廃棄は医者の義務だ。残念だが無駄足だったな、ハルフォード捜査官」
「そうですか。いやいやこれは時間を浪費させてしまいましたねドクター。これでも確かな情報を追ってきたつもりなんですが」
「確かな情報?」
「ここ数年、魔法使いになれる系のDDが流行ってましてね。そのほとんどが偽造データなんですがごくまれに『本物』が存在するとまことしやかに囁かれてまして」
「『本物」だと?」
「そうです。本物の魔法使いの記憶。あるはずのない『メメント・システム』誕生前の記憶データがです。捜査の関係上、それとこの少女の関係を詳しくお話することはできませんが――」
「夢にこの娘が出てくる、とでも?」
「ご推察の通りです」
怪しい微笑みをたたえるロブの口元が、さらにいびつに持ち上がる。眼鏡の奥、すこし開いた糸目は鈍い光を宿していた。
「まあ、あくまでも噂です。実はこの少女の写真も、よく出来てはいますが合成です。実在するかどうかも怪しいところですよ」
「……そうかい」
「で、どうやってあなたにたどり着いたかというとですね――」
そこまで言ってロブの胸元から不快な電子音が鳴った。よくあるデフォルトの着信メロディ。彼はハザマに「失礼」と一言かけてから電話に出た。懐から取り出したケータイは旧型で、ずんぐりと大きく手のひらにやや余る感じ。最新の機種と比べると倍ほどの厚みを持つが、ロブあたりの世代にはこれくらいのほうが馴染みがあるらしかった。
「すみませんドクター。お話の途中ですが、上司に呼び戻されまして」
「いや。別にこっちにはもともと用事ないから」
「ハッハッハ。これは手厳しい。まあアレです。こちらからもひとつご忠告を」
ロブは半開きになっていたドアに手をかけて、背中越しにハザマに言う。
「悪事は長続きしませんよ。今日は見逃しますが、次は分かりません。さきほどの件も協力する気がおありならご連絡ください。見返りになんらかの法的取引に応じましょう」
ロブは闇へと消えていった。
ひとり残された診療室に、時計の針が動く音だけが響く。ハザマは気持ちを落ち着かせようとかぶりを振って、机上の紙袋に手を差し入れた――。
「そうそう、もうひとつだけ」
突然ドアの隙間から顔を出したロブ。ハザマの動きは固まった。
「今度お会いする時は、ぜひロブとお呼びください」
ハハハと笑う彼の声が、照明もまばらな通路にこだまする。
心底肝を冷やしたハザマは、全身から嫌な汗が噴き出すのを止めることができない。ズクズクになった額を拭い、紙袋に突っ込んだままの右手を引き抜いた。
そこに握られていたもの。それはオジーに頼んで手に入れた「アレ」だった。
アンプルと注射器のセットが二本ずつ。
それは悪夢へと繋がるドアの鍵。
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