第3話 夢を見た

 視界を覆い尽くすいっぱいの緑色。それが大草原だと気づいたのは、自分の身体が浮遊していると認識した直後だった。よく晴れた無限の蒼穹。見下ろす肥沃な大地。

 ハザマはいつものように汚れた白衣を身にまとい、両手を広げ空を飛んでいた。

 眼下には牛や馬、羊などが放牧されている牧草地。小川が流れ、水車を回している。

 雄大な自然がただそこにはあった。

 時間はゆっくりと穏やかに流れてゆき、太陽だけがその日の予定を知っていた時代。

 光が心地よかった――。

 どこへ続いているのだろうか、長い一本道がある。

 その道の真ん中を、土埃をあげて荷馬車がゆく。一頭立ての小さな馬車だ。溢れんばかりの牧草を載せて。ゆらゆら、ぐらぐら。ちょっとした小石に乗り上げただけでも転びそうだった。だがそれでも馬子は動じない。手綱を持つ手に年季を感じる。

 荷台には牧草ともうひとつ。いや、ひとであるからもうひとり。

 大きなつばの帽子を被ったワンピース姿の少女が乗っていた。脚を荷台の外に投げ出して、揺られるに任せてプラプラとさせている。

 時折吹く風に帽子を飛ばされそうになりながら、彼女は何処かへと旅立ってゆく。

 荷馬車が揺れるたび、周りの風景が変化していった。

 最初は点在するだけだった民家が増え、急速に村や町へと発展していく。そのうち建物はどんどん近代化され、気がつけば辺りはあっという間にビルの森になっていた。

 荷馬車もいまでは大型トラックに変わっている。いつしか少女の姿は消えていた。

 風が変わった。

 ハザマの背後から突風が吹いた。それと共に数名の人影が彼を追い越していく。

 上空で。

 彼らは、箒に乗って飛んでいたのだ。

「魔法……使いか……」

 ふいに酔さんの言葉が頭をよぎる。

 星空の下。闇夜に浮かび上がる摩天楼に、箒の大群が飛び交っていた。その姿は銘々違っており、ハザマの思うトラディショナルな風貌の老人もいれば、スーツ姿のサラリーマンもいた。年齢、性別、人種の別もなく、ただ共通しているのは箒に乗って飛んでいるという一点のみである。

 そんな彼らが向かう場所。それは巨大な塔だった。

 ハザマはいま自分がいる場所も、その規模も知らない。だが直感的にあの巨塔がすべての中心であることは分かった。周りの建造物とは明らかに異なる存在感。都会的に洗練されたビル郡が、まるでミニチュアのセットに見える。例えるならブリューゲルのバベルの塔といったところか。

 そう言えば――。

 彼女はどこへ行ったのだろうと、ハザマは周囲を見渡した。

 宵闇に浮かび上がる幻想的な光景。頭上には満月が煌々と輝き、地上には星々よりも明るい街が横たわる。その間には魔法使いが飛び回り、遙かなる塔を目指している。

 自分だけが唯一ここに馴染まなかった。

 ふと何かの気配に気づき、後ろを振り返る。するとそこにはあの少女の姿があった。

 やはり大きなつばの帽子を被り、白いワンピース。箒に横座りになって、ハザマをじっと見つめている。歳の頃ならまだ十代だろうか。西洋人の顔立ちと大きな瞳。腰まで伸びたウェーブヘアはピンクがかったブロンドである。右目の下には小さな泣きボクロ。

 そして形のいい薄めの唇が、にわかに笑みをはらんだままなにかを言っていた。

「え?」

 聞き返そうとハザマは半身を彼女に向けるが、突如として後方から鳴り響いた轟音に声は掻き消されてしまった。慌てて振り返ったハザマだったが、彼の視界は巨大な光に満たされていた。それ以外は何も見えない、認識すらできない。上も下も分からなければ、左右もない。自分の肉体が存在しているのかさえ曖昧だった。

 ただ意識だけがそこにあり、己の感覚だけがいまある世界のすべてだった。

 そうだ、彼女は――。

 ハザマはあの少女の姿を探した。光しか存在しない世界で視界を巡らせる。

 居た。

 空間の概念さえ消失してしまったいま正確なところは分からないが、彼女との距離は十メートルほどか。とにかく居た。先ほどと同じく、箒の上に静謐な佇まいで座っている。物憂げな表情に微笑みをしのばせハザマのほうを向いている。

 思わず手を伸ばした。動き方も分からない空間で、ハザマは全力で彼女に近づこうと。泳ぐとも飛ぶともつかない無様な動きだったと彼は思う。見えない手足を必死でバタつかせたのだ。

 その時だった。

 突如視界に現れた自分の腕が、指先から順に溶けていくのを目の当たりにした。皮膚が泡立ち肉が膨れ、紐でも解くかのように神経がむき出しになっていく。沸騰した血液が、血管を突き破り噴出している。そしてついには白い骨が現れた。

 アツイ――!

 身体が信じられないほど熱かった。痛みは痛覚の限界を超えていた。

 両腕が溶けきると次は肩が、胸が、首が。

 まるで鏡でも見ているかのようにどんどん自分が溶けているのが分かる。

 髪が抜け、顔中の皮膚が熱したバターよろしく溶け落ちていく。そしてむき出しとなった骸骨から、目玉がでろんとこぼれ落ちた。


「ぅあああああああああああああああああああ!!!」


 身体を起こすと目の前にはヒビ割れたコンクリートの壁があった。

「あ……」

 ハザマは硬い診察台の上にいた。大草原も、都会も、塔もない。

 荒い息遣い。全身から汗が吹き出ていた。

 慌てて診察台から飛び降りると、壁にかかる鏡に向かって走りだす。転けつまろびつ、大して広い部屋でもないのに、たどり着くまでやたらと手間取った。

 やっとのことで覗いた鏡にはいつもの自分の顔が映っている。

 浅黒い肌に分厚い唇。東洋人にしてはやや濃い顔立ちで、ボサボサの黒髪も抜けてはいない。無精ヒゲを擦る手も、しっかり生えていた。

「ゆ……夢か……」

 崩れるように脱力して膝から倒れこんだ。

 深いため息をひとつ。床を見ると空っぽになった数本の酒瓶が転がっている。無論そのうちの一本は酔さんが置いていった品である。ハザマはその空瓶を拾い上げてラベルを見た。やはり知らない銘柄だったが、そこに描かれていたローブ姿の少女の絵に苦笑した。手には箒を持ち、三角の帽子を被って。

「魔法使い……。ケッ! バカバカしい」

 吐くようにつぶやいたハザマは手にしたそれを放り投げる。

 うろんな瞳で時計を見上げると、すでに正午は過ぎていた。

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